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第十二話 再びの共生
①「お母さんが倒れたの」
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リビングの壁際のソファーに深くもたれて、夕食後の心地良い倦怠感に浸りながら、植木は夕刊紙を読んでいた。タバコの火が途中まで来て、毀れ落ちそうになっている。
突然、テーブルの上に置いていた携帯電話が鳴った。
植木は読み止しの経済面を半畳みにして手を伸ばし、携帯電話を取った。
娘からの電話だった。
「お母さんが倒れたの!」
その声は切迫していた。
「死ぬかも知れないのよ。直ぐに来て頂戴!」
「解った。直ぐに行く!」
ああ、聡子が、何てこった!・・・
自動ロックの部屋のドアを後ろ手に閉めて、植木はマンションの駐車場へ急いだ。
外は雨だった。
車の流れは滞りがちだった。逸る心を抱えて植木は車を走らせた。
名神高速道に入る手前の十字路で停車した時、彼は、聡子との十二年間に及んだ結婚生活の間、毎年二人で大切に祝っていた誕生日を基に彼女の年齢を数えてみた。
未だ六十二歳じゃないか。逝くなよ、聡子!・・・
植木は西に向かって車を走らせ、名神高速道と阪神高速神戸3号線を乗り継いで、国道2号線に入った。
雨がひときわ激しく、道路の並木は強い雨脚の銀色のしぶきに打たれ、歩道沿いに小さな川のような流れが生じている。ワイパーをフル稼働させても視界は良好ではなかった。
左手の闇の中に黒々と、須磨海岸と須磨浦公園が見えた時、植木の心に、遥かな昔、真夏の昼間、照りつける太陽の下、二人で心行くまで海の香りを満喫し、夜には公園の乾いた草の上に横たわって、輝く空の星を見上げたあの夜の記憶が甦った。
あの晩二人は、これからの人生のさまざまな夢や希望や家庭について語り合った。
寝室には大きめのベッドと三面鏡を並べ、窓には花柄の繻子のカーテンを飾ろう。可愛らしい子供たちには、そう、息子には野球用具を、娘にはピアノを買ってやろう。好きなだけそれで楽しめば良い。子供たちが大きくなれば、二人で映画を観、コンサートに行き、瀟洒なレストランで食事をしよう。そして、出来る限り時間を作って、国内だけでなく広く海外へも旅行に出かけよう・・・
二人は人生のあらゆる可能性とその成就を夢見、彼の計画に聡子は優しさと安らぎと勇気を加味してくれ、慈しみと永続感に満ちた期待で彩ってくれた。その晩二人は、海沿いの白亜のホテルで夜が明けるまで初々しい愛の交歓にふけった。
「俺が二十七で、聡子が二十三歳だった」
植木は思わず声に出して言っていた。
雨に濡れた路面に目を凝らして、流れの悪い走行に苛ついている植木の胸に、あれから二人が辿った破局への道筋の記憶と、その後の二人の関係の記憶が甦って来た。
結婚後も中学校の教師を続けた聡子と、会社の仕事の負荷が次第に大きくなった植木は、仕事のこと、家庭のこと、子育てのこと、互いの分担役割のこと等々、毎日の生活での一寸した些細な感情のすれ違いや気持の縺れを度重ねて意思の疎通を欠き、互いに思いやりと寛容と敬愛の情を次第に失って、上の子の娘が十歳の時に二人は協議離婚した。
植木が家を出て京都市内の勤め先の近くにマンションを借り、聡子は、結婚後三年目に二人が購入した宇治市内の戸建住宅にそのまま暮らした。
その後の彼女は植木を呪縛することに生き甲斐を見出していたのではないかと彼は思っている。
「君も未だ若いのだから、もう一度人生をやり直して欲しい」
彼は何度か聡子に訴えた。だが、彼女は冷ややかに笑って拒否し、代わりに彼女が選んだのは大いなる拒絶の人生で、恋愛や再婚は無論のこと、女として生きることはその後一度もしなかった。
彼女は仏門に帰依した尼僧が自己を鞭打つことに喜びを見出すように、母親としての義務を果たすことと自己を犠牲にして生きることに執拗に固執し、彼を罰する反面感情として、子供たちを愛したのではなかったろうか?・・・
植木はもはや車を運転している感覚ではなかった。車が彼を運び、雨に煙る道路を、渋滞をも意に介さずに、聡子の運び込まれた病院へ一刻も早く連れて行こうとしているかのようであった。
夜の車の運転にはいつも苦痛の記憶が伴っている。
子供たちが未だ小さかった頃、彼等を車に乗せてピクニックに出かけ、ファーストフードのレストランで食事をさせた後、ぎこちない苦渋に満ちた口調で、何とか解って欲しい、と幾度も説いたものだった。
「お父さんがこうしてお前達に会いに来るのは、ただお前達と会いたいからなんだ。お前達を心の底から愛しているからなんだ」
夜に子供たちを宇治の家まで送って行くと、いつも、門の前に佇んで、二人は笑顔で手を振って見送ってくれた。
彼は過去の記憶を吹っ切って、現在に思いを凝らした。聡子は手術を受けているのだろうか?彼女の躰にメスが入るのだろうか?・・・
胸が切開され心臓にバイパスが通されるのか?脳が切り裂かれて、記憶や思考の襞が綺麗に延ばされ、機能しなくなるのだろうか?・・・
彼女の肉体、若々しく引き締まって輝いていた彼女の肉体、艶やかな長い黒髪、颯爽と闊歩するしなやかな足・・・
どうか死なないでくれ!!
あの頃、旅行やコンサート或は結婚記念日や誕生日等の思い出をアルバムに残こして、本棚を一杯にしようと話し合いながら、結局、二人が持ったアルバムはただの一冊に終わってしまった。植木は胸に重い錘が溜まったように感じた。
突然、テーブルの上に置いていた携帯電話が鳴った。
植木は読み止しの経済面を半畳みにして手を伸ばし、携帯電話を取った。
娘からの電話だった。
「お母さんが倒れたの!」
その声は切迫していた。
「死ぬかも知れないのよ。直ぐに来て頂戴!」
「解った。直ぐに行く!」
ああ、聡子が、何てこった!・・・
自動ロックの部屋のドアを後ろ手に閉めて、植木はマンションの駐車場へ急いだ。
外は雨だった。
車の流れは滞りがちだった。逸る心を抱えて植木は車を走らせた。
名神高速道に入る手前の十字路で停車した時、彼は、聡子との十二年間に及んだ結婚生活の間、毎年二人で大切に祝っていた誕生日を基に彼女の年齢を数えてみた。
未だ六十二歳じゃないか。逝くなよ、聡子!・・・
植木は西に向かって車を走らせ、名神高速道と阪神高速神戸3号線を乗り継いで、国道2号線に入った。
雨がひときわ激しく、道路の並木は強い雨脚の銀色のしぶきに打たれ、歩道沿いに小さな川のような流れが生じている。ワイパーをフル稼働させても視界は良好ではなかった。
左手の闇の中に黒々と、須磨海岸と須磨浦公園が見えた時、植木の心に、遥かな昔、真夏の昼間、照りつける太陽の下、二人で心行くまで海の香りを満喫し、夜には公園の乾いた草の上に横たわって、輝く空の星を見上げたあの夜の記憶が甦った。
あの晩二人は、これからの人生のさまざまな夢や希望や家庭について語り合った。
寝室には大きめのベッドと三面鏡を並べ、窓には花柄の繻子のカーテンを飾ろう。可愛らしい子供たちには、そう、息子には野球用具を、娘にはピアノを買ってやろう。好きなだけそれで楽しめば良い。子供たちが大きくなれば、二人で映画を観、コンサートに行き、瀟洒なレストランで食事をしよう。そして、出来る限り時間を作って、国内だけでなく広く海外へも旅行に出かけよう・・・
二人は人生のあらゆる可能性とその成就を夢見、彼の計画に聡子は優しさと安らぎと勇気を加味してくれ、慈しみと永続感に満ちた期待で彩ってくれた。その晩二人は、海沿いの白亜のホテルで夜が明けるまで初々しい愛の交歓にふけった。
「俺が二十七で、聡子が二十三歳だった」
植木は思わず声に出して言っていた。
雨に濡れた路面に目を凝らして、流れの悪い走行に苛ついている植木の胸に、あれから二人が辿った破局への道筋の記憶と、その後の二人の関係の記憶が甦って来た。
結婚後も中学校の教師を続けた聡子と、会社の仕事の負荷が次第に大きくなった植木は、仕事のこと、家庭のこと、子育てのこと、互いの分担役割のこと等々、毎日の生活での一寸した些細な感情のすれ違いや気持の縺れを度重ねて意思の疎通を欠き、互いに思いやりと寛容と敬愛の情を次第に失って、上の子の娘が十歳の時に二人は協議離婚した。
植木が家を出て京都市内の勤め先の近くにマンションを借り、聡子は、結婚後三年目に二人が購入した宇治市内の戸建住宅にそのまま暮らした。
その後の彼女は植木を呪縛することに生き甲斐を見出していたのではないかと彼は思っている。
「君も未だ若いのだから、もう一度人生をやり直して欲しい」
彼は何度か聡子に訴えた。だが、彼女は冷ややかに笑って拒否し、代わりに彼女が選んだのは大いなる拒絶の人生で、恋愛や再婚は無論のこと、女として生きることはその後一度もしなかった。
彼女は仏門に帰依した尼僧が自己を鞭打つことに喜びを見出すように、母親としての義務を果たすことと自己を犠牲にして生きることに執拗に固執し、彼を罰する反面感情として、子供たちを愛したのではなかったろうか?・・・
植木はもはや車を運転している感覚ではなかった。車が彼を運び、雨に煙る道路を、渋滞をも意に介さずに、聡子の運び込まれた病院へ一刻も早く連れて行こうとしているかのようであった。
夜の車の運転にはいつも苦痛の記憶が伴っている。
子供たちが未だ小さかった頃、彼等を車に乗せてピクニックに出かけ、ファーストフードのレストランで食事をさせた後、ぎこちない苦渋に満ちた口調で、何とか解って欲しい、と幾度も説いたものだった。
「お父さんがこうしてお前達に会いに来るのは、ただお前達と会いたいからなんだ。お前達を心の底から愛しているからなんだ」
夜に子供たちを宇治の家まで送って行くと、いつも、門の前に佇んで、二人は笑顔で手を振って見送ってくれた。
彼は過去の記憶を吹っ切って、現在に思いを凝らした。聡子は手術を受けているのだろうか?彼女の躰にメスが入るのだろうか?・・・
胸が切開され心臓にバイパスが通されるのか?脳が切り裂かれて、記憶や思考の襞が綺麗に延ばされ、機能しなくなるのだろうか?・・・
彼女の肉体、若々しく引き締まって輝いていた彼女の肉体、艶やかな長い黒髪、颯爽と闊歩するしなやかな足・・・
どうか死なないでくれ!!
あの頃、旅行やコンサート或は結婚記念日や誕生日等の思い出をアルバムに残こして、本棚を一杯にしようと話し合いながら、結局、二人が持ったアルバムはただの一冊に終わってしまった。植木は胸に重い錘が溜まったように感じた。
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