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第十一話 ボクサー崩れ
③沢明美は歌手だったが、カトリック教会の信者でもあった
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丸一日眠り続けた彼は二日目に漸く目覚め、身体機能の検査を受けた。腕、脚、腰、脊椎、内臓、全てに異常は無かった。
だが、土門英は、滅多打ちにあってもそれでも尚、サンドバックの如くに揺れながら立ち続けたあの恐怖が脳の奥に焼きついて、その死の恐怖に戦慄した。そして、死の恐怖の極限にまで精神を追い詰められた彼は二度とリングに上がれなくなってしまった。
ボクシングは拳一つで這い上がって行く過酷な世界である。リング上の一つのミスが命取りになる。生死の境を彷徨い死と向き合う人間は、自ずと神経が過敏になり、時に殺気立つ。剥き出しの感情が衝突し、抜き差しならない事態に陥ることもある。ロマンと打算は表裏を成す。リング上で激しく闘う二人の人間の濃密な関係は、ひとたび歯車が狂うと修復不能となり、破局を迎える。それはある意味、修羅場で闘う者たちの宿命なのかも知れない。二人の赤裸々な人間が己の肉体と精神と思考と情熱の有らん限りを尽くして、その全てを賭して闘う神聖極まりないリングではあっても、土門英は再びその上に立つことは出来なかった。
リングに上がれなくなったことで、土門英は何か掛け替えの無い大きなものを喪失した感覚に捉われた。何をしても虚ろで空しかった。明るく熱したあのボクシングの世界に在った緊張や燃焼、高揚や充実、光輝や陶酔など何処を探しても皆無だったし、何をしてもその意味を見出せなかった。彼は次第に何をすることも無くなり、無気力に惰性で流されるままに時を過ごした。ただ時の流れるままに無気力に周囲に流されて惰性で暮らした。土門英は自分と自分の人生を信じなくなった。
現在の暮らし振りに就いて聞かれても、彼の両手は決まってペタッとカウンターの上に乗っているかグラスを掴んでいるだけで何の動きもせず、何を描きもしなかった。
が、いざ話が過去に及ぶと、その両の手は荒々しいイメージや色っぽいイメージを様々に再現し始めるのだった。その時、聴き手の前には猛烈な闘いが生き生きと蘇えるばかりか、麗わしの瑠璃の面影までが現出する。土門英の両手が見えない彼女の髪に触れたり、遥か昔に消え去った肉体を撫で回すにつれて、その艶姿がくっきりと浮かび上がって来るのであった。
「そりゃ、うっとりするほど良い女でな。腰が蕩けちまいそうな良い女だったよ!」
それ以上のくだくだした説明は不要だった。聴き手の前にはまぎれも無く瑠璃が現れて居るのであった。
別の晩には、その両手は緑豊かな丘陵の佇まいを、明け方に飛び立つ小鳥の姿を、ゆるやかに流れる小川のせせらぎを、描いて見せた。そう、土門英が未だ京都に流れ着く前、東京や名古屋や大阪に居た頃の暮らしを彩っていた全てのことを。
夜が更けてバーが立て込んで来ると、沢明美がサックスを取り出して、我が身に起きた悪運の数々をメロディに託して吹いた。
だが、土門英は余り良い聴き手ではなかった。
「何も聞かないで居りゃ、此方が傷つくことも無えからな」
彼は言った。
「俺が何か悶着を起こし、夜が弾けて血と苦痛に塗れるのは、誰かに言葉で傷つけられるからでは無く、俺が大声で叫ぶ言葉を誰も理解してくれないからだよ!」
沢明美は東京から横浜を経て神戸から京都にやって来た歌手だったが、彼女はカトリック教会の信者の一人でもあった。幼い頃に洗礼を受けたらしいが、何日、どうして、洗礼を受けたのかは定かではなかった。
明美はジャズを唄った。クラシックやポピュラーや歌謡曲では彼女の心は痺れなかったし、全身を激しく揺さぶられることも無かった。ジャズだけが彼女の心に響いたのだった。明美は痺れて震えた自分の心の思いを、否、心そのものを、聴く人々に届けたいと思った。それが聴く人たちを癒し救うのだと信じていた。カトリックの教理は良く解らなかったが「救済」や「救い」は理解出来ていると考えていた。従って、彼女自身が自ら歌手を志した訳ではなかったし、ましてや、有名な歌手になろうなどとは全く思いもしなかった。
明美の声は擦れるようにハスキーだったが、よく伸びる良い声だった。
だが、何処のステージでも求められたのは「誰よりも君を愛す」や「伊勢佐木町ブルース」或は「池袋の夜」といったムード歌謡だった。
「極く僅かのマニアしか知らないジャズなんか、うちの店には要らないよ!」
十曲歌っても一、二曲程しかジャズを唄わせて貰えなかった。
明美は心の震えるジャズが唄える店を探して転々とした。ジャズを唄って痺れる心を届けることが聴く人への「救い」だとの彼女の思いは揺るがなかった。明美は何時しか東京から横浜へ、横浜から神戸へ、そして京都へと流れていた。気が付けば、波止場と礼拝堂と酒場とジャズが彼女の人生の必需品になっていた。
かくして、明美が全身全霊で打ち込んで来たのは、ジャズを聴いてくれる人々の「救済」であった。そして、とりわけ、今は、自分も自分の人生も信じなくなっている土門英の救済が第一だった。
彼女は或る晩、こう言った。
「こんな世の中なんて救いたくも何ともないわよ。土門英だけでも救えればそれで良いのよ」
それから暫くして土門英と沢明美は五条大橋の安マンションの一室で一緒に棲み始めた。
時々、未だ昼前に、「神」と「復活」について説いている明美と、上着のポケットに両手を突っ込んで黙々と聴いている土門英の姿が人々の眼についた。然し、彼にしろ明美にしろ、昼間とはあまり縁の無い人間だった。彼等の生活は街のネオンが灯る夕暮れと共に始まった。仕事を終えた人々が家路を急いで最寄りの私鉄駅に向かう頃になると、大抵、通りを隔てた向い側の橋の袂に、店へ出る前の土門英と沢明美が立っていた。
だが、土門英は、滅多打ちにあってもそれでも尚、サンドバックの如くに揺れながら立ち続けたあの恐怖が脳の奥に焼きついて、その死の恐怖に戦慄した。そして、死の恐怖の極限にまで精神を追い詰められた彼は二度とリングに上がれなくなってしまった。
ボクシングは拳一つで這い上がって行く過酷な世界である。リング上の一つのミスが命取りになる。生死の境を彷徨い死と向き合う人間は、自ずと神経が過敏になり、時に殺気立つ。剥き出しの感情が衝突し、抜き差しならない事態に陥ることもある。ロマンと打算は表裏を成す。リング上で激しく闘う二人の人間の濃密な関係は、ひとたび歯車が狂うと修復不能となり、破局を迎える。それはある意味、修羅場で闘う者たちの宿命なのかも知れない。二人の赤裸々な人間が己の肉体と精神と思考と情熱の有らん限りを尽くして、その全てを賭して闘う神聖極まりないリングではあっても、土門英は再びその上に立つことは出来なかった。
リングに上がれなくなったことで、土門英は何か掛け替えの無い大きなものを喪失した感覚に捉われた。何をしても虚ろで空しかった。明るく熱したあのボクシングの世界に在った緊張や燃焼、高揚や充実、光輝や陶酔など何処を探しても皆無だったし、何をしてもその意味を見出せなかった。彼は次第に何をすることも無くなり、無気力に惰性で流されるままに時を過ごした。ただ時の流れるままに無気力に周囲に流されて惰性で暮らした。土門英は自分と自分の人生を信じなくなった。
現在の暮らし振りに就いて聞かれても、彼の両手は決まってペタッとカウンターの上に乗っているかグラスを掴んでいるだけで何の動きもせず、何を描きもしなかった。
が、いざ話が過去に及ぶと、その両の手は荒々しいイメージや色っぽいイメージを様々に再現し始めるのだった。その時、聴き手の前には猛烈な闘いが生き生きと蘇えるばかりか、麗わしの瑠璃の面影までが現出する。土門英の両手が見えない彼女の髪に触れたり、遥か昔に消え去った肉体を撫で回すにつれて、その艶姿がくっきりと浮かび上がって来るのであった。
「そりゃ、うっとりするほど良い女でな。腰が蕩けちまいそうな良い女だったよ!」
それ以上のくだくだした説明は不要だった。聴き手の前にはまぎれも無く瑠璃が現れて居るのであった。
別の晩には、その両手は緑豊かな丘陵の佇まいを、明け方に飛び立つ小鳥の姿を、ゆるやかに流れる小川のせせらぎを、描いて見せた。そう、土門英が未だ京都に流れ着く前、東京や名古屋や大阪に居た頃の暮らしを彩っていた全てのことを。
夜が更けてバーが立て込んで来ると、沢明美がサックスを取り出して、我が身に起きた悪運の数々をメロディに託して吹いた。
だが、土門英は余り良い聴き手ではなかった。
「何も聞かないで居りゃ、此方が傷つくことも無えからな」
彼は言った。
「俺が何か悶着を起こし、夜が弾けて血と苦痛に塗れるのは、誰かに言葉で傷つけられるからでは無く、俺が大声で叫ぶ言葉を誰も理解してくれないからだよ!」
沢明美は東京から横浜を経て神戸から京都にやって来た歌手だったが、彼女はカトリック教会の信者の一人でもあった。幼い頃に洗礼を受けたらしいが、何日、どうして、洗礼を受けたのかは定かではなかった。
明美はジャズを唄った。クラシックやポピュラーや歌謡曲では彼女の心は痺れなかったし、全身を激しく揺さぶられることも無かった。ジャズだけが彼女の心に響いたのだった。明美は痺れて震えた自分の心の思いを、否、心そのものを、聴く人々に届けたいと思った。それが聴く人たちを癒し救うのだと信じていた。カトリックの教理は良く解らなかったが「救済」や「救い」は理解出来ていると考えていた。従って、彼女自身が自ら歌手を志した訳ではなかったし、ましてや、有名な歌手になろうなどとは全く思いもしなかった。
明美の声は擦れるようにハスキーだったが、よく伸びる良い声だった。
だが、何処のステージでも求められたのは「誰よりも君を愛す」や「伊勢佐木町ブルース」或は「池袋の夜」といったムード歌謡だった。
「極く僅かのマニアしか知らないジャズなんか、うちの店には要らないよ!」
十曲歌っても一、二曲程しかジャズを唄わせて貰えなかった。
明美は心の震えるジャズが唄える店を探して転々とした。ジャズを唄って痺れる心を届けることが聴く人への「救い」だとの彼女の思いは揺るがなかった。明美は何時しか東京から横浜へ、横浜から神戸へ、そして京都へと流れていた。気が付けば、波止場と礼拝堂と酒場とジャズが彼女の人生の必需品になっていた。
かくして、明美が全身全霊で打ち込んで来たのは、ジャズを聴いてくれる人々の「救済」であった。そして、とりわけ、今は、自分も自分の人生も信じなくなっている土門英の救済が第一だった。
彼女は或る晩、こう言った。
「こんな世の中なんて救いたくも何ともないわよ。土門英だけでも救えればそれで良いのよ」
それから暫くして土門英と沢明美は五条大橋の安マンションの一室で一緒に棲み始めた。
時々、未だ昼前に、「神」と「復活」について説いている明美と、上着のポケットに両手を突っ込んで黙々と聴いている土門英の姿が人々の眼についた。然し、彼にしろ明美にしろ、昼間とはあまり縁の無い人間だった。彼等の生活は街のネオンが灯る夕暮れと共に始まった。仕事を終えた人々が家路を急いで最寄りの私鉄駅に向かう頃になると、大抵、通りを隔てた向い側の橋の袂に、店へ出る前の土門英と沢明美が立っていた。
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