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第六話 三十路の女ともだち
②理恵の恋人、新劇俳優の細川崇
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その時、ティールームの入口に一人の男が立って店内を見回した。
何処かで観たことがある顔だと早希は思ったが、愕いたことに、理恵が男に向かって手を挙げた。
「此処よ!」
男が近づいて来て理恵の隣に腰掛けた。
「紹介するわ、細川崇さん。新劇俳優だけど、テレビにも出ているから、早希も知っているでしょう?」
番組の名前を言われて早希は頷いた。道理で、何処かで観た顔だと思った訳である。
「私の親友の笹本早希さん」
細川が眼元に微笑を湛えた。
「今日はお知合いの結婚式だったそうで、何はともあれ、お疲れさまでした」
話す声の響きがテレビで訊いた声と同じだった。
理恵が本音とも取れる感想を漏らした。
「結婚式もこの歳になると心が浮き立つことも無く、何か複雑な気分なのよね・・・それより、あなた、コーヒー、飲む?」
細川が、否、と言うように首を横に振った。
「東京へ帰ってから飲みましょうよ」
理恵と早希を待たせておいて、細川は駐車場から車を出して来た。洒落た欧州車だった。細川が後部のドアを開けて、女性二人を乗せた。
「あなた、前でなくて良いの?」
早希がそっと囁いたが、理恵は含み笑いを貌に滲ませただけで、何も言わなかった。
道路は暗く、空いていた。両側は丘や田畑や木立ばかりであった。
東京からの長い道程を、彼は、わざわざ理恵を迎える為だけに、車を飛ばして来たのだろうか?とすれば、二人の仲は相当に格別なものと考えなければならない・・・
これまで、理恵の口から彼の名前を聞いたことは無かった。尤も、ここ暫く、理恵とは電話で話しただけで、直接逢うのは久し振りであった。
「早希はね、喫茶店を経営しているのよ。彼女の店、コーヒーがとても美味しいの」
後部座席から理恵が細川に言った。
「じゃ、今から行きましょうか?」
「十時で閉店。第一、今日はお休みなの」
理恵の言う通り、今日は臨時休業だった。店には佐倉と言うマスターが居るが、彼の日頃の仕事振りを労って休みを取って貰い、偶の休業ということにしたのである。佐倉は早希が店を始めた時に父親の知人の紹介でやって来た初老の紳士であるが、信頼出来る実直な人柄で彼女はこれまで何でも彼に相談して来た。
五年前、早希が喫茶店を開いて独り立ちで人生を生き直そうと決心した時、マンションや店舗、資金や税理士などは父親が用意してくれたが、経営のノウハウやスキルなどは自分で身につけなければならなかった。彼女は一年間、専門スクールへ通ってカフェオーナーになる為の技術や知識を学び、食品衛生責任者の資格も取得した。
カフェフードやドリンクのスキル、サービストレーニングなどはマスターの佐倉が担ってくれた。来店者のニーズをしっかり掴み取り、リピートして貰えるサービスやメニューを常に佐倉と一緒に追求して考案し、今では安定した集客を確保出来ている。
カフェオーナーには、来店者がどんな空間やサービスを求めているかを速やかに察知し、それを形にして行くマーケティング力やプロデュース力が必要だったし、心のこもった接客力は佐倉が発揮してくれた。彼はカジュアルでベーシックな焼き菓子や副材料を組み合わせたオリジナルな商品とそのアレンジ、或は、テイクアウト&イートインに対応出来るドリンクの提供など、ベイク・カフェと言う新しい店舗経営や仕組みをも提案してくれた。佐倉はまた、生豆選びから焙煎を通して、焙煎度に合わせた最適な抽出技術を駆使して拘りの一杯を提供出来る技術も持ち合わせていた。早希はカフェ=コーヒーと言う概念に捉われず、紅茶、日本茶、中国茶など世界のコーヒーやティーの幅と個性を理解し、原材料から抽出方法、顧客が感じる味に至るまでのクオリティを彼から教わった。
早希はドリンクを中心にした店の経営基盤や空間造りやサービスをプランニングし、多様化するニーズに対応出来るカフェ造りを目指して、長く愛され続ける為の付加価値を追求して来た。
「わたし、適当な処で降ろして貰えれば、タクシーで帰るから・・・」
二人の邪魔になるような気がして早希がそう言うと、理恵が愉快そうに笑い飛ばした。
「何、僻んでいるの、ちゃんとマンションまで送るわよ」
細川もちょっと振り向いて、言った。
「ご心配無く、僕は車の運転は大好きですから」
仕事が終わった後、宛ても無く、車を走らせる、と彼は言った。
「昔はよく羽田や横浜まで走ったもんです、ええ」
「この人の運転は実に気持が良いのよ。スピード狂じゃないから安心して居らっしゃい」
確かに、車も良いのだろうが、運転も安定していて乗り心地は頗る良かった。
一日の疲れが出て、早希はクッションに凭れて眼を閉じた。その方が、理恵が細川と話し易いだろうと思ったのだが、理恵はあまり口を利かず、時折、細川の世間話に鬱としそうな返事をした。
成田空港から青山まで凡そ一時間半ほどだった。
「良いマンションですね」
早希を降ろしながら細川は十一階建てのマンションを見上げた。
早希が入居した時に新築分譲だったので、もう五年も前の建物であるが、父親の勤める大手ゼネコンの建築なのでがっしりとした余裕のある造作だった。住み心地は抜群で退去者は殆どいなかった。一階は広い喫茶店と美容室、それにファッションサロンが入って居る。喫茶店は早希の店で、美容室とファッションサロンはテナントだった。
翌朝、早希が目覚めたのは七時過ぎだった。
目覚まし時計はセットしてあったが、習慣で、いつもベルが鳴る前に起きてしまう。テラスには昨日より暖かい朝の陽が射していた。
マンションの隣は大邸宅であった。庭が広く花の咲く樹が何本も在った。三階に在る早希の部屋のテラスから最も近い樹はソメイヨシノだった。もうかなり蕾が膨らんでいる。その向こうに在る八重桜の開花は未だ未だ先のようであった。
池の向こうに些か古い洋館が建っていた。ゆったりとした感じの良い住居だったが、隣にマンションが出来て、庭も家もすっかり見通されてしまうのが住人にとっては不愉快なことであったろう。
何処かで観たことがある顔だと早希は思ったが、愕いたことに、理恵が男に向かって手を挙げた。
「此処よ!」
男が近づいて来て理恵の隣に腰掛けた。
「紹介するわ、細川崇さん。新劇俳優だけど、テレビにも出ているから、早希も知っているでしょう?」
番組の名前を言われて早希は頷いた。道理で、何処かで観た顔だと思った訳である。
「私の親友の笹本早希さん」
細川が眼元に微笑を湛えた。
「今日はお知合いの結婚式だったそうで、何はともあれ、お疲れさまでした」
話す声の響きがテレビで訊いた声と同じだった。
理恵が本音とも取れる感想を漏らした。
「結婚式もこの歳になると心が浮き立つことも無く、何か複雑な気分なのよね・・・それより、あなた、コーヒー、飲む?」
細川が、否、と言うように首を横に振った。
「東京へ帰ってから飲みましょうよ」
理恵と早希を待たせておいて、細川は駐車場から車を出して来た。洒落た欧州車だった。細川が後部のドアを開けて、女性二人を乗せた。
「あなた、前でなくて良いの?」
早希がそっと囁いたが、理恵は含み笑いを貌に滲ませただけで、何も言わなかった。
道路は暗く、空いていた。両側は丘や田畑や木立ばかりであった。
東京からの長い道程を、彼は、わざわざ理恵を迎える為だけに、車を飛ばして来たのだろうか?とすれば、二人の仲は相当に格別なものと考えなければならない・・・
これまで、理恵の口から彼の名前を聞いたことは無かった。尤も、ここ暫く、理恵とは電話で話しただけで、直接逢うのは久し振りであった。
「早希はね、喫茶店を経営しているのよ。彼女の店、コーヒーがとても美味しいの」
後部座席から理恵が細川に言った。
「じゃ、今から行きましょうか?」
「十時で閉店。第一、今日はお休みなの」
理恵の言う通り、今日は臨時休業だった。店には佐倉と言うマスターが居るが、彼の日頃の仕事振りを労って休みを取って貰い、偶の休業ということにしたのである。佐倉は早希が店を始めた時に父親の知人の紹介でやって来た初老の紳士であるが、信頼出来る実直な人柄で彼女はこれまで何でも彼に相談して来た。
五年前、早希が喫茶店を開いて独り立ちで人生を生き直そうと決心した時、マンションや店舗、資金や税理士などは父親が用意してくれたが、経営のノウハウやスキルなどは自分で身につけなければならなかった。彼女は一年間、専門スクールへ通ってカフェオーナーになる為の技術や知識を学び、食品衛生責任者の資格も取得した。
カフェフードやドリンクのスキル、サービストレーニングなどはマスターの佐倉が担ってくれた。来店者のニーズをしっかり掴み取り、リピートして貰えるサービスやメニューを常に佐倉と一緒に追求して考案し、今では安定した集客を確保出来ている。
カフェオーナーには、来店者がどんな空間やサービスを求めているかを速やかに察知し、それを形にして行くマーケティング力やプロデュース力が必要だったし、心のこもった接客力は佐倉が発揮してくれた。彼はカジュアルでベーシックな焼き菓子や副材料を組み合わせたオリジナルな商品とそのアレンジ、或は、テイクアウト&イートインに対応出来るドリンクの提供など、ベイク・カフェと言う新しい店舗経営や仕組みをも提案してくれた。佐倉はまた、生豆選びから焙煎を通して、焙煎度に合わせた最適な抽出技術を駆使して拘りの一杯を提供出来る技術も持ち合わせていた。早希はカフェ=コーヒーと言う概念に捉われず、紅茶、日本茶、中国茶など世界のコーヒーやティーの幅と個性を理解し、原材料から抽出方法、顧客が感じる味に至るまでのクオリティを彼から教わった。
早希はドリンクを中心にした店の経営基盤や空間造りやサービスをプランニングし、多様化するニーズに対応出来るカフェ造りを目指して、長く愛され続ける為の付加価値を追求して来た。
「わたし、適当な処で降ろして貰えれば、タクシーで帰るから・・・」
二人の邪魔になるような気がして早希がそう言うと、理恵が愉快そうに笑い飛ばした。
「何、僻んでいるの、ちゃんとマンションまで送るわよ」
細川もちょっと振り向いて、言った。
「ご心配無く、僕は車の運転は大好きですから」
仕事が終わった後、宛ても無く、車を走らせる、と彼は言った。
「昔はよく羽田や横浜まで走ったもんです、ええ」
「この人の運転は実に気持が良いのよ。スピード狂じゃないから安心して居らっしゃい」
確かに、車も良いのだろうが、運転も安定していて乗り心地は頗る良かった。
一日の疲れが出て、早希はクッションに凭れて眼を閉じた。その方が、理恵が細川と話し易いだろうと思ったのだが、理恵はあまり口を利かず、時折、細川の世間話に鬱としそうな返事をした。
成田空港から青山まで凡そ一時間半ほどだった。
「良いマンションですね」
早希を降ろしながら細川は十一階建てのマンションを見上げた。
早希が入居した時に新築分譲だったので、もう五年も前の建物であるが、父親の勤める大手ゼネコンの建築なのでがっしりとした余裕のある造作だった。住み心地は抜群で退去者は殆どいなかった。一階は広い喫茶店と美容室、それにファッションサロンが入って居る。喫茶店は早希の店で、美容室とファッションサロンはテナントだった。
翌朝、早希が目覚めたのは七時過ぎだった。
目覚まし時計はセットしてあったが、習慣で、いつもベルが鳴る前に起きてしまう。テラスには昨日より暖かい朝の陽が射していた。
マンションの隣は大邸宅であった。庭が広く花の咲く樹が何本も在った。三階に在る早希の部屋のテラスから最も近い樹はソメイヨシノだった。もうかなり蕾が膨らんでいる。その向こうに在る八重桜の開花は未だ未だ先のようであった。
池の向こうに些か古い洋館が建っていた。ゆったりとした感じの良い住居だったが、隣にマンションが出来て、庭も家もすっかり見通されてしまうのが住人にとっては不愉快なことであったろう。
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