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6章 秘事
裏切り者
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「仕事?」
家を出る間際、奥から妻が顔を覗かせた。
数年前に購入したマンションは比較的上階に位置している。子供のない自分達には十分な部屋数で、自分達は満足していた。
このマンションにも、そして結婚生活にも。
結婚当初の数年間は恋人気分が続いていて、恋愛の延長線のような気持ちだった。互いに働いていて、子供にも恵まれなかったからか、尚更そうだったのかもしれない。そしてそれは次第に互いが友人のようになって行った。
元々、どちらも淡白なタイプで、恋人として互いを求め合うこともなくなっていた。夫婦としてそれはどうなのか、と考えた時、それを妻と話し合ったことがある。その時彼女はあっけらかんとしてこう言った。
「何だか、同士のような気持ちなの。」
同士、と言う言葉にこちらも納得してしまった。
こちらも同じ気持ちだからだ。
それでも、妻が望むなら望みに応えたいとも感じる。だから妻の本音を知りたかった。やはり、彼女は大切な存在であり、幸せを願っているから。
「本当に?」
「あなたは?私との子供、本当に欲しいの?」
「それは…」
彼女との子供に限らず、自分が親になる覚悟はもちろん、親になることへの欲求もないというのが本音だった。
「誤解しないで。私も同じなの。あなたと居を共にすることって居心地が良くて、あなたとならと感じたから結婚したの。」
「俺もだよ。君となら居心地が良かった。」
「ねえ、無理に一般的な夫婦になる必要はないと思わない?私たちは互いを大切に感じてるのだから。」
そう微笑む彼女に嘘や偽りは見られなかった。
こういった感じ方の類似性が、彼女と暮らすことの居心地の良さに繋がっているのかもしれない。
「じゃあ、不満や不安はない?」
彼女に尋ねた。
彼女を大切にしたいのは本当だから。
彼女の求めることを知りたい。
「心配性ね。」
彼女は呆れたように笑って言った。
そんな彼女を見てこちらも釣られて笑った。
彼女が幸せならそれでいい。
「もし君が不満や不安に思うことがあったら、必ず正直に教えて欲しい。俺たちは“普通の夫婦”とは少し違うかもしれないけど、“普通の夫婦”以上に、君を大切にしたいから。」
「分かった。約束する。」
俺の言葉にやっぱり呆れながら、彼女は笑った。本当に幸せそうに笑ってくれた。
「うん、今日から出張なんだ。」
表情は引き攣ってないだろうか。
ちゃんと微笑んでいるだろうか。
妻に隠し事をしたことなどない。
心臓の鼓動が速さを増すのが分かる。
「あ、そうなの?いつまで?」
出勤前のためか、リビングからコートを羽織りながら急ぐよう廊下を歩く彼女は同い年と思えないくらい綺麗だ。
艶のある長い髪は肩甲骨のあたりでサラサラと揺れる。スタイルも出会った当初のままを維持しているのは、彼女の努力によるものだ。
「三日間。君は?」
「私?私は普通に勤務。でもあなたが帰らないなら友達呼んじゃおうかな~。」
「いいよ。横田さん?」
「うん。それと増田。大丈夫?」
「分かった。帰る前は連絡する。」
「お願い。じゃあ気をつけてね。」
まだ出社の準備が整わない彼女を置いて、先に自宅を出た。
横田と増田は彼女の古い友人だ。自分と出会う前からの付き合いで、妻と出会った当初に紹介されてからの付き合いだから、自分にとっても付き合いは長い。
とはいえ、自分たち夫婦は互いの交友関係にはあまり干渉しない性質で、横田と増田についても自分とは顔見知り程度の仲だった。
別段、妻が家に友人を招くことを咎めたこともなければ、そういう素振りを見せたこともない。しかし、俺自身は友人を家に招くことはなかった。あまりそう言う気分にならないからだ。友人とは外で会って飲んだり食べたりして遊ぶ方が楽しい。そうした俺の性格を知っているからだろう。妻も彼女たちを呼ぶ際は必ず知らせてくれる。
本当に良い妻だった。
(…なのに、ごめん。)
俺は初めて妻に隠し事をしている。
別に今までも全てを明け透けにしていた訳ではない。伝える必要があることは伝えたが、それ以外で聞かれないことは伝えないし、彼女もそうだった。
けれど今は違う。
彼女を大切にしたい気持ちは変わらない。
少し一般的な夫婦とは違う関係とはいえ、やはり夫婦なのだ。
これは彼女に対する裏切り行為だろう。
(最低、だな)
胸中で自嘲する。
それでも、俺は足を止めない。止められなかった。
見えない何か、強烈な欲求に突き動かされる。
一刻も早く会いたい。
そればかりが過ぎる。
声を聞きたい。
瞳を見て、柔らかな頬に触れたい。
いつも不安気に逸らされる視線。何かに怯えるように震える指先。色素の薄い髪が、赤く誘うような唇が、強く抱きしめれば消えてしまうような脆さが、それでいて時折見せる意思の強い瞳が、全てが惹きつけて離さない。
妻を大切に思っている。それは事実なのに、一方もどうしようもなく大切で。
矛盾した感情に体が引き裂かれそうだ。
(ごめん、)
謝罪の言葉が何度も何度も過ぎる。
神がいるなら、罰してくれて構わない。
俺は、裏切り者なのだから。
家を出る間際、奥から妻が顔を覗かせた。
数年前に購入したマンションは比較的上階に位置している。子供のない自分達には十分な部屋数で、自分達は満足していた。
このマンションにも、そして結婚生活にも。
結婚当初の数年間は恋人気分が続いていて、恋愛の延長線のような気持ちだった。互いに働いていて、子供にも恵まれなかったからか、尚更そうだったのかもしれない。そしてそれは次第に互いが友人のようになって行った。
元々、どちらも淡白なタイプで、恋人として互いを求め合うこともなくなっていた。夫婦としてそれはどうなのか、と考えた時、それを妻と話し合ったことがある。その時彼女はあっけらかんとしてこう言った。
「何だか、同士のような気持ちなの。」
同士、と言う言葉にこちらも納得してしまった。
こちらも同じ気持ちだからだ。
それでも、妻が望むなら望みに応えたいとも感じる。だから妻の本音を知りたかった。やはり、彼女は大切な存在であり、幸せを願っているから。
「本当に?」
「あなたは?私との子供、本当に欲しいの?」
「それは…」
彼女との子供に限らず、自分が親になる覚悟はもちろん、親になることへの欲求もないというのが本音だった。
「誤解しないで。私も同じなの。あなたと居を共にすることって居心地が良くて、あなたとならと感じたから結婚したの。」
「俺もだよ。君となら居心地が良かった。」
「ねえ、無理に一般的な夫婦になる必要はないと思わない?私たちは互いを大切に感じてるのだから。」
そう微笑む彼女に嘘や偽りは見られなかった。
こういった感じ方の類似性が、彼女と暮らすことの居心地の良さに繋がっているのかもしれない。
「じゃあ、不満や不安はない?」
彼女に尋ねた。
彼女を大切にしたいのは本当だから。
彼女の求めることを知りたい。
「心配性ね。」
彼女は呆れたように笑って言った。
そんな彼女を見てこちらも釣られて笑った。
彼女が幸せならそれでいい。
「もし君が不満や不安に思うことがあったら、必ず正直に教えて欲しい。俺たちは“普通の夫婦”とは少し違うかもしれないけど、“普通の夫婦”以上に、君を大切にしたいから。」
「分かった。約束する。」
俺の言葉にやっぱり呆れながら、彼女は笑った。本当に幸せそうに笑ってくれた。
「うん、今日から出張なんだ。」
表情は引き攣ってないだろうか。
ちゃんと微笑んでいるだろうか。
妻に隠し事をしたことなどない。
心臓の鼓動が速さを増すのが分かる。
「あ、そうなの?いつまで?」
出勤前のためか、リビングからコートを羽織りながら急ぐよう廊下を歩く彼女は同い年と思えないくらい綺麗だ。
艶のある長い髪は肩甲骨のあたりでサラサラと揺れる。スタイルも出会った当初のままを維持しているのは、彼女の努力によるものだ。
「三日間。君は?」
「私?私は普通に勤務。でもあなたが帰らないなら友達呼んじゃおうかな~。」
「いいよ。横田さん?」
「うん。それと増田。大丈夫?」
「分かった。帰る前は連絡する。」
「お願い。じゃあ気をつけてね。」
まだ出社の準備が整わない彼女を置いて、先に自宅を出た。
横田と増田は彼女の古い友人だ。自分と出会う前からの付き合いで、妻と出会った当初に紹介されてからの付き合いだから、自分にとっても付き合いは長い。
とはいえ、自分たち夫婦は互いの交友関係にはあまり干渉しない性質で、横田と増田についても自分とは顔見知り程度の仲だった。
別段、妻が家に友人を招くことを咎めたこともなければ、そういう素振りを見せたこともない。しかし、俺自身は友人を家に招くことはなかった。あまりそう言う気分にならないからだ。友人とは外で会って飲んだり食べたりして遊ぶ方が楽しい。そうした俺の性格を知っているからだろう。妻も彼女たちを呼ぶ際は必ず知らせてくれる。
本当に良い妻だった。
(…なのに、ごめん。)
俺は初めて妻に隠し事をしている。
別に今までも全てを明け透けにしていた訳ではない。伝える必要があることは伝えたが、それ以外で聞かれないことは伝えないし、彼女もそうだった。
けれど今は違う。
彼女を大切にしたい気持ちは変わらない。
少し一般的な夫婦とは違う関係とはいえ、やはり夫婦なのだ。
これは彼女に対する裏切り行為だろう。
(最低、だな)
胸中で自嘲する。
それでも、俺は足を止めない。止められなかった。
見えない何か、強烈な欲求に突き動かされる。
一刻も早く会いたい。
そればかりが過ぎる。
声を聞きたい。
瞳を見て、柔らかな頬に触れたい。
いつも不安気に逸らされる視線。何かに怯えるように震える指先。色素の薄い髪が、赤く誘うような唇が、強く抱きしめれば消えてしまうような脆さが、それでいて時折見せる意思の強い瞳が、全てが惹きつけて離さない。
妻を大切に思っている。それは事実なのに、一方もどうしようもなく大切で。
矛盾した感情に体が引き裂かれそうだ。
(ごめん、)
謝罪の言葉が何度も何度も過ぎる。
神がいるなら、罰してくれて構わない。
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