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第十六話 あぶく恋
③それから毎月、藤木宛のガソリン代請求書が舞い込んで来た
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藤木は次の作品の執筆が締め切り間際で忙しくなって、数日間、仕事場に籠り切りになった。
七日目の午後、突然、ブレーキの音が軋み、仕事場の前に赤いビートルが急停車した。
藤木がインターフォンに言った。
「今、忙しいんだけどな」
「両親に解っちゃったのよ、あなたとのことが・・・」
部屋に入ってソファーに腰掛けた瑠璃に藤木が訊ねた。
「君が話したのか?」
「友達の家に泊った、って言う嘘がばれちゃったの。恋人が居るって言わざるを得ないでしょう」
「で、両親は何とおっしゃっているんだ?」
「あなたに逢いたい、って」
「そうか、じゃ、今日、行っても良いよ」
藤木は、多分彼女は両親には何も話をしていないだろう、きっと嘘を吐いているんだ、と直感した。
「然し、逢ったら何と話せば良いんだ?」
「それはあなた次第じゃない?」
「だったら、もう君とは別れます、って言っても良いんだな?」
「・・・どうぞ、ご随意に」
「そうか。じゃ、暫く待ってくれ、もう少し書いてから行くよ」
藤木は瑠璃を無視して書き続けた。
彼女は週刊誌を捲り始めた。
次第のその音が気になり出した。
無神経な女だな・・・
藤木は怒鳴りつけたい気持をじっと堪えた。
夕方になれば、作品を担当している文芸誌の編集者がやって来るかも知れなかった。
それまでに彼女を外へ連れ出さなければならない・・・藤木は焦燥感に駆られて来た。
一時間後、赤いビートルの助手席に藤木を乗せて走り出した瑠璃は、途中、ガソリンスタンドに乗り入れた。
「満タンにして頂戴」
凡そ四十リットル入った。金を払おうとした藤木を制して瑠璃がスタンドマンに言った。
「ねえ、サインにして頂ける?」
スタンドマンはビートルのナンバーを見て快く頷いた。ビートルを運転しているだけで社会的信用が有った。
「あなた、名刺を差し上げて」
彼女はそう言って手洗いに立った。
藤木は仕方無く名刺を差し出した。
「ああ、あの有名な小説家の藤木さんですか」
スタンドマンは繁々と藤木の顔を覗き込みながら、請求書を差し出した。藤木は、渋々、自分の名前を署名した。
名刺の住所は仕事場のマンションになっている。請求書が来たら払えば良い、どうせ大した額では無いだろう・・・
ところが、それが甘かった。それから毎月、仕事場に藤木宛の請求書が舞い込んで来た。瑠璃は殆ど毎日のように葉山~東京間を往復し、その都度、藤木のサインでガソリンを満タンにしていた。
ガソリンスタンドを出たビートルは鎌倉から葉山へ向かった。渋谷から凡そ一時間三十分、初秋の陽射しが大分西に傾いていた。
突然、瑠璃がビートルを海辺のレストランへ乗り入れた。
「お腹空いたわ」
レストランは空いていた。
瑠璃はクラブハウスサンドとコーヒー、藤木は紅茶を注文した。
「嘘なの・・・」
サンドイッチを食べながら瑠璃は他人事のように言った。
「両親に知られたなんて嘘よ」
藤木はホッとした、と同時に彼の胸に怒りが込み上げて来た。
「じゃ、何故、鎌倉くんだりまで連れて来たんだ!」
瑠璃は不意に縋るような眼差しを藤木に向けた。
「二人だけになりたかったの」
「俺はね」
怒りを抑えて藤木が言った。
「今、仕事の追い込みなんだよ。あのまま書いて居りゃ、今頃はエンドマークが出ているんだ!」
「そう・・・」
瑠璃は皮肉っぽい眼付きで言った。
「それだったら、どうして、私に、終わるまで待って居ろ、って言わなかったの?」
藤木は心の中で呟いた。
冗談じゃない、その貌で眼の前に居られたら仕事が手に着かないよ!・・・
だが、心とは裏腹に藤木は冷静に言った。
「解かってくれないかなぁ。俺はねぇ、仕事と遊びにはけじめをつけたいんだよ。君は一日中暇だろうが、俺は仕事に追われているんだ、毎日」
「以前は毎日でも会いたがった癖に」
瑠璃は批難がましい口調で言った。
「この頃、私を避けているんじゃない?」
それは君がいけないんだ・・・
その言葉は口に出せなかった。それを言えば彼女の自尊心に傷がつく。藤木は、自分の自尊心を貫く為ならけろりと嘘をも吐きかねない瑠璃の性格を既に理解していた。
「やっぱり別れた方が良いよ、俺達」
東京に向かうビートルの中で藤木は瑠璃に言った。
「どうして?」
「君だってこんな関係を続けていると、毎日が暗いだろう?」
「・・・逃げるのね」
正面を見据えて瑠璃は低い声で言った。
「他の男を見つけて結婚しろよ。君なら幾らでも直ぐに相手は見つかるさ」
瞬間・・・瑠璃がアクセルを強く踏みしめた。凄まじい排気音と共に藤木の背中がシートに張り付いた。彼女の横顔を眺めると表情が強張っていた。何かに執り憑かれたようにハンドルを握っている。速度計が見る見る上がり、時速百三十キロを超えた。ビートルはあっと言う間に前を疾る二台の車を追い抜いた。
「おい、スピードを出し過ぎるぞ!」
「わたし、死ぬの」
思い詰めた顔で瑠璃が言った。
「あなたと一緒に・・・」
藤木の眼にトラックの荷台が急速に迫って来た。一瞬、藤木は蒼白になった。
今、横合いからブレーキを踏めば、ビートルは確実にスピンする、慌てるな・・・
彼は自分に言い聞かせた。
上手く宥めないと、瑠璃ならやりかねない・・・
「二人が心中したら拙いんじゃないか」
藤木が瑠璃の自尊心を擽るように言った。
「君の相手が妻子の居る浮気な男だと知ったら、両親はおろか叔父さんの顔にも泥を塗ることになるよ」
ビートルは次第にスピードを落として行った。間近かに迫ったトラックの荷台が再び前へ遠ざかって行った。
藤木は思わず吐息を吐いた。
「判ったわ」
高速道路の待避線にビートルを乗り入れて瑠璃が言った。
「今日限りに別れてあげる。ちゃんとした相手を探して結婚するわ、あなたが言うように・・・」
然し、藤木はその言葉を素直には信じなかった。彼女のこれまでの行動から推して、それは信じ難かった。
七日目の午後、突然、ブレーキの音が軋み、仕事場の前に赤いビートルが急停車した。
藤木がインターフォンに言った。
「今、忙しいんだけどな」
「両親に解っちゃったのよ、あなたとのことが・・・」
部屋に入ってソファーに腰掛けた瑠璃に藤木が訊ねた。
「君が話したのか?」
「友達の家に泊った、って言う嘘がばれちゃったの。恋人が居るって言わざるを得ないでしょう」
「で、両親は何とおっしゃっているんだ?」
「あなたに逢いたい、って」
「そうか、じゃ、今日、行っても良いよ」
藤木は、多分彼女は両親には何も話をしていないだろう、きっと嘘を吐いているんだ、と直感した。
「然し、逢ったら何と話せば良いんだ?」
「それはあなた次第じゃない?」
「だったら、もう君とは別れます、って言っても良いんだな?」
「・・・どうぞ、ご随意に」
「そうか。じゃ、暫く待ってくれ、もう少し書いてから行くよ」
藤木は瑠璃を無視して書き続けた。
彼女は週刊誌を捲り始めた。
次第のその音が気になり出した。
無神経な女だな・・・
藤木は怒鳴りつけたい気持をじっと堪えた。
夕方になれば、作品を担当している文芸誌の編集者がやって来るかも知れなかった。
それまでに彼女を外へ連れ出さなければならない・・・藤木は焦燥感に駆られて来た。
一時間後、赤いビートルの助手席に藤木を乗せて走り出した瑠璃は、途中、ガソリンスタンドに乗り入れた。
「満タンにして頂戴」
凡そ四十リットル入った。金を払おうとした藤木を制して瑠璃がスタンドマンに言った。
「ねえ、サインにして頂ける?」
スタンドマンはビートルのナンバーを見て快く頷いた。ビートルを運転しているだけで社会的信用が有った。
「あなた、名刺を差し上げて」
彼女はそう言って手洗いに立った。
藤木は仕方無く名刺を差し出した。
「ああ、あの有名な小説家の藤木さんですか」
スタンドマンは繁々と藤木の顔を覗き込みながら、請求書を差し出した。藤木は、渋々、自分の名前を署名した。
名刺の住所は仕事場のマンションになっている。請求書が来たら払えば良い、どうせ大した額では無いだろう・・・
ところが、それが甘かった。それから毎月、仕事場に藤木宛の請求書が舞い込んで来た。瑠璃は殆ど毎日のように葉山~東京間を往復し、その都度、藤木のサインでガソリンを満タンにしていた。
ガソリンスタンドを出たビートルは鎌倉から葉山へ向かった。渋谷から凡そ一時間三十分、初秋の陽射しが大分西に傾いていた。
突然、瑠璃がビートルを海辺のレストランへ乗り入れた。
「お腹空いたわ」
レストランは空いていた。
瑠璃はクラブハウスサンドとコーヒー、藤木は紅茶を注文した。
「嘘なの・・・」
サンドイッチを食べながら瑠璃は他人事のように言った。
「両親に知られたなんて嘘よ」
藤木はホッとした、と同時に彼の胸に怒りが込み上げて来た。
「じゃ、何故、鎌倉くんだりまで連れて来たんだ!」
瑠璃は不意に縋るような眼差しを藤木に向けた。
「二人だけになりたかったの」
「俺はね」
怒りを抑えて藤木が言った。
「今、仕事の追い込みなんだよ。あのまま書いて居りゃ、今頃はエンドマークが出ているんだ!」
「そう・・・」
瑠璃は皮肉っぽい眼付きで言った。
「それだったら、どうして、私に、終わるまで待って居ろ、って言わなかったの?」
藤木は心の中で呟いた。
冗談じゃない、その貌で眼の前に居られたら仕事が手に着かないよ!・・・
だが、心とは裏腹に藤木は冷静に言った。
「解かってくれないかなぁ。俺はねぇ、仕事と遊びにはけじめをつけたいんだよ。君は一日中暇だろうが、俺は仕事に追われているんだ、毎日」
「以前は毎日でも会いたがった癖に」
瑠璃は批難がましい口調で言った。
「この頃、私を避けているんじゃない?」
それは君がいけないんだ・・・
その言葉は口に出せなかった。それを言えば彼女の自尊心に傷がつく。藤木は、自分の自尊心を貫く為ならけろりと嘘をも吐きかねない瑠璃の性格を既に理解していた。
「やっぱり別れた方が良いよ、俺達」
東京に向かうビートルの中で藤木は瑠璃に言った。
「どうして?」
「君だってこんな関係を続けていると、毎日が暗いだろう?」
「・・・逃げるのね」
正面を見据えて瑠璃は低い声で言った。
「他の男を見つけて結婚しろよ。君なら幾らでも直ぐに相手は見つかるさ」
瞬間・・・瑠璃がアクセルを強く踏みしめた。凄まじい排気音と共に藤木の背中がシートに張り付いた。彼女の横顔を眺めると表情が強張っていた。何かに執り憑かれたようにハンドルを握っている。速度計が見る見る上がり、時速百三十キロを超えた。ビートルはあっと言う間に前を疾る二台の車を追い抜いた。
「おい、スピードを出し過ぎるぞ!」
「わたし、死ぬの」
思い詰めた顔で瑠璃が言った。
「あなたと一緒に・・・」
藤木の眼にトラックの荷台が急速に迫って来た。一瞬、藤木は蒼白になった。
今、横合いからブレーキを踏めば、ビートルは確実にスピンする、慌てるな・・・
彼は自分に言い聞かせた。
上手く宥めないと、瑠璃ならやりかねない・・・
「二人が心中したら拙いんじゃないか」
藤木が瑠璃の自尊心を擽るように言った。
「君の相手が妻子の居る浮気な男だと知ったら、両親はおろか叔父さんの顔にも泥を塗ることになるよ」
ビートルは次第にスピードを落として行った。間近かに迫ったトラックの荷台が再び前へ遠ざかって行った。
藤木は思わず吐息を吐いた。
「判ったわ」
高速道路の待避線にビートルを乗り入れて瑠璃が言った。
「今日限りに別れてあげる。ちゃんとした相手を探して結婚するわ、あなたが言うように・・・」
然し、藤木はその言葉を素直には信じなかった。彼女のこれまでの行動から推して、それは信じ難かった。
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