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第十三話 縁の愛
⑨「あぁ、あなたはやっと私を女として受容れてくれた」
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聡亮は四年間の学士課程を終えると大学院に残って修士課程に進み、その二年後に大学と関係の深かった京都の有名私大に職を得た。無論、所属は専門の文学部だった。そして、三歳年上の兄が結婚して両親と同居したのを機に家を出て、勤めた大学の近くで独りマンション暮らしを始めた。マンションは実家と大学の中ほど辺りに在った。
香織は聡亮よりも一年遅れて大学院を卒業し、神戸に本社を置く東証一部上場の大きな重工業会社に勤めた。配属された本社の研究開発棟はそれだけで一つの会社かと思えるほど広くて大きいものだった。
香織がこの会社を志望した時、父親が言った。
父親は香織が三回生になった春に七年間の単身赴任を終えて京都の家に帰って来ていた。
「お袋は歳を取ったが未だ未だ元気だ。儂も未だ五十を過ぎたばかりだ。俺達のことは心配しないで良いから、自分のことだけを考えて、やりたいことをしっかりやりなさい」
そう父親に背中を押されて、香織は実家を離れ、神戸の三ノ宮にマンションを借りて研究開発者としての独り暮らしを始めた。だが、彼女は週末になると必ず京都の実家へ帰った。香織には姉妹は居ない。一人娘への父親の愛情の深さは並大抵ではない。ましてや、思春期と青春期の七年もの間を離れて暮らして来た父娘である。彼女も父親の思いを十二分に理解していた。
尤も、香織が毎週末に実家へ帰るのはそれだけではなかった。彼女には京都に居る聡亮に会うというもう一つの理由が在った。二人の関係は、時として親密になり、時として疎遠になったりしながらも続いていたし、就職して社会へ出てからは急速にその距離が縮まっていた。
あれは初めて聡亮が香織を神戸に訪ねた晩だった。
週末の金曜日に、仕事を終えた聡亮が香織の前に姿を現したのは午後の七時前だった。終業後に京都から神戸まで出向くと速くてもそれ位の時刻にはなるのだった。
その日、彼女は少し早く待ち合せの喫茶店に着いてしまった。当然ながら聡亮は未だ来ていなかった。
運ばれて来た熱いコーヒーは良い香りがしたし、一日の仕事の疲れを拭い取ってくれた。香織はコーヒーを啜りながら彼を待った。
「悪かったなあ、待たせちゃって」
息せき切るような態で聡亮はやって来た。
「此処、直ぐに判ったかしら?」
「ああ、判ったよ。だって、三ノ宮駅の直ぐ前だもん、駅を出れば眼の前だったよ」
週末の夜で、上司から酒に誘われたのを断わって来た、と言う話だった。
聡亮は社会へ出てから少し明るく陽気に変わったようである。学生時代のように小理屈を捏ねてくそ真面目に鬱とうしく話すことは随分と減ったし、態度や振舞いも軽やかになった。冗談も良く口にする。仕事や環境の変化、多種多様な人間との関わりなどが彼を変えたのかも知れなかった。「こうしなければならない」「ああしなければならない」から「こうしたい」「ああしたい」に、価値観が変わった風でもあったし、それは、ある意味、香織に寄り添う生き方であるようにも思われた。
「デートか、って聞かれたから、そうです、って言ったんだ。あの人にはご祝儀を弾んで貰わんといかんからな。それも言って置いたよ」
聡亮の言い方は持って回った言い方だったが、香織は息を詰めた。
これって、婉曲なプロポーズなのか?それにしても、あっけらかんとして如何にも唐突じゃないの・・・
「急に、何を言っているのよ、馬鹿ね・・・」
「はっはっはっはっは」
「私、あなたが考えているような女じゃいわよ」
「どんな女だと言うんだ?どんな女であろうと、俺に取っちゃ君は君だよ」
「ね、あなた、お腹空かない?」
香織は慌てて話題を変えた。
「今夜、チャーハンを作る予定だったの。マンションで一緒に食べない?」
また何か反対の言葉を言って詰られるか、と香織は危惧したが、今夜の聡亮は違っていた。彼女の言葉を素直に聞いて、眼を見張った。
「ワインも在るしビールも在る。ポテトサラダも作れるわ」
聡亮の眼が輝き、頬に赤味が差した。
「然し、君も仕事で疲れているだろう、何処か外で食べた方が良いんじゃないか?」
「マンションへ帰った方が私は落ち着くわよ」
「然し、今日はこれから京都へ帰るんじゃないのか?」
「京都へは帰らないわ。あなたが初めて私の処へ慰労に来てくれたんだもの、こんな遠くまで、ね」
やがて二人は喫茶店を出てぶらぶらとタクシー乗り場へ向かった。そろそろ十月の末であった。香織は少し肌寒さを覚えた。それを察したのか、聡亮が無造作に香織の肩に腕を廻した。
初めて抱き合った後、香織は流れる涙を拭いもせずに言った。
「ああ、あなたはやっと私を受容れてくれた。女として初めて認めてくれた。わたしはどれほどこれを・・・」
後は言葉にならなかった。
香織は暫くすすり泣いた。
聡亮が優しく香織を抱き寄せた。
香織は聡亮よりも一年遅れて大学院を卒業し、神戸に本社を置く東証一部上場の大きな重工業会社に勤めた。配属された本社の研究開発棟はそれだけで一つの会社かと思えるほど広くて大きいものだった。
香織がこの会社を志望した時、父親が言った。
父親は香織が三回生になった春に七年間の単身赴任を終えて京都の家に帰って来ていた。
「お袋は歳を取ったが未だ未だ元気だ。儂も未だ五十を過ぎたばかりだ。俺達のことは心配しないで良いから、自分のことだけを考えて、やりたいことをしっかりやりなさい」
そう父親に背中を押されて、香織は実家を離れ、神戸の三ノ宮にマンションを借りて研究開発者としての独り暮らしを始めた。だが、彼女は週末になると必ず京都の実家へ帰った。香織には姉妹は居ない。一人娘への父親の愛情の深さは並大抵ではない。ましてや、思春期と青春期の七年もの間を離れて暮らして来た父娘である。彼女も父親の思いを十二分に理解していた。
尤も、香織が毎週末に実家へ帰るのはそれだけではなかった。彼女には京都に居る聡亮に会うというもう一つの理由が在った。二人の関係は、時として親密になり、時として疎遠になったりしながらも続いていたし、就職して社会へ出てからは急速にその距離が縮まっていた。
あれは初めて聡亮が香織を神戸に訪ねた晩だった。
週末の金曜日に、仕事を終えた聡亮が香織の前に姿を現したのは午後の七時前だった。終業後に京都から神戸まで出向くと速くてもそれ位の時刻にはなるのだった。
その日、彼女は少し早く待ち合せの喫茶店に着いてしまった。当然ながら聡亮は未だ来ていなかった。
運ばれて来た熱いコーヒーは良い香りがしたし、一日の仕事の疲れを拭い取ってくれた。香織はコーヒーを啜りながら彼を待った。
「悪かったなあ、待たせちゃって」
息せき切るような態で聡亮はやって来た。
「此処、直ぐに判ったかしら?」
「ああ、判ったよ。だって、三ノ宮駅の直ぐ前だもん、駅を出れば眼の前だったよ」
週末の夜で、上司から酒に誘われたのを断わって来た、と言う話だった。
聡亮は社会へ出てから少し明るく陽気に変わったようである。学生時代のように小理屈を捏ねてくそ真面目に鬱とうしく話すことは随分と減ったし、態度や振舞いも軽やかになった。冗談も良く口にする。仕事や環境の変化、多種多様な人間との関わりなどが彼を変えたのかも知れなかった。「こうしなければならない」「ああしなければならない」から「こうしたい」「ああしたい」に、価値観が変わった風でもあったし、それは、ある意味、香織に寄り添う生き方であるようにも思われた。
「デートか、って聞かれたから、そうです、って言ったんだ。あの人にはご祝儀を弾んで貰わんといかんからな。それも言って置いたよ」
聡亮の言い方は持って回った言い方だったが、香織は息を詰めた。
これって、婉曲なプロポーズなのか?それにしても、あっけらかんとして如何にも唐突じゃないの・・・
「急に、何を言っているのよ、馬鹿ね・・・」
「はっはっはっはっは」
「私、あなたが考えているような女じゃいわよ」
「どんな女だと言うんだ?どんな女であろうと、俺に取っちゃ君は君だよ」
「ね、あなた、お腹空かない?」
香織は慌てて話題を変えた。
「今夜、チャーハンを作る予定だったの。マンションで一緒に食べない?」
また何か反対の言葉を言って詰られるか、と香織は危惧したが、今夜の聡亮は違っていた。彼女の言葉を素直に聞いて、眼を見張った。
「ワインも在るしビールも在る。ポテトサラダも作れるわ」
聡亮の眼が輝き、頬に赤味が差した。
「然し、君も仕事で疲れているだろう、何処か外で食べた方が良いんじゃないか?」
「マンションへ帰った方が私は落ち着くわよ」
「然し、今日はこれから京都へ帰るんじゃないのか?」
「京都へは帰らないわ。あなたが初めて私の処へ慰労に来てくれたんだもの、こんな遠くまで、ね」
やがて二人は喫茶店を出てぶらぶらとタクシー乗り場へ向かった。そろそろ十月の末であった。香織は少し肌寒さを覚えた。それを察したのか、聡亮が無造作に香織の肩に腕を廻した。
初めて抱き合った後、香織は流れる涙を拭いもせずに言った。
「ああ、あなたはやっと私を受容れてくれた。女として初めて認めてくれた。わたしはどれほどこれを・・・」
後は言葉にならなかった。
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