京都慕情

相良武有

文字の大きさ
上 下
27 / 83
第十一話 ボクサー崩れ

③沢明美は歌手だったが、カトリック教会の信者でもあった

しおりを挟む
 丸一日眠り続けた彼は二日目に漸く目覚め、身体機能の検査を受けた。腕、脚、腰、脊椎、内臓、全てに異常は無かった。
 だが、土門英は、滅多打ちにあってもそれでも尚、サンドバックの如くに揺れながら立ち続けたあの恐怖が脳の奥に焼きついて、その死の恐怖に戦慄した。そして、死の恐怖の極限にまで精神を追い詰められた彼は二度とリングに上がれなくなってしまった。
 ボクシングは拳一つで這い上がって行く過酷な世界である。リング上の一つのミスが命取りになる。生死の境を彷徨い死と向き合う人間は、自ずと神経が過敏になり、時に殺気立つ。剥き出しの感情が衝突し、抜き差しならない事態に陥ることもある。ロマンと打算は表裏を成す。リング上で激しく闘う二人の人間の濃密な関係は、ひとたび歯車が狂うと修復不能となり、破局を迎える。それはある意味、修羅場で闘う者たちの宿命なのかも知れない。二人の赤裸々な人間が己の肉体と精神と思考と情熱の有らん限りを尽くして、その全てを賭して闘う神聖極まりないリングではあっても、土門英は再びその上に立つことは出来なかった。
 リングに上がれなくなったことで、土門英は何か掛け替えの無い大きなものを喪失した感覚に捉われた。何をしても虚ろで空しかった。明るく熱したあのボクシングの世界に在った緊張や燃焼、高揚や充実、光輝や陶酔など何処を探しても皆無だったし、何をしてもその意味を見出せなかった。彼は次第に何をすることも無くなり、無気力に惰性で流されるままに時を過ごした。ただ時の流れるままに無気力に周囲に流されて惰性で暮らした。土門英は自分と自分の人生を信じなくなった。
 現在の暮らし振りに就いて聞かれても、彼の両手は決まってペタッとカウンターの上に乗っているかグラスを掴んでいるだけで何の動きもせず、何を描きもしなかった。
 が、いざ話が過去に及ぶと、その両の手は荒々しいイメージや色っぽいイメージを様々に再現し始めるのだった。その時、聴き手の前には猛烈な闘いが生き生きと蘇えるばかりか、麗わしの瑠璃の面影までが現出する。土門英の両手が見えない彼女の髪に触れたり、遥か昔に消え去った肉体を撫で回すにつれて、その艶姿がくっきりと浮かび上がって来るのであった。
「そりゃ、うっとりするほど良い女でな。腰が蕩けちまいそうな良い女だったよ!」
それ以上のくだくだした説明は不要だった。聴き手の前にはまぎれも無く瑠璃が現れて居るのであった。
 別の晩には、その両手は緑豊かな丘陵の佇まいを、明け方に飛び立つ小鳥の姿を、ゆるやかに流れる小川のせせらぎを、描いて見せた。そう、土門英が未だ京都に流れ着く前、東京や名古屋や大阪に居た頃の暮らしを彩っていた全てのことを。
 夜が更けてバーが立て込んで来ると、沢明美がサックスを取り出して、我が身に起きた悪運の数々をメロディに託して吹いた。
だが、土門英は余り良い聴き手ではなかった。
「何も聞かないで居りゃ、此方が傷つくことも無えからな」
彼は言った。
「俺が何か悶着を起こし、夜が弾けて血と苦痛に塗れるのは、誰かに言葉で傷つけられるからでは無く、俺が大声で叫ぶ言葉を誰も理解してくれないからだよ!」
 
 沢明美は東京から横浜を経て神戸から京都にやって来た歌手だったが、彼女はカトリック教会の信者の一人でもあった。幼い頃に洗礼を受けたらしいが、何日、どうして、洗礼を受けたのかは定かではなかった。
 明美はジャズを唄った。クラシックやポピュラーや歌謡曲では彼女の心は痺れなかったし、全身を激しく揺さぶられることも無かった。ジャズだけが彼女の心に響いたのだった。明美は痺れて震えた自分の心の思いを、否、心そのものを、聴く人々に届けたいと思った。それが聴く人たちを癒し救うのだと信じていた。カトリックの教理は良く解らなかったが「救済」や「救い」は理解出来ていると考えていた。従って、彼女自身が自ら歌手を志した訳ではなかったし、ましてや、有名な歌手になろうなどとは全く思いもしなかった。
 明美の声は擦れるようにハスキーだったが、よく伸びる良い声だった。
だが、何処のステージでも求められたのは「誰よりも君を愛す」や「伊勢佐木町ブルース」或は「池袋の夜」といったムード歌謡だった。
「極く僅かのマニアしか知らないジャズなんか、うちの店には要らないよ!」
十曲歌っても一、二曲程しかジャズを唄わせて貰えなかった。
 明美は心の震えるジャズが唄える店を探して転々とした。ジャズを唄って痺れる心を届けることが聴く人への「救い」だとの彼女の思いは揺るがなかった。明美は何時しか東京から横浜へ、横浜から神戸へ、そして京都へと流れていた。気が付けば、波止場と礼拝堂と酒場とジャズが彼女の人生の必需品になっていた。
かくして、明美が全身全霊で打ち込んで来たのは、ジャズを聴いてくれる人々の「救済」であった。そして、とりわけ、今は、自分も自分の人生も信じなくなっている土門英の救済が第一だった。
彼女は或る晩、こう言った。
「こんな世の中なんて救いたくも何ともないわよ。土門英だけでも救えればそれで良いのよ」
 
 それから暫くして土門英と沢明美は五条大橋の安マンションの一室で一緒に棲み始めた。
時々、未だ昼前に、「神」と「復活」について説いている明美と、上着のポケットに両手を突っ込んで黙々と聴いている土門英の姿が人々の眼についた。然し、彼にしろ明美にしろ、昼間とはあまり縁の無い人間だった。彼等の生活は街のネオンが灯る夕暮れと共に始まった。仕事を終えた人々が家路を急いで最寄りの私鉄駅に向かう頃になると、大抵、通りを隔てた向い側の橋の袂に、店へ出る前の土門英と沢明美が立っていた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【R18】もう一度セックスに溺れて

ちゅー
恋愛
-------------------------------------- 「んっ…くっ…♡前よりずっと…ふか、い…」 過分な潤滑液にヌラヌラと光る間口に亀頭が抵抗なく吸い込まれていく。久しぶりに男を受け入れる肉道は最初こそ僅かな狭さを示したものの、愛液にコーティングされ膨張した陰茎を容易く受け入れ、すぐに柔らかな圧力で応えた。 -------------------------------------- 結婚して五年目。互いにまだ若い夫婦は、愛情も、情熱も、熱欲も多分に持ち合わせているはずだった。仕事と家事に忙殺され、いつの間にかお互いが生活要員に成り果ててしまった二人の元へ”夫婦性活を豹変させる”と銘打たれた宝石が届く。

結構な性欲で

ヘロディア
恋愛
美人の二十代の人妻である会社の先輩の一晩を独占することになった主人公。 執拗に責めまくるのであった。 彼女の喘ぎ声は官能的で…

私の部屋で兄と不倫相手の女が寝ていた。

ほったげな
恋愛
私が家に帰ってきたら、私の部屋のベッドで兄と不倫相手の女が寝ていた。私は不倫の証拠を見つけ、両親と兄嫁に話すと…?!

隣の人妻としているいけないこと

ヘロディア
恋愛
主人公は、隣人である人妻と浮気している。単なる隣人に過ぎなかったのが、いつからか惹かれ、見事に関係を築いてしまったのだ。 そして、人妻と付き合うスリル、その妖艶な容姿を自分のものにした優越感を得て、彼が自惚れるには十分だった。 しかし、そんな日々もいつかは終わる。ある日、ホテルで彼女と二人きりで行為を進める中、主人公は彼女の着物にGPSを発見する。 彼女の夫がしかけたものと思われ…

今、夫と私の浮気相手の二人に侵されている

ヘロディア
恋愛
浮気がバレた主人公。 夫の提案で、主人公、夫、浮気相手の三人で面会することとなる。 そこで主人公は男同士の自分の取り合いを目の当たりにし、最後に男たちが選んだのは、先に主人公を絶頂に導いたものの勝ち、という道だった。 主人公は絶望的な状況で喘ぎ始め…

[R18] 激しめエロつめあわせ♡

ねねこ
恋愛
短編のエロを色々と。 激しくて濃厚なの多め♡ 苦手な人はお気をつけくださいませ♡

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

完結【R―18】様々な情事 短編集

秋刀魚妹子
恋愛
 本作品は、過度な性的描写が有ります。 というか、性的描写しか有りません。  タイトルのお品書きにて、シチュエーションとジャンルが分かります。  好みで無いシチュエーションやジャンルを踏まないようご注意下さい。  基本的に、短編集なので登場人物やストーリーは繋がっておりません。  同じ名前、同じ容姿でも関係無い場合があります。  ※ このキャラの情事が読みたいと要望の感想を頂いた場合は、同じキャラが登場する可能性があります。  ※ 更新は不定期です。  それでは、楽しんで頂けたら幸いです。

処理中です...