僕に名前をください

鈴原りんと

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Name7:愛

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 寒々しい空だった。日が落ちるのが随分と早くなり、夕映えは既に紫色を帯び始めていた。

 部活動に励む生徒たちの声を聞きながら、僕と立花さんは屋上で遠くの空を眺めていた。錆びたフェンス越しに見える世界は、ひどく物寂しいように感じられた。

「……愛來、歩けなくなっちゃったんだってね」

 フェンスの隙間にそっと指を通しながら、立花さんが言う。あの翌日に目覚めた碓氷さんが力なく笑いながら「歩けなくなっちゃった」と言ったのを思い出し、僕は消え入りそうな声で「うん」と答え頷いた。

「なんだよ暗い顔してさ。愛來が見たら悲しむぞ」
「……分かってるよ。なんとなく、明るい気分になれないだけさ」

 少しだけ叱るように顔を覗き込んできた彼女から目を逸らし、僕は素っ気なく答えた。

 矢代に碓氷さんへの気持ちを気づかされ、彼女が歩けなくなって……正直、色々なことがあって疲労感が体を支配していた。心の奥をもやもやと渦巻くこの気持ちが、まだよく理解できない。
 本当に僕は、碓氷さんのことがそういう意味で好きなのだろうか。あの時は理解したつもりだったが、いざ考えてみると何一つ本質を分かっていないような気がする。

「アンタさ、愛來への気持ちに気づいたわけ?」

 沈みかけた夕陽を眺めながら、立花さんが尋ねてきた。

「さぁ?よく分かんない。僕は愛を知らない人間だから、これが本当に人を思う気持ちなのか正直分かってない」
「難しく考えてんだなぁ。アンタが愛來のこと好きだって思ったならそれでいいじゃん」
「……そういうもの?」
「そうさ。人を愛することに理由なんていらないってよく言うだろ?」

 立花さんは白い歯を見せてニカリと笑う。

 矢代も立花さんも、物事を簡単に考えられて心底羨ましい。自分の知らないことになると、いつも以上に頭が固くなるのは僕の悪い癖だ。

「きっと、アンタにもすぐ分かるでしょ。……アンタはもう、欲しかったものはとっくに手に入れてると思うしね」

 立花さんはふっと優しい微笑を湛え、どかりと屋上の床に座り込んだ。座れと促されたから、僕も彼女の隣に腰を下ろす。
 普段テンションの高い立花さんがしばしの間黙り込み、どこか遠くを見つめるような表情をする。何か話したいことがあるのだと察した僕は、彼女が口を開くのをぼんやりと待っていた。

「……愛來の病気のことなんだけどさ」

 立花さんがようやく口を開いた。まだ本題を聞いていないのに、胸がざわつく。口の中が急速に乾いた。

「段々と、体の機能が停止していく病気なんだって」

 か細い声で紡がれたそれは、ずっと明かされなかった碓氷さんの病気の症状だった。漠然としていてすぐに頭で理解できなかったが、徐々にその重みを実感し始める。

「筋肉も臓器も、病気が進行すればいずれは全部動かなくなるって。もちろん、脳や心臓も例外じゃない。似たような病気がこれまでにあったけれど、それとはまた違う原因不明の病気――つまりは難病なんだって。だから、具体的な治療法も見つかってないんだ」

 膝を抱えて顔を埋めながら、立花さんは震えた声で続ける。

「治療法がない代わりに、延命のための手術はあるんだ。でも、肝心の愛來の体が手術に耐えられないんだってさ。……今、いくつの臓器が止まり始めてるんだろうね」
「……っ」
「まだ明るく過ごせてるってことは、完全に停止しているのは少ないかもしれないけれど、前に比べて弱っているのは確かかな。最近はさ、前に比べて表情の変化も少なくなったし、お見舞いに行っても寝てることが多いんだ。そして、とうとう足まで動かせなくなっちゃったんだ、タイムリミットが近づいてきたのかもね」

 震えて涙ぐんだ声に、胸が痛くなる。じりじりと締め付けられているみたいで、呼吸が苦しくなった。

「愛來はさ、少しだけ死ぬ覚悟ができたって言ってたんだ。いつ死んでもそれが運命なんだって受け入れるって。でもそれは、あの子なりの強がりなんだってすぐ分かったよ。愛來ってわりと顔に出やすいから、ずっと沈んだ顔してたし」

 立花さんは無理やり悲しみの感情を抑え込むように立ち上がる。一粒だけ落ちた雫は、きっと彼女のものだろう。

「……でもさ、暗い表情ばかりのあの子があんなに笑顔になれたのは、アンタのおかげだね」
「そうだといいけどね。結局のところ恋人らしいことなんて全然できてないし、未だに好きとか愛してるとかよく分かんないから、碓氷さんからしたら満足できていないかも」

 僕ものんびりと立ち上がり、自嘲気味に笑って答える。

「そうかな。あたしは愛來は充分満足してると思うよ。……アンタもいい加減、愛されてないとか愛が欲しいとか考えすぎちゃうのどうにかしなよ」
「何でそれ知ってるの?」

 立花さんには、両親に捨てられたことや求める愛の話をしたことがなかったはずだ。問えば、立花さんはしたり顔で言う。

「あたしの勘だよ。アンタ、愛を知らないし理解できないって言いながら、めちゃくちゃ誰かに愛されたそうな顔してるからさ。そのくせ、自分は誰かに絶対愛されないって諦めたような雰囲気もしてるし。いや、まぁあたしの想像でしかないんだけどさ。……アンタは、もうとっくに愛されてるっていうのにね」

 驚いた。
 僕は、立花さんにそう見られていたのか。顔には出ないタイプだと思っていたし、そういう悲観的な感情を醸し出しているつもりもなかった。

 立花さんの言う通りだ。
 僕は両親に捨てられた瞬間から、もう誰にも愛されていないと思っている。この先何をしたって、求めるものは手に入らないかもしれない。
 だけど、僕は愛されたくてたまらない。代わりに得てきた依頼での感謝じゃなくて、ただ純粋に誰かに愛してほしかったんだ。

「……そっか」

 納得したように目を伏せる。未練タラタラの女子みたいだ。きっと誰かにこれを言ったら重いと言われそうだ。
 立花さんは複雑そうに笑うと、僕に何かを差し出してきた。
 それは、以前どこかで見たチケットと、橙色の熊のキーホルダーだった。

「なにこれ?」
「お礼。言ったでしょ?依頼が終わっても愛來と仲良くしてやってって。あれはあたしの依頼みたいなもんだからさ」

 首を傾げた僕に、立花さんは押し付けるようにチケットとキーホルダーを握らせた。キーホルダーには、彼女の名前のイニシャルが刻まれている。

「あたし、アンタのこと好きだよ。もちろん、友達としてね」

 冷ややかな風を受けて、立花さんは微笑しながらそっと目を伏せる。素直で嘘のない彼女の言葉が、静かに心に入り込んでくる。

「アンタの考える愛とやらがどんなものか分からないけど、ここにアンタを愛した人が一人いたことは覚えといて」
「……君のことは死んでも忘れないだろうね」
「ふはっ、そりゃ光栄だ」

 からかい混じりに笑えば、立花さんは眩しいくらいにはにかんだ。
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