京都慕情

相良武有

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第十一話 ボクサー崩れ

④土門英が警察の犬になった

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 ところがある夜、土門英は「祇園」に現れなかった。次の夜にも、そのまた次の夜にも現れなかった。彼は一月経っても姿を現さなかった。土門英が用心棒稼業に見切りをつけたことは明らかだった。その間の事情は辰市拳も知らなかった。知っていたところで彼は喋らなかっただろう。彼は極めて無口な男だったのだから。彼はその頃、プロボクサーの修業を始めていた。元プロ選手のジムでそのコーチを受けて居り、某プロモーションの斡旋で前座試合に出てもいた。
それから程無くして、彼も「祇園」を辞めて行った。
 或る晩、「レッド・ハート」のカウンターの端に明美がたった一人、しょんぼりした顔で座っていた。
「彼は如何したんだ?」
常連客が訊くと彼女は言った。
「いっちまったのよ」
「死んだのか?」
「さあね、或る日出て行ったきり、帰って来ないのよ」
もう二か月が経つ、と言う。
警察を初め心当たりの処を当たってみたが、何処へ行ったのか、まるで手掛かりが無い、とのことだった。
彼女は言った。
「家に帰ったんだと思うわ、どこか遠い所に」
彼女は何杯かのグラスを傾けた後に言った。
「彼の身は神様が気遣ってくれる筈だから、それほど心配はしていないわよ」
だが、その口調は何処と無く自信無げだった。
「彼が姿を消す前に聴いたことがあったの、あんたは神様を信じる?って。そしたら、判らねえ、って言ったのよ。神様がどんなものか解らねえんだ、って。でもね、それにしちゃ妙だと思わない?あの人の両手は真実に・・・・・」
終いまで言わずに明美は口をつぐんだ。そして、静かにサックスを吹き始めた。まるで土門英の心をそれで度々癒したごとく、この世を癒そうとするかのように・・・
夜空には月が出ていた。土門英の両手が捏ね上げたような冴え冴えとした満月だった。
 
 一年後のある晩、土門英が数人の地回りと一緒に「祇園」に入って来た。
彼等は揃ってラップアラウンド・ジャケットに鋲打ちしたズボン姿で、ジンジェレラ・ハットを被っていた。中の一人に「悪魔」と言う通称の、性質の悪い男が居たが、彼は数年後、京都の刑務所にぶち込まれた。
土門英は誰彼と無く声をかけて、奥へ進んで行った。
「おう、調子はどうだ?」
「上々だぁな。あんたは最近何をやっているんだ?」
「俺か?俺はあれやこれやで、ぼちぼちとだ」
ニヤッと笑うと彼は「悪魔」達と一緒にカウンターの奥に消えた。
 その晩、「祇園」にはあまり良い女が居なかった。で、地回り達も引き上げることにしたが、連中はその前に、勘定の支払いのことでいちゃもんをつけた。
「俺たちは四人で一杯ずつしか飲んで無ぇのに、何故、十杯もの酒代が付いているんだ?あん?」
「いえ、確かにお客様はお一人二杯ずつお飲みになりましたし、ホステスにも二杯お奢りになりましたが・・・」
「そうかえ。それじゃ、摘みのピーナツとチョコがこんなに高いのも俺たちが袋ごと喰っちまったと言うことか?あん?」
「それは当店の格別に安い料金でご提供致して居ります、はい」
新入りの用心棒は平和主義者で、いち早く外に消えてしまっていた。
「悪魔」がカウンター越しにスツールを放り投げた。次いで、別のならず者がバーテンに灰皿を投げつけた。更に別の一人がハイネケン・ビールの看板を壊した。その間、土門英は両手をポケットに突っ込んで、涼しい貌で壁に凭れかかっていた。
身体を動かして気分が爽快になった地回りたちは店を出て行った。
 
 数カ月後、厳つい大男が、レストランの前で二重駐車していた赤い大きなオールズモビルに車をぶつけた。
オールズモビルから小男が独り、カンカンに怒って飛び出して来た。
「手前ぇ、何てことをしやがるんだ!一体俺を誰だと思っていやがるんだ?」
「さあぁ、誰だい、あんた?」
「俺は土門英だぞ!」
大男は言った。
「ほう、そうかい。それじゃ、俺はスーパー・マンだ」
彼は右の一発で土門英をのしてしまい、自分の車を駆って走り去った。車は覆面パトカーだった。
 その後、土門英が組んでいた地回り達の何人かが姿を消した。彼等は京都やその近辺都市の刑務所に収監され始めたのである。
 その頃から、土門英が奇妙なセリフを喋り始めた。
五条大橋の袂に立って携帯電話に向かって「エースの英が殺しに来た」と叫ぶ彼を、道行く人々はおっかなびっくりで観て、避けて通った。丁度、車から降りた女優もどきの美女が、土門英の雄叫びを聴き、真っ青な顔になって近くのレストランへ駆け込んだこともあった。
彼女は言った。
「エースの英が殺しに来た、って何よ。まるで気が狂ってるんじゃないの、あの人」
土門英が警察の犬になった、あいつが地回り達を売ったんだ、という噂が近所を駆け巡った。彼は麻薬の密売人たちと一緒に捕まったのだが、警察が手錠を持ってやって来ると、途端にギャアギャア泣き言を言い始めた。ジンジェレラ・ハットを被った男たちは刑務所にぶち込まれたが、土門英だけはそうならずに済んだ。
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