愛の裏切り

相良武有

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第三話 愛の虚妄

⑧次郎は麗華の肉体に淫した

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 二人の関係が度重なるにつれて次郎は麗華の肉体に淫した。それを留めようとしながら、結局、彼女は己の全ての底の底に在る渇えたような自分をどうすることも出来なかった。彼女が徐々に教え込んだ愛技で互いに求め合い満たし合いながら、麗華はふと自分の誤算に気付いて狼狽えた。嘗て満たされ合いと共に育って行った沢本に対する思慕の情を、相手を変えて次郎に求める時、彼女は自分の教え込んだ愛技の故に、次郎が最早や引き留め難くその技にだけ淫してしまったのを覚った。
 やがて冬が来て何かにつけて不便な季節になっても、次郎は週に一、二度は麗華の元へ通った。麗華が歳をとった訳ではない。唯、沢本よりも若々しく粗野な次郎のエネルギーは、沢本が麗華に教え麗華が彼に伝えた性愛の技を外れても、その激しさだけで麗華を逆に引き摺って行きさえした。そして、彼女は最早それに溺れても居た。それは、嘗ての実体の無い愛の虚妄に縛られた麗華の愛における一つの反作用であった。彼女が今得たものこそが、また異なった一つの全き愛であったのである。が、それでも彼女は時折、不安になった。彼女が企てて始まった次郎との交渉がこういう形となった今では、二人の関係の主導権は何方に在るのか、麗華には覚束無かった。嘗て麗華が虚妄に支配されて傅いた誤算が、今また次郎の肉体について繰り返されているのだった。彼女は又しても彼との交渉の中で、次郎に対する渇きの内に自分自身を見失って行った。だから麗華は、次郎とのベッドの中の会話の内で沢本について語り、沢本が嘗て彼女に教え、それを最も素晴らしいと彼女も信じたことを次郎に話して聞かせた。次郎は、麗華の期待した嫉妬の表情も現わさずに、黙ってそれを聴いていた。彼はベッドを離れた時、ちょっと胡乱な眼差しを麗華に向けただけだった。
 その後、二週間も顔を見せない次郎を、麗華は、きっとあの夜にベッドで語った沢本との経緯が思った通りに彼の胸に強い嫉妬を呼び起こしたものと思い込んだ。やがてはやって来る次郎を、彼女は余裕を持って迎えることが出来ると思った。
だが、次郎は一向に現れなかった。焦燥と懸念に気が落ち着かない日々を過ごしながら、姿を見せない彼を思うと、麗華は前には得手勝手に自分で納得させていたことが全て誤算に思え、逆に彼に対する思慕とも渇望ともつかぬ苛立ちが彼女の肉体を責めて苛んだ。だが、そうした苛立ちが決して嫉妬にならなかったところに、彼女の一人勝手な愛の仕組みが有ったのである。
堪りかねた麗華は所用に託けては街中へ出かけ、次郎の姿を探したが出逢うことは無かった。その都度、益々、身を締める苛立ちに今まで感じたことの無い一種の屈辱を背負って彼女はまた広い大きな邸宅へ帰った。
 麗華が気にしつつ待っている間にじりじりと一週間が過ぎた或る夕刻、彼女が入浴していると、浴室の窓を叩く音がした。恐る恐る窓を開けると次郎が立っていた。何処を通って来たのか肩で大きく息をし、頬に小さな掻き傷があった。裸を見られる羞恥も忘れて中へ招じ入れた麗華に次郎がにっこり微笑って言った。
「漸くやって来たよ」
そのまま掻き抱いて唇を合わせる中、次郎に窘められて麗華は着衣に奥へ入って行った。
その後、次郎と抱き合った彼女は久方振りに満たされ乍らも、先日来抱いて来たものとは全く別種の焦燥を感じた。次郎は彼女が教え込んだ愛技とはまた違う技で彼女を引き回した。そうした不意打ちに狼狽しながらも次郎の思うままに求められ、与えて、ことは終わった。その焦燥が当ての無い嫉妬であるなどとは一本気な麗華には判らなかった。
 次郎はそれ切りまた姿を見せなった。
麗華の肉体の内を得体の知れない幾種類もの苛立ちが駆け巡り、彼女は独りで居ることの淋しさに晒された。
 また春になって、気の入らない庭園の手入れを麗華が始めても次郎の姿は無かった。少し東の農園へ行けば彼が居ることは解って居ながらも彼女にはそれが出来なった。次郎が初めて一人で彼女の処へ来た時に掘り起こしてくれた球根を植えながら、麗華は自分の口から嘆息の漏れるのを聞いた。球根を一つ一つ手で埋めながら、こうしてまた次郎との思い出を己が手で埋めてしまうのだろうか、と思うと、思わず手が土を離れ、屈んだままよろめく躰を虚しく地に支えた。毎春行って来た樹木や花壇の手入れが限り無くただ疎ましい繰り返しに思えてならなかった。
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