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第十四話 愛は過誤を剋す
③弘美は笹本の宿泊するホテルの一室で告白していた
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基礎講座を休んでしまった或る火曜日の夜、弘美は笹本の宿泊するホテルの一室で彼に告白していた。
「この一年間、わたしって心も躰もブスなんだな、と思うことがよくあったの。でも、考えてみると、もう何一つ感じないような女に成ってしまって居たのね、きっと。あなたが私を良い女に変えてくれている気がするの」
笹本が言った。
「綺麗だよ、君は」
「ううん、そんなことは無いわ」
弘美が言った。
「でも、あなたと一緒に居ると、わたし、自分が綺麗な女なんじゃないかって感じるの。この一年間、こんな思いを感じることは無かったのに、どういうことなのかしら・・・」
笹本は次の作品の執筆準備に執りかかっていたが、彼女の為にいつも時間を割いてくれた。
弘美は時間が出来ると笹本に電話をして二人で美術館を歩き、空いた映画館で映画を観て、本屋を覗いて歩いた。彼は弘美に自分の本を幾冊か呉れたが「家に持ち帰るのだろうから」と言ってサインを書き入れてくれた。
一カ月後、弘美は自分の内で思っていた。
どうしよう、わたし、あの人を愛してしまったのかしら・・・私にはマンハッタンに婚約者が居ると言うのに・・・
弘美はまた改めて小説を書くことに打ち込んだ。高校の同級生たち六人の十年後の姿を描いた「クラスメイト」という作品の執筆に没頭した。
プロのジャズピアニストを志しながら突発性難聴を患って挫折した茉莉が、同級生の謙一に励まされ支えられて再生を目指す「ジャズピアニスト」
幼くして父親を亡くした謙一は高校を出て直ぐに印章彫刻師の見習に就いたが、伝統工芸師のその仕事は一人前になるのに十年を要した「負けて堪るか」
ラグビーのスクラムに潰されて首の骨を折り二十二歳で早逝した達哉。その人生は思いも悔いも残るものだった「ラガーマン」
女子プロ野球リーグのエース由香は酷使が祟って右手指血行障害と診断されて絶望した。救ったのは高校の同級生謙一の言葉だった「女子プロ野球選手」
男を刺して刑務所に入った孤児のホステス遼子は出所後、造園業を営む同級生後藤の支援で女庭師として再生するが「女庭師」、など・・・
この作品も笹本の批評は概ね好評だった。
「高校の同級生たちの人生について、オムニバス形式で綴られた小説だね。それぞれの登場人物が逆境の中で、悩み葛藤しながらも懸命に生きている様子が描かれている。教訓的なセリフからも君の読者に対する強いメッセージが伺い知れるよ。近年、ひとり親家庭で育つ子供や先天性の病気を抱えた子供などが増えていて、厳しい状況の中で生きていかなくてはいけない子供達が数多く居るけれども、そういった若者達に希望を与えるような物語の数々だと感じたよ」
但し、今回は、彼は注文を付けることも忘れなかった。
「これも完成度の高い作品だけど、改善すべき点も幾つか有るよ。単調なセリフのやりとりや長い状況説明は、読む者に間延びした印象を抱かせてしまう可能性があるね。物語で最も重要な場面を際立たせる為にも、同じような応答や説明は纏めた方がベターだよ。より一層、原稿を磨き上げて欲しいと思う」
受講期間の一年は、あっと言う間に過ぎた。
終講日の夜、弘美は言いようの無い悲しみと寂しさに心が蔽われて行くのを感じた。最後の夜に彼女は笹本に逢えなかった。関係者による打上げパーティーが催されるとかで、彼は足早やに会場を去って行った。
次の日の朝は、冷たい雨が激しく降り頻っていた。弘美は降る雨を見詰めながら、自分の心が益々打ち沈んで行くのをどうしようもなかった。
彼女は笹本に逢う為に彼の泊まっているホテルへ出向いた。
だが、彼は既にチェック・アウトしていた。
フロントマンが言った。
「いえ、別に在りませんが・・・」
伝言は無かった。住所も連絡先も電話番号も残こされていなかった。
弘美は講座を開催した新聞社へ電話を入れ、彼の著作を刊行している出版社へ問い合わせたが、何も教えては貰えなかった。
「個人的な事柄についてはお答え致しかねます」
笹本は姿を消してしまったのだった。
今となっては、最早、弘美に為す術はなかった。
弘美は雨の降り続く道を何時間も彷徨い歩いた。彼女の両眼の中で、道と言う道が怒りと痛みと虚しさの涙で滲み続けた。午後になって弘美は、ずぶ濡れの服と濡れて縺れて乱れた髪をして家に帰った。そして、笹本が呉れた数冊の本を持ち出すと、褐色のごみ袋に包んで道端の角に在るゴミ箱へ捨てた。彼女は高熱に犯されて二日間寝込んだ。
二カ月後、弘美は戦慄した。
生理が止まっていた。産婦人科医は、疑いも無く、妊娠していることを告げた。
彼女に考える余地は無かった。彼女の決断は速かった。が、母親に隠し通せることでは無かった。事実を打ち明けた後、勤務する学校へ十日間の休暇を申請して中絶手術を受けた。
弘美は出来る限りのことを一人で処置した。
これは私自身の問題だ。自分ひとりで責任を取るのが当然なのだ。それに、二十四歳にもなる良い大人が他人の力を宛てにすることじゃないわ・・・
彼女はそう思って、母親の力も借りなかった、全部を一人で処理した。そして、笹本のことも小説を書くことも、これで終わった、と踏ん切りをつけた。
中絶手術のあと、弘美は泣かなかった。泣いてどうなるものか、と涙は溢さなかった。
そして、夜通し一睡もせずに朝になった時、気持の整理だけは着いていた。どうしてそれ程までに気丈で居られたのか、彼女自身にもよくは解らなかった。
だが、中絶手術の後、弘美はずうっと心と身体の調子が優れなかった。子供を始末した罪悪感に苦しみ、夜ごと現れる水子の霊に慄いた。
腹の中に大きな空洞が出来たように感じて、其の場処が物凄く寒かった。布団を被ってもカイロや湯たんぽで温めても駄目だった。
又、真夜中に金縛りにあって目が覚めると、枕元に怖い形相をした赤ん坊が居たり、寝るのが怖くて起きていても、廊下から赤ん坊が這いずり回る音が聞こえたり、泣き喚く声が聞こえたりした。弘美は怖くて辛くて死ぬことも考えた。
水子の霊に摂り憑かれない為に、と母親から教わった神社へ幾度かお参りし、祈祷を受けて水子供養をした後、彼女は小さなお守りを買った。それを腰に着けて歩くと、ぶら下がった鈴からチリンと言う安らかな音がした。そして、もう二度と子供はつくらない、と固く心に決めた時から水子は現れなくなった。
それから、二月ほどが経った或る日、弘美は新聞の「読書欄」で笹本恒夫の新刊小説が紹介されているのを読んだ。
それは高校の女教師と人気の流行作家との愛を描いたものであったが、書評には、笹本恒夫にとっては新境地を開く作品だろう、と書かれていた。その日、弘美は本屋へ出かけて購入し、一気に読破した。ヒロインの女教師についてのディテールは、実に完璧と言って良いほど見事に弘美を観察し記憶し、描写し、書き綴られていた。
彼女は思った。
ああ、私は大きな思い違いをしていた。彼にとっては、あれは単なる取材活動にしか過ぎなかったのだ。あの頃、愛の「あ」の字も良く解っていなかった私が、いっぱしの大人の女に成った心算で振る舞っていたんだ・・・
読後感は、それほど良い物語とは思えなかった。
何処にでもよくある話だわ・・・
弘美は無造作に本棚に立て掛け、二度とその本を開くことは無かった。
「この一年間、わたしって心も躰もブスなんだな、と思うことがよくあったの。でも、考えてみると、もう何一つ感じないような女に成ってしまって居たのね、きっと。あなたが私を良い女に変えてくれている気がするの」
笹本が言った。
「綺麗だよ、君は」
「ううん、そんなことは無いわ」
弘美が言った。
「でも、あなたと一緒に居ると、わたし、自分が綺麗な女なんじゃないかって感じるの。この一年間、こんな思いを感じることは無かったのに、どういうことなのかしら・・・」
笹本は次の作品の執筆準備に執りかかっていたが、彼女の為にいつも時間を割いてくれた。
弘美は時間が出来ると笹本に電話をして二人で美術館を歩き、空いた映画館で映画を観て、本屋を覗いて歩いた。彼は弘美に自分の本を幾冊か呉れたが「家に持ち帰るのだろうから」と言ってサインを書き入れてくれた。
一カ月後、弘美は自分の内で思っていた。
どうしよう、わたし、あの人を愛してしまったのかしら・・・私にはマンハッタンに婚約者が居ると言うのに・・・
弘美はまた改めて小説を書くことに打ち込んだ。高校の同級生たち六人の十年後の姿を描いた「クラスメイト」という作品の執筆に没頭した。
プロのジャズピアニストを志しながら突発性難聴を患って挫折した茉莉が、同級生の謙一に励まされ支えられて再生を目指す「ジャズピアニスト」
幼くして父親を亡くした謙一は高校を出て直ぐに印章彫刻師の見習に就いたが、伝統工芸師のその仕事は一人前になるのに十年を要した「負けて堪るか」
ラグビーのスクラムに潰されて首の骨を折り二十二歳で早逝した達哉。その人生は思いも悔いも残るものだった「ラガーマン」
女子プロ野球リーグのエース由香は酷使が祟って右手指血行障害と診断されて絶望した。救ったのは高校の同級生謙一の言葉だった「女子プロ野球選手」
男を刺して刑務所に入った孤児のホステス遼子は出所後、造園業を営む同級生後藤の支援で女庭師として再生するが「女庭師」、など・・・
この作品も笹本の批評は概ね好評だった。
「高校の同級生たちの人生について、オムニバス形式で綴られた小説だね。それぞれの登場人物が逆境の中で、悩み葛藤しながらも懸命に生きている様子が描かれている。教訓的なセリフからも君の読者に対する強いメッセージが伺い知れるよ。近年、ひとり親家庭で育つ子供や先天性の病気を抱えた子供などが増えていて、厳しい状況の中で生きていかなくてはいけない子供達が数多く居るけれども、そういった若者達に希望を与えるような物語の数々だと感じたよ」
但し、今回は、彼は注文を付けることも忘れなかった。
「これも完成度の高い作品だけど、改善すべき点も幾つか有るよ。単調なセリフのやりとりや長い状況説明は、読む者に間延びした印象を抱かせてしまう可能性があるね。物語で最も重要な場面を際立たせる為にも、同じような応答や説明は纏めた方がベターだよ。より一層、原稿を磨き上げて欲しいと思う」
受講期間の一年は、あっと言う間に過ぎた。
終講日の夜、弘美は言いようの無い悲しみと寂しさに心が蔽われて行くのを感じた。最後の夜に彼女は笹本に逢えなかった。関係者による打上げパーティーが催されるとかで、彼は足早やに会場を去って行った。
次の日の朝は、冷たい雨が激しく降り頻っていた。弘美は降る雨を見詰めながら、自分の心が益々打ち沈んで行くのをどうしようもなかった。
彼女は笹本に逢う為に彼の泊まっているホテルへ出向いた。
だが、彼は既にチェック・アウトしていた。
フロントマンが言った。
「いえ、別に在りませんが・・・」
伝言は無かった。住所も連絡先も電話番号も残こされていなかった。
弘美は講座を開催した新聞社へ電話を入れ、彼の著作を刊行している出版社へ問い合わせたが、何も教えては貰えなかった。
「個人的な事柄についてはお答え致しかねます」
笹本は姿を消してしまったのだった。
今となっては、最早、弘美に為す術はなかった。
弘美は雨の降り続く道を何時間も彷徨い歩いた。彼女の両眼の中で、道と言う道が怒りと痛みと虚しさの涙で滲み続けた。午後になって弘美は、ずぶ濡れの服と濡れて縺れて乱れた髪をして家に帰った。そして、笹本が呉れた数冊の本を持ち出すと、褐色のごみ袋に包んで道端の角に在るゴミ箱へ捨てた。彼女は高熱に犯されて二日間寝込んだ。
二カ月後、弘美は戦慄した。
生理が止まっていた。産婦人科医は、疑いも無く、妊娠していることを告げた。
彼女に考える余地は無かった。彼女の決断は速かった。が、母親に隠し通せることでは無かった。事実を打ち明けた後、勤務する学校へ十日間の休暇を申請して中絶手術を受けた。
弘美は出来る限りのことを一人で処置した。
これは私自身の問題だ。自分ひとりで責任を取るのが当然なのだ。それに、二十四歳にもなる良い大人が他人の力を宛てにすることじゃないわ・・・
彼女はそう思って、母親の力も借りなかった、全部を一人で処理した。そして、笹本のことも小説を書くことも、これで終わった、と踏ん切りをつけた。
中絶手術のあと、弘美は泣かなかった。泣いてどうなるものか、と涙は溢さなかった。
そして、夜通し一睡もせずに朝になった時、気持の整理だけは着いていた。どうしてそれ程までに気丈で居られたのか、彼女自身にもよくは解らなかった。
だが、中絶手術の後、弘美はずうっと心と身体の調子が優れなかった。子供を始末した罪悪感に苦しみ、夜ごと現れる水子の霊に慄いた。
腹の中に大きな空洞が出来たように感じて、其の場処が物凄く寒かった。布団を被ってもカイロや湯たんぽで温めても駄目だった。
又、真夜中に金縛りにあって目が覚めると、枕元に怖い形相をした赤ん坊が居たり、寝るのが怖くて起きていても、廊下から赤ん坊が這いずり回る音が聞こえたり、泣き喚く声が聞こえたりした。弘美は怖くて辛くて死ぬことも考えた。
水子の霊に摂り憑かれない為に、と母親から教わった神社へ幾度かお参りし、祈祷を受けて水子供養をした後、彼女は小さなお守りを買った。それを腰に着けて歩くと、ぶら下がった鈴からチリンと言う安らかな音がした。そして、もう二度と子供はつくらない、と固く心に決めた時から水子は現れなくなった。
それから、二月ほどが経った或る日、弘美は新聞の「読書欄」で笹本恒夫の新刊小説が紹介されているのを読んだ。
それは高校の女教師と人気の流行作家との愛を描いたものであったが、書評には、笹本恒夫にとっては新境地を開く作品だろう、と書かれていた。その日、弘美は本屋へ出かけて購入し、一気に読破した。ヒロインの女教師についてのディテールは、実に完璧と言って良いほど見事に弘美を観察し記憶し、描写し、書き綴られていた。
彼女は思った。
ああ、私は大きな思い違いをしていた。彼にとっては、あれは単なる取材活動にしか過ぎなかったのだ。あの頃、愛の「あ」の字も良く解っていなかった私が、いっぱしの大人の女に成った心算で振る舞っていたんだ・・・
読後感は、それほど良い物語とは思えなかった。
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