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6章 秘事
矛盾
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「有給消化、最低五日は取らないといけなくてね。まだでしょ。五日丸々。」
白髪だらけの髪を揺らしながら、上司は面倒くさげに言った。
眼鏡の奥の瞳がじり、とこちらを睨め付ける。
有給を取ろうにも取れるような状態ではないことはまともな上司なら明白だろう。けれども、残念ながらこの上司はまともではないらしい。
とはいえ、確かに有給を取らなければならない事も事実だ。
「で、悪いんだけど会社の方針でね。明日から一週間、無理矢理とってもらうから。」
「え、ちょっと待ってください!それじゃ、仕事が…」
「あのね、計画性がないのが悪いって分からない?仕事も、ちゃんと終わらせてくれなくちゃ困るよ?いい?有給ってのは仕事に支障がない場合、取得を許可するんだから。」
それを言うなら、日を指定するのは問題ないのか、と問いただしたい。
けれどもそんなことをしても無駄である。分かりきったことだ。
盛大に競り上がる不満をぐっと呑み込む。
「…分かりました…。」
この会社では社内の文書やデータを持ち出すことは出来ない。
だから持ち帰って熟すことは不可能だ。選択肢は、書面上だけ有給をとったことにして出社するか…、もういっそ本当に休んでしまうか。もちろん、本来はそうして当然なのだ。
どうしようか、とデスクへ戻る。
未処理の書類に頭を抱えそうだ。
向かいのデスクに座るパート社員は相変わらず優雅に茶を啜っている。
パラパラと雑誌をめくりながら、時折スマホを操作する。
理不尽だ。
もちろん、そう感じている。
でも、これを投げ出したところで何も変わりはしない。状況は悪くなるだけだ。
昔からそうだった。
不満があっても、抗ったところで良い結果となった試しがない。
それは自分が幼く非力だったからか。それとも、相手が強大過ぎたのか。
今となっては分からないが、理由などどうでもいいことだった。大切なのは結果だ。
我慢すればこれ以上に悪いことは起きない…なんて保証もないけど。
そうすることに慣れてしまった。
ただ、それだけ。
けれど、気分が晴れないことは確かで。何となく気分転換をしたくてオフィスを出た。
屋上では春の香りをかすかに纏う風が、さぁっと駆け抜けて行く。
とはいえ、まだまだ冷たいそれに当たりにくる人間はいない。屋上には他に誰もいないようだった。
見下ろす街、向かいのビル、三時を回った空は少しだけ朱色に近付いている。
吸い寄せられるように、端のフェンスまで歩み寄った。
ステンレス製のフェンスは目立った錆もなく、しっかりとその役目を果たしている。
フェンス越しの空を見上げながら、ゆっくりと目を閉じる。
ここから羽ばたいたら、救われるだろうか。
鳥のような翼はないから。
きっと地上へ真っ逆さまだ。
それでも、この苦しみから開放されるなら。
そんなことを考えていると、不意に腕を掴まれた。
驚いて背後を振り返ると、佐良が立っていた。
「なに、考えて…」
少しだけ怒ったような、困惑したような瞳がこちらを見つめる。
この人がいるから、自分はここにいるのだと思う。
それが結果として、苦しみとなっていたとしても、それを拒むことなど出来ないから。
「…佐良さんの、こと。」
何となく、茶化すように微笑む。
別に嘘じゃない。
本当にいつも、どんなときも、佐良に触れていたいと思う。
「佐良さん、オフィスから追ってきたんですか?」
「違う。トイレから戻る時、出て行くのが見えた。」
「何ですかそれ。」
「表情が、泣きそうに見えたから」
佐良と“悪いこと”に耽るようになって、佐良が“好きなんだと思う”と言った通り、まるで恋人みたいに執着をされる。
佐良は性格的に、感じたことを表現できるタイプだから分かりやすい。
…とはいえ、これは密事だ。
それなのに時折、それを忘れたかのような行動をとるからハラハラしてしまう。
でもそれが嬉しい。
だから苦しい。
だけど欲しい。
「佐良さん、心配性ですね。」
「心配するに決まってる。」
掴まれたままの腕が痛い。
佐良は“全部が欲しい”と言った。こちらはそれを了承したし、むしろ、望んでいた。
そして同じくらい、いや、もっと。自分はこんなもの比較にならないほど、佐良に飢えている。全てが欲しいのは同じだ。
そんな執着が、抱いてはいけない欲望が、佐良を狂わせたのだと思う。
確信はないけれど、直感的にそう感じるのだ。
「ごめんなさい」
「何が?」
「佐良さんの大切なものを、壊してしまったから。」
佐良が息を呑む。
言葉の意図を思案する。
「…家族には、知られてないよ。」
「そうですね。」
「まさか?」
「まさか。言いませんよ。誰にも。」
「それなら、どういうこと?」
「佐良さんの、あなたの命を…、人生を穢しているから…。」
掴まれた腕。
掴む手に、そっと手を重ねる。そのまま腕へスライドして握りしめる。
“悪いこと”。分かってる。
佐良を貶める、そんなこと知っている。
分かっているから、触れる度に痛い。
爛れるように、痛い。
体の奥がジクジクと痛むのだ。
けれど、同じくらい、満たされているから。
ごめんなさいと言いながら、矛盾してばかり。
「…それは、俺の台詞だ…。」
はぁ、と盛大にため息を吐いて、佐良の空いた手がくしゃりと頭を撫でる。
温かい掌に泣きそうになる。
どうして、こうなってしまったんだろう。
いけないと分かっていたのに。
拒まなければならなかったのに。
理性も何もない。
「佐良さん…。ごめんなさい。触れることを求めてしまって、ごめんなさい。」
佐良は何も言わなかった。
ただ静かに、頭を撫で続ける。
幼児をあやす様に。
自身の腕を掴む聞き分けの悪い子供を宥める様に。
風が冷たさを増し始めた屋上。
空の朱が増して行く。
もうすぐ、夜がやってくる。
白髪だらけの髪を揺らしながら、上司は面倒くさげに言った。
眼鏡の奥の瞳がじり、とこちらを睨め付ける。
有給を取ろうにも取れるような状態ではないことはまともな上司なら明白だろう。けれども、残念ながらこの上司はまともではないらしい。
とはいえ、確かに有給を取らなければならない事も事実だ。
「で、悪いんだけど会社の方針でね。明日から一週間、無理矢理とってもらうから。」
「え、ちょっと待ってください!それじゃ、仕事が…」
「あのね、計画性がないのが悪いって分からない?仕事も、ちゃんと終わらせてくれなくちゃ困るよ?いい?有給ってのは仕事に支障がない場合、取得を許可するんだから。」
それを言うなら、日を指定するのは問題ないのか、と問いただしたい。
けれどもそんなことをしても無駄である。分かりきったことだ。
盛大に競り上がる不満をぐっと呑み込む。
「…分かりました…。」
この会社では社内の文書やデータを持ち出すことは出来ない。
だから持ち帰って熟すことは不可能だ。選択肢は、書面上だけ有給をとったことにして出社するか…、もういっそ本当に休んでしまうか。もちろん、本来はそうして当然なのだ。
どうしようか、とデスクへ戻る。
未処理の書類に頭を抱えそうだ。
向かいのデスクに座るパート社員は相変わらず優雅に茶を啜っている。
パラパラと雑誌をめくりながら、時折スマホを操作する。
理不尽だ。
もちろん、そう感じている。
でも、これを投げ出したところで何も変わりはしない。状況は悪くなるだけだ。
昔からそうだった。
不満があっても、抗ったところで良い結果となった試しがない。
それは自分が幼く非力だったからか。それとも、相手が強大過ぎたのか。
今となっては分からないが、理由などどうでもいいことだった。大切なのは結果だ。
我慢すればこれ以上に悪いことは起きない…なんて保証もないけど。
そうすることに慣れてしまった。
ただ、それだけ。
けれど、気分が晴れないことは確かで。何となく気分転換をしたくてオフィスを出た。
屋上では春の香りをかすかに纏う風が、さぁっと駆け抜けて行く。
とはいえ、まだまだ冷たいそれに当たりにくる人間はいない。屋上には他に誰もいないようだった。
見下ろす街、向かいのビル、三時を回った空は少しだけ朱色に近付いている。
吸い寄せられるように、端のフェンスまで歩み寄った。
ステンレス製のフェンスは目立った錆もなく、しっかりとその役目を果たしている。
フェンス越しの空を見上げながら、ゆっくりと目を閉じる。
ここから羽ばたいたら、救われるだろうか。
鳥のような翼はないから。
きっと地上へ真っ逆さまだ。
それでも、この苦しみから開放されるなら。
そんなことを考えていると、不意に腕を掴まれた。
驚いて背後を振り返ると、佐良が立っていた。
「なに、考えて…」
少しだけ怒ったような、困惑したような瞳がこちらを見つめる。
この人がいるから、自分はここにいるのだと思う。
それが結果として、苦しみとなっていたとしても、それを拒むことなど出来ないから。
「…佐良さんの、こと。」
何となく、茶化すように微笑む。
別に嘘じゃない。
本当にいつも、どんなときも、佐良に触れていたいと思う。
「佐良さん、オフィスから追ってきたんですか?」
「違う。トイレから戻る時、出て行くのが見えた。」
「何ですかそれ。」
「表情が、泣きそうに見えたから」
佐良と“悪いこと”に耽るようになって、佐良が“好きなんだと思う”と言った通り、まるで恋人みたいに執着をされる。
佐良は性格的に、感じたことを表現できるタイプだから分かりやすい。
…とはいえ、これは密事だ。
それなのに時折、それを忘れたかのような行動をとるからハラハラしてしまう。
でもそれが嬉しい。
だから苦しい。
だけど欲しい。
「佐良さん、心配性ですね。」
「心配するに決まってる。」
掴まれたままの腕が痛い。
佐良は“全部が欲しい”と言った。こちらはそれを了承したし、むしろ、望んでいた。
そして同じくらい、いや、もっと。自分はこんなもの比較にならないほど、佐良に飢えている。全てが欲しいのは同じだ。
そんな執着が、抱いてはいけない欲望が、佐良を狂わせたのだと思う。
確信はないけれど、直感的にそう感じるのだ。
「ごめんなさい」
「何が?」
「佐良さんの大切なものを、壊してしまったから。」
佐良が息を呑む。
言葉の意図を思案する。
「…家族には、知られてないよ。」
「そうですね。」
「まさか?」
「まさか。言いませんよ。誰にも。」
「それなら、どういうこと?」
「佐良さんの、あなたの命を…、人生を穢しているから…。」
掴まれた腕。
掴む手に、そっと手を重ねる。そのまま腕へスライドして握りしめる。
“悪いこと”。分かってる。
佐良を貶める、そんなこと知っている。
分かっているから、触れる度に痛い。
爛れるように、痛い。
体の奥がジクジクと痛むのだ。
けれど、同じくらい、満たされているから。
ごめんなさいと言いながら、矛盾してばかり。
「…それは、俺の台詞だ…。」
はぁ、と盛大にため息を吐いて、佐良の空いた手がくしゃりと頭を撫でる。
温かい掌に泣きそうになる。
どうして、こうなってしまったんだろう。
いけないと分かっていたのに。
拒まなければならなかったのに。
理性も何もない。
「佐良さん…。ごめんなさい。触れることを求めてしまって、ごめんなさい。」
佐良は何も言わなかった。
ただ静かに、頭を撫で続ける。
幼児をあやす様に。
自身の腕を掴む聞き分けの悪い子供を宥める様に。
風が冷たさを増し始めた屋上。
空の朱が増して行く。
もうすぐ、夜がやってくる。
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