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1章 オフィス
雑用係
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オフィスはざわついていた。
誰が誰と不仲だ、とか。
どこの店で新しいチョコレート菓子が販売された、とか。
同じオフィスの誰が異動するらしい、とか。
どうでもいいことばかり。
だからひどく孤独を感じた。
同じ場所で、同じように仕事に励んでいるはずなのに、まるで違う目的の集団に迷い込んだようだ。
だからひたすらに無言でキーボードを叩く。
外線電話が鳴っても、取ることをしない人間ばかりの中で馬鹿みたいに雑用と、雑用じゃない仕事と、トラブル対応と、何やかんやをこなしながら、それでも外線電話は少しの癒しだった。
受付スタッフの内線で来客を告げられる。「はい」と短く返事をして、足早にオフィスを出る。
通路から覗く空は茜色だ。
一月の空はまだ、暮れるのが早い。
来客はオフィスを出てすぐのホールで待っていた。
グレーの作業服に身を包んだ男性だ。服と揃いのキャップを脱帽して軽く会釈する。こちらもそれにならって会釈をかえした。
見たことのない業者だ。
「こんにちは。お会いするのは初めてですね。書類の処分で連絡頂いた須田です」
和やかに微笑んだ男の名前には、確かに覚えがあった。
書類溶解…機密文書の処分を依頼した業者だ。昨年も取引のあった業者だが、昨年依頼した担当者は別人物だ。だから自分とは初対面である。
「はじめまして。今年度から担当しています。量があるので早速見ていただけますか?」
「分かりました。案内していただけますか?」
男ににこりと微笑み返して、上階の倉庫へと案内するべくエレベーターへと向かった。
「身長高いんですね。スポーツとかされてました?」
エレベーターの駆動音が響く。
沈黙を破り、男が話題を振った。
「良く言われます。でも何もやったことなくて。須田さんも高いですよね。百八十はありませんか?」
須田の話題に乗っかり会話を繋げてみる。
須田は痩身で背が高く、顔も精悍さと甘さを兼ね備えた美男子だった。年齢はよく分からないが、三十五くらいに見える。雰囲気も柔らかくいかにも女受けしそうな出立ちだった。
「そうなんですか?スポーティな雰囲気あるのに。」
「それも良く言われます。でも引きこもりなんですよ。体ばっかり大きくて。大きいのってなんか嫌ですよね。」
「いいじゃないですか。すらっとして。でもね、僕も八十二あるんですよ。僕のが大きいから僕の勝ちですね」
悪戯っぽく須田が笑ったところで、エレベーターが目的階に到着した。
扉が開きヒヤリとした空気が流れ込む。
この階は倉庫が多くあり、通常は空調機も切ってある。その所為で通路からして既に冷え切っていた。
目指すのは通路の突き当たりにある倉庫だ。
窓もない通路は、等間隔にLED照明が冷たい光を灯している。
扉の前で立ち止まって、カードレコーダーに社員証をかざした。
ピピ、という電子音が鳴り、ロックが解除されたことを知らせる。
背後を振り返ると須田がにこりと微笑んだ。
「どうぞ」
扉を開く。
扉のすぐ隣のスイッチで照明を灯した。
段ボールだらけの倉庫は、廊下同様に冷え切っていた。
後ろ手で扉を押さえて、須田を中へ招く。
須田が中へ入ったことを確認して、扉から手を離した。扉はゆっくりと閉じていく。
紙の匂いが色濃く漂う倉庫で、須田はしげしげと段ボールを眺めていた。
「ここにあるのが対象の段ボールですか?」
「はい。概算だけでも貰えると嬉しいんですけど…」
予算の枠内に収まればいいがそうでないなら考えなければならない。
須田は段ボールを数えながら、うーんと唸った。
大して広くはないが十二畳くらいはある倉庫に沈黙が流れる。けれど、この沈黙は不快なものではない。例え須田が今日初めて会った見ず知らずの人間であっても、自分がいつも身を置くあのオフィスの喧騒に比べれば心地よいほどだ。
「たぶん、そんなにかかりませんね。去年取引きさせて頂いた金額より安いかも」
しばらくの沈黙の後、須田は軽い声音でそう言った。
「あれ?そうですか?去年はもっとありました?」
同程度を想定していたから拍子抜けして尋ねると、須田は頷いた。
「結構、減ってると思いますよ。去年も僕が担当しましたから。その時と比べると少ないと思います。」
「はは、それなら良かったです。」
どうやらこれはスムーズに済みそうだ。積み上げられた段ボールを見渡してため息を吐き出す。昨年も須田が担当したことは分かっていた。彼の名刺は取引先の名刺リストにあったし、念のために昨年の支出データを確認していたからだ。
「初年度ですか。大変ですね。」
段ボールの中身を確認しながら、須田は労るような声音で言った。
須田の言葉に愛想笑いを返す。
「僕もね、今の仕事の前は結構きびしくて大変でしたよ」
“僕も”という言い回しに少しだけ引っかかる。だから、素直に聞いてみることにした。本来ならば聞き流してしまうようなことだ。そう言った意味では、須田は鋭いのかもしれない。
「大変そうに見えますか?」
問いかけに須田は手を止めた。
そして、爽やかな笑みを浮かべて頷く。
「なんていうか、気を悪くしないで欲しいんですけど、疲れて見えて。」
これはモテるだろうなと、先程憶測したことが確信に変わる。
こういうことが素で出来るのは素直に憧れる。
「すみません、気を遣わせて。」
「いやいや、僕の方こそすみません。でも、実際どうですか?ガッツリ事務職ですよね。残業とかあります?」
須田の聞き方はストレートで、それでいて棘などの嫌な雰囲気が全くない。だから何故かするりと答えたくなってしまう。
外部の人間に恥を晒すのは良くないはずなのに。
狭く薄暗い倉庫に二人きりというのも良くないかもしれない。
「まあ、人によるんですけどね。ここはあまり人が足りてないというか、引き継ぎが上手くいってなくて。そういう点で大変でした。」
「ああ、初めての仕事で引き継ぎがないのは厳しいですね。先輩とかはいないんですか?見た感じ、若そうですけど。」
「若いってほど若くないんですよ。もう、二十七ですし…」
よく若く見られるが実際はアラサーで決して若くはない。だから須田の言葉もお世辞か本音かは分からないが、苦笑いしつつ訂正する。
「二十七?見えませんね。二十二くらいかと…いや、悪い意味ではなくて。」
あからさまに驚いた須田に、なんだかおかしくなってしまって笑いが込み上げてくる。
「ふふ、お世辞でも嬉しいです。ありがたく褒められておきます。」
なんだか不思議な感覚だった。
須田が全く関係ない人間というわけではない。それなのに、こんなに楽しく会話できるなんて。
オフィス内での人間関係に疲れているからか、最近は自分のコミュニケーションに問題があるのではないかと考えていた。けれど、どうなんだろうか。
「先輩とか上司とか、助けてくれなくて大変なら転職もありですよ。こんなこと、僕がいうのもなんですけど。」
「須田さんも転職されたとおっしゃってましたね。」
「僕の前の職場はブラックでして。サビ残は当たり前、休みもない、だから転職しました。体がもたないなって。」
絵に描いたようなブラック企業だ。
そんな会社もやはりあるだろうな、と思う。
自分がいるこの職場は、そういう感じでもない。グレーなのだ。グレーだからキツイ。
「それは大変でしたね。今はどうなんですか?」
今、というのは古紙などのリサイクル業だ。その他の産廃業もやっている会社だからそれなりに忙しいが安定しているはずだ。
「実は今もブラックなんですよ。転職したんですけど、パワハラっていうんですかね。まあ、産廃業は多いんですけど。」
なんだか仄暗い闇が見え隠れして恐ろしい。産廃業という業種が真実味を増す材料になっている。
別に、実際はそうじゃないのかもしれないけれどメディアの影響だろう。
「今も?せっかく転職したのに…」
「まあ、でもいいんですよ。実は僕、副業してまして。そっちが会社勤めの倍くらい儲かるんです。」
「倍?すごいですね。どんな副業なんですか?」
「ウェブ関係です。結構簡単で誰でもできますよ。だから、馬鹿な上司が喚き散らしてても、こっちはこの上司の数倍稼いでると思えば気にならないっていうか。」
にこやかな笑顔でいう須田は、顔に似合わず辛辣に言い放った。
確かに、会社は金を稼ぐ場所だ。
その金の面で自身が勝っていれば、いくら役職が上でも権威は薄れるのかもしれない。
所詮は会社の地位など、組織内でのみ有効な権威に過ぎない。
そう、職場は金を稼ぐ場所なのだ。
全く正論過ぎて吐きそうだった。
「そうだ、もし興味があれば今度外で話しませんか。ご飯でも食べながら。」
須田の提案にまた、愛想笑いを返す。
例えぱっと見が二十二に見えたとしても、その実は二十七なのだ。
「はは、ありがとうございます。機会があればまた。」
ニコリと微笑む。
「忙しいからダメかな」
こちらの回答に、更に大人であろう須田はくつくつと笑った。
誰が誰と不仲だ、とか。
どこの店で新しいチョコレート菓子が販売された、とか。
同じオフィスの誰が異動するらしい、とか。
どうでもいいことばかり。
だからひどく孤独を感じた。
同じ場所で、同じように仕事に励んでいるはずなのに、まるで違う目的の集団に迷い込んだようだ。
だからひたすらに無言でキーボードを叩く。
外線電話が鳴っても、取ることをしない人間ばかりの中で馬鹿みたいに雑用と、雑用じゃない仕事と、トラブル対応と、何やかんやをこなしながら、それでも外線電話は少しの癒しだった。
受付スタッフの内線で来客を告げられる。「はい」と短く返事をして、足早にオフィスを出る。
通路から覗く空は茜色だ。
一月の空はまだ、暮れるのが早い。
来客はオフィスを出てすぐのホールで待っていた。
グレーの作業服に身を包んだ男性だ。服と揃いのキャップを脱帽して軽く会釈する。こちらもそれにならって会釈をかえした。
見たことのない業者だ。
「こんにちは。お会いするのは初めてですね。書類の処分で連絡頂いた須田です」
和やかに微笑んだ男の名前には、確かに覚えがあった。
書類溶解…機密文書の処分を依頼した業者だ。昨年も取引のあった業者だが、昨年依頼した担当者は別人物だ。だから自分とは初対面である。
「はじめまして。今年度から担当しています。量があるので早速見ていただけますか?」
「分かりました。案内していただけますか?」
男ににこりと微笑み返して、上階の倉庫へと案内するべくエレベーターへと向かった。
「身長高いんですね。スポーツとかされてました?」
エレベーターの駆動音が響く。
沈黙を破り、男が話題を振った。
「良く言われます。でも何もやったことなくて。須田さんも高いですよね。百八十はありませんか?」
須田の話題に乗っかり会話を繋げてみる。
須田は痩身で背が高く、顔も精悍さと甘さを兼ね備えた美男子だった。年齢はよく分からないが、三十五くらいに見える。雰囲気も柔らかくいかにも女受けしそうな出立ちだった。
「そうなんですか?スポーティな雰囲気あるのに。」
「それも良く言われます。でも引きこもりなんですよ。体ばっかり大きくて。大きいのってなんか嫌ですよね。」
「いいじゃないですか。すらっとして。でもね、僕も八十二あるんですよ。僕のが大きいから僕の勝ちですね」
悪戯っぽく須田が笑ったところで、エレベーターが目的階に到着した。
扉が開きヒヤリとした空気が流れ込む。
この階は倉庫が多くあり、通常は空調機も切ってある。その所為で通路からして既に冷え切っていた。
目指すのは通路の突き当たりにある倉庫だ。
窓もない通路は、等間隔にLED照明が冷たい光を灯している。
扉の前で立ち止まって、カードレコーダーに社員証をかざした。
ピピ、という電子音が鳴り、ロックが解除されたことを知らせる。
背後を振り返ると須田がにこりと微笑んだ。
「どうぞ」
扉を開く。
扉のすぐ隣のスイッチで照明を灯した。
段ボールだらけの倉庫は、廊下同様に冷え切っていた。
後ろ手で扉を押さえて、須田を中へ招く。
須田が中へ入ったことを確認して、扉から手を離した。扉はゆっくりと閉じていく。
紙の匂いが色濃く漂う倉庫で、須田はしげしげと段ボールを眺めていた。
「ここにあるのが対象の段ボールですか?」
「はい。概算だけでも貰えると嬉しいんですけど…」
予算の枠内に収まればいいがそうでないなら考えなければならない。
須田は段ボールを数えながら、うーんと唸った。
大して広くはないが十二畳くらいはある倉庫に沈黙が流れる。けれど、この沈黙は不快なものではない。例え須田が今日初めて会った見ず知らずの人間であっても、自分がいつも身を置くあのオフィスの喧騒に比べれば心地よいほどだ。
「たぶん、そんなにかかりませんね。去年取引きさせて頂いた金額より安いかも」
しばらくの沈黙の後、須田は軽い声音でそう言った。
「あれ?そうですか?去年はもっとありました?」
同程度を想定していたから拍子抜けして尋ねると、須田は頷いた。
「結構、減ってると思いますよ。去年も僕が担当しましたから。その時と比べると少ないと思います。」
「はは、それなら良かったです。」
どうやらこれはスムーズに済みそうだ。積み上げられた段ボールを見渡してため息を吐き出す。昨年も須田が担当したことは分かっていた。彼の名刺は取引先の名刺リストにあったし、念のために昨年の支出データを確認していたからだ。
「初年度ですか。大変ですね。」
段ボールの中身を確認しながら、須田は労るような声音で言った。
須田の言葉に愛想笑いを返す。
「僕もね、今の仕事の前は結構きびしくて大変でしたよ」
“僕も”という言い回しに少しだけ引っかかる。だから、素直に聞いてみることにした。本来ならば聞き流してしまうようなことだ。そう言った意味では、須田は鋭いのかもしれない。
「大変そうに見えますか?」
問いかけに須田は手を止めた。
そして、爽やかな笑みを浮かべて頷く。
「なんていうか、気を悪くしないで欲しいんですけど、疲れて見えて。」
これはモテるだろうなと、先程憶測したことが確信に変わる。
こういうことが素で出来るのは素直に憧れる。
「すみません、気を遣わせて。」
「いやいや、僕の方こそすみません。でも、実際どうですか?ガッツリ事務職ですよね。残業とかあります?」
須田の聞き方はストレートで、それでいて棘などの嫌な雰囲気が全くない。だから何故かするりと答えたくなってしまう。
外部の人間に恥を晒すのは良くないはずなのに。
狭く薄暗い倉庫に二人きりというのも良くないかもしれない。
「まあ、人によるんですけどね。ここはあまり人が足りてないというか、引き継ぎが上手くいってなくて。そういう点で大変でした。」
「ああ、初めての仕事で引き継ぎがないのは厳しいですね。先輩とかはいないんですか?見た感じ、若そうですけど。」
「若いってほど若くないんですよ。もう、二十七ですし…」
よく若く見られるが実際はアラサーで決して若くはない。だから須田の言葉もお世辞か本音かは分からないが、苦笑いしつつ訂正する。
「二十七?見えませんね。二十二くらいかと…いや、悪い意味ではなくて。」
あからさまに驚いた須田に、なんだかおかしくなってしまって笑いが込み上げてくる。
「ふふ、お世辞でも嬉しいです。ありがたく褒められておきます。」
なんだか不思議な感覚だった。
須田が全く関係ない人間というわけではない。それなのに、こんなに楽しく会話できるなんて。
オフィス内での人間関係に疲れているからか、最近は自分のコミュニケーションに問題があるのではないかと考えていた。けれど、どうなんだろうか。
「先輩とか上司とか、助けてくれなくて大変なら転職もありですよ。こんなこと、僕がいうのもなんですけど。」
「須田さんも転職されたとおっしゃってましたね。」
「僕の前の職場はブラックでして。サビ残は当たり前、休みもない、だから転職しました。体がもたないなって。」
絵に描いたようなブラック企業だ。
そんな会社もやはりあるだろうな、と思う。
自分がいるこの職場は、そういう感じでもない。グレーなのだ。グレーだからキツイ。
「それは大変でしたね。今はどうなんですか?」
今、というのは古紙などのリサイクル業だ。その他の産廃業もやっている会社だからそれなりに忙しいが安定しているはずだ。
「実は今もブラックなんですよ。転職したんですけど、パワハラっていうんですかね。まあ、産廃業は多いんですけど。」
なんだか仄暗い闇が見え隠れして恐ろしい。産廃業という業種が真実味を増す材料になっている。
別に、実際はそうじゃないのかもしれないけれどメディアの影響だろう。
「今も?せっかく転職したのに…」
「まあ、でもいいんですよ。実は僕、副業してまして。そっちが会社勤めの倍くらい儲かるんです。」
「倍?すごいですね。どんな副業なんですか?」
「ウェブ関係です。結構簡単で誰でもできますよ。だから、馬鹿な上司が喚き散らしてても、こっちはこの上司の数倍稼いでると思えば気にならないっていうか。」
にこやかな笑顔でいう須田は、顔に似合わず辛辣に言い放った。
確かに、会社は金を稼ぐ場所だ。
その金の面で自身が勝っていれば、いくら役職が上でも権威は薄れるのかもしれない。
所詮は会社の地位など、組織内でのみ有効な権威に過ぎない。
そう、職場は金を稼ぐ場所なのだ。
全く正論過ぎて吐きそうだった。
「そうだ、もし興味があれば今度外で話しませんか。ご飯でも食べながら。」
須田の提案にまた、愛想笑いを返す。
例えぱっと見が二十二に見えたとしても、その実は二十七なのだ。
「はは、ありがとうございます。機会があればまた。」
ニコリと微笑む。
「忙しいからダメかな」
こちらの回答に、更に大人であろう須田はくつくつと笑った。
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