京都慕情

相良武有

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第十二話 再びの共生

③植木は聡子が暮らしたマンションに娘と連れ立って帰って来た

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 聡子が入院して最初の土曜日、植木は聡子が暮らしたマンションに娘と連れ立って帰って来た。アメリカへ赴任している息子は仕事の調整が着かず直ぐには帰国することが出来なかった。植木の胸は少し逆立った。
 室内を改めて眺めやると、かなりの広さのリビングだった。聡子が使っていた家具の幾つかが灰色の午後の光に洗われている。壁の本棚には、彼女が寂寥を囲いつつ独りで読み耽った本がぎっしりと詰まっていた。
窓際の円卓の傍らで立ち止まった植木は娘に言った。
「こうしてよく眺めると、なかなか良い部屋だな」
「お母さんも気に入っていたわ。居心地が良いって・・・」
「今どき、こういう普請はそうざらには無いな。こういう技術を心得ている腕扱きの職人が居なくなってしまったからな」
 植木は、箪笥やクローゼット、鏡台や洗面所の扉を開けてみた。
そこには、彼との破局後の、彼女の寂寞とした独居生活と、その寂寥感に負けまいと無理にも背筋を伸ばして自分を鞭打って生きて来た女ひとりの人生が、セピア色に塗り込められている気がした。
 植木は思った。
果たしてこの部屋が、希望と喜びと可能性で満たされたことがあったのだろうか?・・・自分以外の誰かと、人生に関する甘美な嘘を一度でも味わったことがあったのだろうか?・・・
クローゼットの隅には透明なスーツカバーを架けて純白のウエディングドレスが吊るされていたし、本棚の下段にはアルバムがひっそりと立っていた。アルバムの中には年代順にキチンと整理された植木との写真が収まって居た。
 植木は胸が疼く思いがした。
これらは二心無い彼女の確たる証として、終生保存されて行くべきものではなかったろうか?・・・
彼女の植木に対する拒絶と懲罰と自己犠牲の感情は、自分の愛を率直に疑念無く表すことも出来ず、伝えることも出来ない鬱積した感情が滓となって沈殿し、彼への憎悪となって発露したのではなかったのか?・・・偽り無い彼女の愛の裏返しではなかったのだろうか?・・・
植木は聡子との離別後、初めて自己呵責の念を憶えた。

「お父さん、お酒でも作ろうか?」
「ああ、頼むよ」
娘はダイニング・キッチンに入って行って、バーボンとソーダをミックスし始めた。窓の外を眺めやる植木の耳に、四角い氷がチリンとグラスに当たる音が聞こえた。
 窓の下の幹線道路は車の往来が激しかった。道路を隔てた向かい側の奥に大きな市立の公園が見えた。公園の木々は緑にもえたつ若葉に蔽われている。青緑の水を湛えた池の周囲で子供たちが遊んでいるのが見えた。公園の向こうの木々の上に遠い壁のように聳えているのはこの街のビル群だった。
「ソーダが多過ぎるようだったら言ってね、バーボンを注ぎ足すから」
「ありがとう」
娘に向かって口元を緩めて微笑むと、植木は又、公園に視線を戻して、黙然とグラスの酒を啜り始めた。
「ねえ、何を考えているの、お父さん?」
娘が訊いた。
「お前は相変わらず同じことを訊くんだな。小さな子供の時分から、お前は何かと言うと儂にそう訊ねたもんだ」
「ほんとう?」
「ああ。お前は何時も、儂が何を考えているのかを知りたがったものだ」
「それで、今は、何を考えているの?」
植木はテーブルの傍の椅子に腰を下ろし、足を組んで、暮れなずんで行く空を眺めた。
「今考えていたのは、昔、宇治公園の近くの家に住んでいた頃のことだよ。お前と、弟の浩と、母さん、それから儂と四人で、な。あの頃はよく夜になると二階の窓辺に座って、青白い照明灯に照らされた公園を眺めたものだ」
「そうだったわね」
「それともう一つ。お前が、そうだな、六つか七つの頃に、母さんがお前に買ってやった黄色い夏服のことも考えていたよ。七夕祭りの日に皆で宇治橋通りの商店街を歩いた時、あの服を着たお前はとても可愛かったからな。通りの両側には夜店がずらっと並び、綿菓子や水あめを買って金魚掬いもした。あの時、浩は玩具屋で仮面ライダーのベルトとメタルとアイコンを買ってくれとせがみおってなあ。帰ってから家の坪庭で、買って来た線香花火を燃したが、ぱちぱち弾ける花火を見詰める母さんの横顔は火花に照らされてとても綺麗だった」
「そのくらいにしときましょう、思い出話は」

「それから、家族がみんな揃っていた頃のことも思い出したよ。京都五山の送り火を皆で観光バスに揺られて見て廻ったことがあったな」
「ええ、憶えているわ。お盆の八月十六日の晩だったわね」
「母さんはお前と浩に、送り火の謂れや意味について熱心に説明して教えていた」
 点火されて夏の夜空にくっきりと浮かび上がる五山の送り火は、祇園祭と共に京都の夏を彩る一篇の風物詩である。この送り火は東山如意ケ嶽の「大文字」が最も良く知られているが、その他に、金閣寺近くに在る大北山の「左大文字」、松ヶ崎西山と東山の「妙法」、西賀茂船山の「船形」、上嵯峨仙翁寺山の「鳥居形」があり、これらが八月十六日の夜に相前後して点火されて、京都五山の送り火と言われているのである。
 一般的には、送り火そのものはお盆の翌日に行われる仏教的行事の一つで、再び冥府に還る精霊を送ると言う意味を持つものである。仏教が庶民の間に深く浸透した室町時代以降に、松明の火を空に投げ上げて虚空を行く霊を見送るという風習が生まれ、京都五山の送り火はこれが山に点火されて其処に留まったものである。
江戸時代には、山の送り火と並んで、平地でもその風習が行われ、「花洛細見図」所収の送り火の絵図に、松明を掲げ持ち或は地中に立てて供花している情景が描かれている。
「ねえ、また気が昂ると体に毒だわ、お父さんは血圧が高いのだから」
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