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7章 目覚め
電話
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意識が浮上する。
視界がクリアになり、見慣れない景色が映し出される。
肌触りの良いシーツ、品のある装飾の照明、そして、目の前では相良がすやすやと眠っていた。
(あ…、そうだ…。昨日…。)
一晩眠ると、まるで現実感がなかった。
それでも、目の前の人物がそうではないと言っている。
心地よい体温。
気持ちいい。
こんな目覚めは初めてかもしれない。
何もない毎日だった。
幼い頃から、灰色の世界を生きてきた。
いつもいつも、渇いていて。
相良の側は満たされる。
どうしようもない渇きが、満たされるのだ。
「佐良…さん…。」
まだ眠ったままの佐良に小さく呼びかける。
佐良は目覚めない。
そっと、頬にかかる髪に触れる。
染めたりしていない髪は黒いままだ。
以前、何となく白髪はないのか聞いたら、出来にくい体質なのか殆どないと言っていた。白髪でない人は禿げやすいと聞いたことがあるけど、佐良はどうなんだろうか。今のところ、可能性は低そうだけど。
「佐良さんが禿げたら、嫌だなぁ…。」
髪の薄くなった佐良を想像して、思わず一人で笑う。別に、髪を好きになったわけじゃないからいいけど。
(あぁ、好き…なんだな…。)
好きという感情は知らなかった。
ましてや愛など全くもって分からなかった。
それは幼少期の環境がそうさせたのか。
あるいは生まれ持った鈍さなのか。
その癖、いつも飢えていた。
いつも何かを欲していた。
その何かは自分でも分からないのに、欲しいという感情だけが体中を焼いていく。
あの渇望感は何とも言えない苦しさだ。
「…でも、どうしよう…。」
触れてしまった。
気づいてしまった。
知ってしまった。
もう、知らなかった頃には戻れない。
ただ渇いていたあの頃には戻れないのだ。
「…大丈夫だよ。いなくならないから。」
もぞ、とシーツから腕が伸びて体を引き寄せられる。眠っていると思っていた佐良は、いつの間にか目覚めていた。
至近距離、10センチくらいの距離に佐良の顔がある。ぱちりと開かれた瞳が、こちらを見つめていた。
「さ、がらさん…。いつから起きて…?」
「今。どうしようって聞こえたから。」
「起こしちゃいました?」
「いや?自然に起きた。」
「まだ、6時ですよ。」
「オッサンは朝が早いんだよ。」
「じゃあ、私はオバサンですか。」
「いーや?10代に見える…時もある。」
クスクスと笑い合う。
しかし、佐良の少しだけ低い声が妙にリアルで、日中と夜の相良しか知らない所為か緊張してしまう。
自分の知らない一面。
それを知ったことへの満足感。
そして、どうしようもない、罪悪感。
「なんか、佐良さん…いつもと違いますね。」
「そう?え、加齢臭する?」
「違いますよ。その、なんか…見慣れないというか…。」
「それはそっちもでしょ。だってさ、今の自分の格好、分かってる?」
「…そういうこと、言わないでください…!」
「朝からムラムラさせないでくれる?」
「し、仕方ないじゃないですか…!」
佐良がケラケラと笑って上体を起こす。
反射的にビクッと反応すると、佐良が呆れたように笑った。
「あのなぁ…。人を理性のない怪物みたいに思ってない?」
「いや、その…何となく…?」
「…まあ、それしかしてこなかった俺が悪いんだけどさ。」
ふぅ、とため息を吐いて頭を掻きながら、佐良は困ったように笑いかける。
「まぁ、信じられないかもしれないけど、大切にしたいと思ってたんだ。ずっと。」
「…信じますよ。」
「嘘つけ。いつも泣きそうな顔してただろ?」
そうかもしれない。そう思った。
自分ではそんなつもりはなかったけど。
いつも何も感じてないと思った。
言動にも、無感情だと感じていた。
ただ、何となく、彼の言葉には従ってしまう自分がいたのは確かだ。そして、彼に異常な渇きを覚えていたのも事実だった。
それは倒錯的で強烈な欲望だった。
「佐良さんに…、愛されたかったんでしょうか…?」
自分は佐良を好いている。
それに気づくことは出来た。
でも、相手を好きであることと、相手に同等の感情を向けて欲しいと望むことは同義なのだろうか。
それでも、佐良がそういうのならそうなのかもしれない。物質的な触れ合いだけではなく、感情を向けて欲しかったのかもしれない。
「じゃなかったら、俺が悲しいんだけど?」
「だって、佐良さんは…」
「うん、まあ、家庭はある…。このままじゃいけないとも思ってるよ。」
家庭。
佐良には愛する女性がいる。
それは当然、理解しているし、それを壊そうとも思ってなかった。
結果、自分の欲望に負けたのだから言い訳のしようすすらもない。
「佐良さん、私は佐良さんの家を壊したくない。今更、ですけど…。」
「俺だって、妻を悲しませたくはないよ。」
そう言って、佐良は黙り込んだ。
悲しませたくないなんて言っても、結果はこの通りだ。
自分は佐良と奥さんがどのような関係なのかも全く知らない。顔も、声も、名前すら知らない、佐良の愛する女性。
それでも、見ず知らずの人の幸せを奪いたいわけじゃなかった。
「佐良さんは、悪くないです。」
「…悪いよ。」
「だって、同情してくれたんじゃないですか?」
「俺が、君に?」
「職場でも上手く馴染めてない、仕事も要領を得ない部下ですから。」
「それは…、それこそ俺が悪いじゃないか。」
「あの日、酔ってたんですよ。佐良さんは。それなのに、あんな風に無防備で、無神経でした…。」
今なら、何とか戻れるかもしれない。
甘い夢は心地よく、ずっと浸っていたいけど、佐良を好きだから。
佐良に触れていたい、いつも側にいたい、その気持ちは強くなる一方だ。
でも、知ってしまったのだ。
気づいてしまった。
「佐良さん…。佐良さんのことが好きなんです。佐良さんの幸せを願っているんです。」
「それは…どういうこと?俺だって、君の幸せを願ってる。」
「嬉しいです。すごく…。こんな風に大切にされたこと、なかった…。」
「まさか。君みたいな美しい子が?」
「美しくなんてないですよ。」
美しいなんて、感じたことはなかった。鏡に映る自分は、いつも醜かった。
自分を美しいと形容して、触れてくる人間も皆、醜かったけれど。
「佐良さんは、初めて惹かれた人です。何故かは分からなかったけど、匂いというか。」
「それ、前も言ってたね。俺も同じようなことを思ってたよ。君が異動してきてからずっと。」
佐良がそっと手を伸ばして、その手がこちらの髪に触れる。優しく滑る指先が心地よくて、流されてしまいそうになる。
「今思えば、一目惚れなんです。一目惚れってそういうものでしょう?」
「…確かに、そうだけど。」
「初めてだったんです。目が離せない人って。佐良さんのこと、いつも探してました。」
「…そうなの?俺は、視界に入れないようにしてたよ。変な気持ちになるから。」
「変な気持ち?」
「…誤解するなよ。俺は基本は淡白なタイプなの。でも、ムラムラするんだよ。」
「…そう、ですか…。」
「あ、何ちょっと引いてるんだよ。だいたい無防備なんだよ、ちょっとは自覚を…」
「はい。だから、佐良さんは悪くないんです。無防備なのが悪かったんです。」
佐良がしまったというような、バツが悪いと言わんばかりの表情で視線を逸らした。
そんな佐良にニコリと微笑む。
「今なら、戻れます。」
「…何言って…。」
「今なら、幸せな思い出だけで終わらせることができる。」
「…俺が、君を手放すとでも…?」
「手放してください。最後のお願いです。」
「やめろ…。」
「それとも、こんなに幸せな気持ちをくれたのに、自ら手を離せというのですか?」
「じゃあ、こんな話はなしだ。確かに、家庭もあるけど…」
「佐良さんを不幸にしたくない。でも、佐良さんを嫌いになれないんです。だから、佐良さんが嫌ってくれたら…、いや、切ってください。佐良さんの幸せを選ばせてください…!」
「…それは、ずるいよ…。」
どさり、腕で顔を隠すように、佐良はベッドに転がる。
表情は分からない。
身勝手な言い分に怒っているのだろうか。
それでも、これだけは曲げられなかった。
自分は気づいてしまったから。
佐良を好きになってしまった。
佐良に快だけではなく、安らぎを、愛を注がれたことで、佐良を愛していることを知ってしまった。
だからもう戻れない。
自分本位の関係には戻れない。
これが、罰だ。
一度知った幸せを、手放すことほど辛いことはない。
初めからないのと、手にしてから失うのとでは雲泥の差がある。
でも、初めから手にしてはいけないものだった。
罪の花は果実を宿した。
甘い甘い甘美な味は、圧倒的な幸福の代わりに、世界の色を奪っていく。
けれども、それが当然でありそうでなくてはならない。
「佐良さん…。ごめんなさい。」
あなたを苦しみに巻き込んでしまって。
「謝らないといけないのは…、俺だ。中途半端なことをして、傷つけたんだ。」
「でも…、幸せでした。」
渇いた空気が、部屋の中へ流れる。
美しく豪華な部屋は美しいままに、それでも何か非現実的で異質だった。
佐良がちらっとこちらを見る。
そして、少し微笑んで、それから悲しそうに目を伏せた。
「さよならだ。」
諦観した声色で、けれどはっきりと佐良は告げた。
自分で催促しておきながら、胸がギュッと締め付けられる。ズキン、と明確な痛みを感じた。
「…っはい。ありがとう、ございました…。」
「さよなら」なんて、こんなに辛い言葉だったのかと思う。何気なく使ってきた言葉なのに。
今思えば、佐良が口にすれば、どんな言葉も特別だった。まるで、全てを掌握しているかのように、彼の言葉は強く強く、自分の手綱を握っていた。
だから、今回も大丈夫だ。
彼が言ってくれたのなら、従えるだろう。
---ピリリリリリリ
急に電子音が鳴り響き、ぼんやりとした思考が引き戻される。
音の発生源に視線を向けると、佐良のスマホが着信を知らせていた。
佐良が静かにスマホを手にして、応答する。
「はい」
「-----」
「え?いつ…ですか?」
何か切羽詰まったような佐良の声音に、電話の内容が只事ではないと悟る。
電話に応答する佐良をソワソワしながら待っていると、1、2分で佐良は電話を切った。
「…どうしたんですか?」
神妙な顔をしたまま、スマホの画面を見つめる佐良に声をかける。
ゆっくりと、佐良がこちらへ視線を移した。
表情が強張っている。
「…妻が…、事故に合って緊急搬送された…。すぐに手術になるらしい。」
視界がクリアになり、見慣れない景色が映し出される。
肌触りの良いシーツ、品のある装飾の照明、そして、目の前では相良がすやすやと眠っていた。
(あ…、そうだ…。昨日…。)
一晩眠ると、まるで現実感がなかった。
それでも、目の前の人物がそうではないと言っている。
心地よい体温。
気持ちいい。
こんな目覚めは初めてかもしれない。
何もない毎日だった。
幼い頃から、灰色の世界を生きてきた。
いつもいつも、渇いていて。
相良の側は満たされる。
どうしようもない渇きが、満たされるのだ。
「佐良…さん…。」
まだ眠ったままの佐良に小さく呼びかける。
佐良は目覚めない。
そっと、頬にかかる髪に触れる。
染めたりしていない髪は黒いままだ。
以前、何となく白髪はないのか聞いたら、出来にくい体質なのか殆どないと言っていた。白髪でない人は禿げやすいと聞いたことがあるけど、佐良はどうなんだろうか。今のところ、可能性は低そうだけど。
「佐良さんが禿げたら、嫌だなぁ…。」
髪の薄くなった佐良を想像して、思わず一人で笑う。別に、髪を好きになったわけじゃないからいいけど。
(あぁ、好き…なんだな…。)
好きという感情は知らなかった。
ましてや愛など全くもって分からなかった。
それは幼少期の環境がそうさせたのか。
あるいは生まれ持った鈍さなのか。
その癖、いつも飢えていた。
いつも何かを欲していた。
その何かは自分でも分からないのに、欲しいという感情だけが体中を焼いていく。
あの渇望感は何とも言えない苦しさだ。
「…でも、どうしよう…。」
触れてしまった。
気づいてしまった。
知ってしまった。
もう、知らなかった頃には戻れない。
ただ渇いていたあの頃には戻れないのだ。
「…大丈夫だよ。いなくならないから。」
もぞ、とシーツから腕が伸びて体を引き寄せられる。眠っていると思っていた佐良は、いつの間にか目覚めていた。
至近距離、10センチくらいの距離に佐良の顔がある。ぱちりと開かれた瞳が、こちらを見つめていた。
「さ、がらさん…。いつから起きて…?」
「今。どうしようって聞こえたから。」
「起こしちゃいました?」
「いや?自然に起きた。」
「まだ、6時ですよ。」
「オッサンは朝が早いんだよ。」
「じゃあ、私はオバサンですか。」
「いーや?10代に見える…時もある。」
クスクスと笑い合う。
しかし、佐良の少しだけ低い声が妙にリアルで、日中と夜の相良しか知らない所為か緊張してしまう。
自分の知らない一面。
それを知ったことへの満足感。
そして、どうしようもない、罪悪感。
「なんか、佐良さん…いつもと違いますね。」
「そう?え、加齢臭する?」
「違いますよ。その、なんか…見慣れないというか…。」
「それはそっちもでしょ。だってさ、今の自分の格好、分かってる?」
「…そういうこと、言わないでください…!」
「朝からムラムラさせないでくれる?」
「し、仕方ないじゃないですか…!」
佐良がケラケラと笑って上体を起こす。
反射的にビクッと反応すると、佐良が呆れたように笑った。
「あのなぁ…。人を理性のない怪物みたいに思ってない?」
「いや、その…何となく…?」
「…まあ、それしかしてこなかった俺が悪いんだけどさ。」
ふぅ、とため息を吐いて頭を掻きながら、佐良は困ったように笑いかける。
「まぁ、信じられないかもしれないけど、大切にしたいと思ってたんだ。ずっと。」
「…信じますよ。」
「嘘つけ。いつも泣きそうな顔してただろ?」
そうかもしれない。そう思った。
自分ではそんなつもりはなかったけど。
いつも何も感じてないと思った。
言動にも、無感情だと感じていた。
ただ、何となく、彼の言葉には従ってしまう自分がいたのは確かだ。そして、彼に異常な渇きを覚えていたのも事実だった。
それは倒錯的で強烈な欲望だった。
「佐良さんに…、愛されたかったんでしょうか…?」
自分は佐良を好いている。
それに気づくことは出来た。
でも、相手を好きであることと、相手に同等の感情を向けて欲しいと望むことは同義なのだろうか。
それでも、佐良がそういうのならそうなのかもしれない。物質的な触れ合いだけではなく、感情を向けて欲しかったのかもしれない。
「じゃなかったら、俺が悲しいんだけど?」
「だって、佐良さんは…」
「うん、まあ、家庭はある…。このままじゃいけないとも思ってるよ。」
家庭。
佐良には愛する女性がいる。
それは当然、理解しているし、それを壊そうとも思ってなかった。
結果、自分の欲望に負けたのだから言い訳のしようすすらもない。
「佐良さん、私は佐良さんの家を壊したくない。今更、ですけど…。」
「俺だって、妻を悲しませたくはないよ。」
そう言って、佐良は黙り込んだ。
悲しませたくないなんて言っても、結果はこの通りだ。
自分は佐良と奥さんがどのような関係なのかも全く知らない。顔も、声も、名前すら知らない、佐良の愛する女性。
それでも、見ず知らずの人の幸せを奪いたいわけじゃなかった。
「佐良さんは、悪くないです。」
「…悪いよ。」
「だって、同情してくれたんじゃないですか?」
「俺が、君に?」
「職場でも上手く馴染めてない、仕事も要領を得ない部下ですから。」
「それは…、それこそ俺が悪いじゃないか。」
「あの日、酔ってたんですよ。佐良さんは。それなのに、あんな風に無防備で、無神経でした…。」
今なら、何とか戻れるかもしれない。
甘い夢は心地よく、ずっと浸っていたいけど、佐良を好きだから。
佐良に触れていたい、いつも側にいたい、その気持ちは強くなる一方だ。
でも、知ってしまったのだ。
気づいてしまった。
「佐良さん…。佐良さんのことが好きなんです。佐良さんの幸せを願っているんです。」
「それは…どういうこと?俺だって、君の幸せを願ってる。」
「嬉しいです。すごく…。こんな風に大切にされたこと、なかった…。」
「まさか。君みたいな美しい子が?」
「美しくなんてないですよ。」
美しいなんて、感じたことはなかった。鏡に映る自分は、いつも醜かった。
自分を美しいと形容して、触れてくる人間も皆、醜かったけれど。
「佐良さんは、初めて惹かれた人です。何故かは分からなかったけど、匂いというか。」
「それ、前も言ってたね。俺も同じようなことを思ってたよ。君が異動してきてからずっと。」
佐良がそっと手を伸ばして、その手がこちらの髪に触れる。優しく滑る指先が心地よくて、流されてしまいそうになる。
「今思えば、一目惚れなんです。一目惚れってそういうものでしょう?」
「…確かに、そうだけど。」
「初めてだったんです。目が離せない人って。佐良さんのこと、いつも探してました。」
「…そうなの?俺は、視界に入れないようにしてたよ。変な気持ちになるから。」
「変な気持ち?」
「…誤解するなよ。俺は基本は淡白なタイプなの。でも、ムラムラするんだよ。」
「…そう、ですか…。」
「あ、何ちょっと引いてるんだよ。だいたい無防備なんだよ、ちょっとは自覚を…」
「はい。だから、佐良さんは悪くないんです。無防備なのが悪かったんです。」
佐良がしまったというような、バツが悪いと言わんばかりの表情で視線を逸らした。
そんな佐良にニコリと微笑む。
「今なら、戻れます。」
「…何言って…。」
「今なら、幸せな思い出だけで終わらせることができる。」
「…俺が、君を手放すとでも…?」
「手放してください。最後のお願いです。」
「やめろ…。」
「それとも、こんなに幸せな気持ちをくれたのに、自ら手を離せというのですか?」
「じゃあ、こんな話はなしだ。確かに、家庭もあるけど…」
「佐良さんを不幸にしたくない。でも、佐良さんを嫌いになれないんです。だから、佐良さんが嫌ってくれたら…、いや、切ってください。佐良さんの幸せを選ばせてください…!」
「…それは、ずるいよ…。」
どさり、腕で顔を隠すように、佐良はベッドに転がる。
表情は分からない。
身勝手な言い分に怒っているのだろうか。
それでも、これだけは曲げられなかった。
自分は気づいてしまったから。
佐良を好きになってしまった。
佐良に快だけではなく、安らぎを、愛を注がれたことで、佐良を愛していることを知ってしまった。
だからもう戻れない。
自分本位の関係には戻れない。
これが、罰だ。
一度知った幸せを、手放すことほど辛いことはない。
初めからないのと、手にしてから失うのとでは雲泥の差がある。
でも、初めから手にしてはいけないものだった。
罪の花は果実を宿した。
甘い甘い甘美な味は、圧倒的な幸福の代わりに、世界の色を奪っていく。
けれども、それが当然でありそうでなくてはならない。
「佐良さん…。ごめんなさい。」
あなたを苦しみに巻き込んでしまって。
「謝らないといけないのは…、俺だ。中途半端なことをして、傷つけたんだ。」
「でも…、幸せでした。」
渇いた空気が、部屋の中へ流れる。
美しく豪華な部屋は美しいままに、それでも何か非現実的で異質だった。
佐良がちらっとこちらを見る。
そして、少し微笑んで、それから悲しそうに目を伏せた。
「さよならだ。」
諦観した声色で、けれどはっきりと佐良は告げた。
自分で催促しておきながら、胸がギュッと締め付けられる。ズキン、と明確な痛みを感じた。
「…っはい。ありがとう、ございました…。」
「さよなら」なんて、こんなに辛い言葉だったのかと思う。何気なく使ってきた言葉なのに。
今思えば、佐良が口にすれば、どんな言葉も特別だった。まるで、全てを掌握しているかのように、彼の言葉は強く強く、自分の手綱を握っていた。
だから、今回も大丈夫だ。
彼が言ってくれたのなら、従えるだろう。
---ピリリリリリリ
急に電子音が鳴り響き、ぼんやりとした思考が引き戻される。
音の発生源に視線を向けると、佐良のスマホが着信を知らせていた。
佐良が静かにスマホを手にして、応答する。
「はい」
「-----」
「え?いつ…ですか?」
何か切羽詰まったような佐良の声音に、電話の内容が只事ではないと悟る。
電話に応答する佐良をソワソワしながら待っていると、1、2分で佐良は電話を切った。
「…どうしたんですか?」
神妙な顔をしたまま、スマホの画面を見つめる佐良に声をかける。
ゆっくりと、佐良がこちらへ視線を移した。
表情が強張っている。
「…妻が…、事故に合って緊急搬送された…。すぐに手術になるらしい。」
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