京都慕情

相良武有

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第六話 紅い雨傘の女

③知佳、石岡直樹に紅い雨傘を差し掛ける

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 地下道の階段を上がって四条通りへ出ると、大粒の雨が降り頻っていた。大阪の淀屋橋を出た時には雨は降っていなかったので、梅雨の終わり頃に急激に降り出す驟雨だと石岡直樹は思った。傘を持って居なかった直樹は、行き合う人を縫いながら、大股で四条大橋を西に向かって渡り始めた。
四、五歩ほど歩いたところで後ろから声をかけられた。
「あのう、宜しければ、ご一緒にどうぞ」
声をかけて来たのは先刻の特急電車で隣り合わせた若い女性だった。紅い傘が雨を弾いていた。
 始発駅の淀屋橋で彼女は直樹の隣に腰掛けた。特急電車は全車両の全席が二人掛けの前向きロマンスシートで、他にも空席は散見されたが、出入り口に最も近い席を選んだようだった。二十代中半のキュートな貌にコケティッシュな肢体、辛子色のミニスカートからはみ出した白い太腿と膝小僧が直樹の眼を射た。
可愛い綺麗な娘だ・・・それが直樹の第一印象だった。
何処まで乗るのだろう?最後まで一緒だと良いんだが・・・彼の心は軽く弾んだ。
突然、急な曲がりカーブで電車が大きく横揺れした。彼女が窓側の直樹の躰に倒れ込むように凭れ掛かった。直樹が彼女の躰を抱き止める形になった。慌てて躰を立て直した彼女が小さく詫びた。
「すみません」
「いや・・・」
 然し、その後、二人が言葉を交わすことなく時間は流れ、直樹は窓の外を走る風景に眼をやって居た。電車は枚方、樟葉、中書島などの主要駅で停車した外は一路、終点「出町柳駅」を目指して直走り、やがて直樹の下車する「祇園四条駅」のホームに滑り込んだ。直樹が席を立とうとすると、彼女が先に立ち上がった。
あっ、この娘も此処で降りるんだ。ひょっとして、京都の住人なのか?・・・
 先に四条大橋を渡り始めたのは直樹だった。彼は降り頻る雨が気に懸って彼女を振り返る余裕が無かった。気にも留めていなかったかも知れない。それだけに、声をかけられて、軽い驚きがあった。
「あっ、有難う、助かります」
そう言って直樹は差し掛けられた傘に入ったが、傘は女物の小さな折り畳み傘だった。彼は身を小さくして、然も、出来るだけ躰が触れないように留意して歩いた。
「傘、僕が持ちます」
背の高い直樹が気遣った。
「済みません」
だが、彼女が傘を直樹に手渡そうとした一瞬、一陣の突風がさあ~っと吹き寄せて、傘が手許を離れ空中に舞い上がった。
「あっ!」
 風に吹かれた傘は鴨川の水面にふわふわと舞い落ちて行った。暮れ泥む雨の薄暗い空の下を揺れながら落ちて行く紅い傘を、直樹は一瞬、艶めかしい、と思った。が、彼は咄嗟に、護岸に設えられたコンクリートの階段を脱兎のごとく駆け降りて、傘を追って川原を走った。
 追い着いた直樹は水際で手を伸ばして傘に手を懸けたが、一瞬よろめいて傘はまた流れの中を下り出した。再び走った直樹は水際にしゃがみ込んで水を手前に掻き寄せ、傘を手元へ寄せるようにして漸く掴み上げた。傘の内側は思ったほどには濡れていなかった。彼はズボンのポケットから大振りのハンカチを取り出して粗方の濡れを拭き取った。
「真実に、済みません、申し訳ありません!」
気が付くと、いつの間にか、彼女も川原に駆け下りて直樹の傍に立っていた。
「まあ、こんなにずぶ濡れに・・・」
彼女はバッグからハンカチを取り出して彼の胸の辺りを拭おうとした。
「あぁ、良いです、自分でやりますから」
直樹は手に持っていたハンカチで自分の胸や肩を拭いた。傘を受け取った彼女は彼に傘を差し掛けたまま直樹の後ろへ廻って彼の背中を拭った。拭き終わった彼女は、心から済まなさそうな表情を浮かべて、直樹を見詰めた。思わず二人は微笑み合った。直樹には苦笑いの思いも有った。
 紅い一つの雨傘で二人は再び四条大橋を渡り始めた。今度は直樹がしっかりと傘の柄を持った。二人は暫く無言で歩いた。
「・・・・・」
「・・・・・」
「未だ、やみそうにないですね」
「すみません・・・」
「でも、もう直ぐ、やみますよ」
そうこう言っている内に、二人は橋を渡り終える処まで来た。
「あのう、お急ぎですか?」
「いや、別に・・・」
彼女は直ぐ近くの喫茶店に眼をやった。
「お宜しければ・・・」
「はあ・・・」
 店に入った二人は向き合って窓際の椅子に腰を下ろした。
ウエイトレスが注文を取りに来た。
「私はレモンティ、あなたは?」
「コーヒー」
ウエイトレスは身軽く去って行った。
「濡れたでしょう?」
「いや、それほどじゃ・・・」
「ご免なさい」
彼女は解れた髪の毛を直した。直樹はじっと彼女の仕草を眺めた。彼女が直樹の視線に気づいて微笑んだ。
「お勤め帰りでしょうか?」
彼女が先に身元を質して来た。
「ええ、こう言う者です」
直樹はそう言って胸ポケットから名刺を取り出した。
「しがないサラリーマンです。石岡直樹と言います」
 名刺には「日本シール株式会社大阪営業部第一課 石岡直樹」と記され、勤務する課の住所と電話番号とメールアドレスが併記されていた。裏面をひっくり返すと、会社の事業内容と海外を含めた事業場の名前が刺面一杯にずらりと並んでいた。
 主要製品はシュリンクラベル、タックラベル、ソフトパウチの三種類、事業場は米国、欧州、アセアン、南アジアそれに国内の数十カ所・・・特殊な商品を扱う隙間産業かも知れないが、彼女には将に大企業のイメージだった。
名刺を押し頂くようにして彼女が自己紹介した。
「私はフリーランサーの校閲者です。高木知佳と申します。宜しくお願いします」
「フリーランサーなんですか?凄いですね」
「いえ、その日暮らしも儘ならない儚い身分ですわ」
ウエイトレスが注文した飲物を運んで来た。
砂糖の容器の蓋を開けて知佳が訊ねた。
「お幾つ?」
「いや、僕はブラックで」
二人は飲物に口をつけた。
「好きな人と待ち合わせとか?」
「誰?わたし?」
直樹が頷くと、知佳は口調を強めて言った。
「別に好きな人なんて居ないわ!・・・何故?」
「別に・・・」
知佳は何かを問いかける様子を見せたが、特には何も言わなかった。
「何か?」
「別に・・・」
彼女は直樹の口真似で答え、クスッと笑った。彼は少し面食らった。
暫くの間、話題が途切れた。
 唐突に、知佳が言った。
「わたし、男に生まれたかった・・・」
「どうして、ですか?」
「女は何も出来ないわ」
「そんなことは無いでしょう、今の時代・・・」
「もっと自由に生きたいんです、私」
「自由に、って、どういう風に?」
「兎に角、もっと自由に、です」
直樹は答えようが無かった。
「雨が止んだようね」
窓の外は、確かに雨は止んでいた。
「出ますか?」
「そうね」
然し、何方も席を立とうとはしなかった。互いに何か惹かれ合うものを感じ合っていた。
止む無く、直樹が先に立ち上がり、知佳も続いて立ち上がった。
直樹がレジで金を払い、店の扉を押した。外へ出ると、雨はすっかり上がって西の空に残照があり、直樹が紅い雨傘を知佳に返した。
 それじゃ、と言いかけた時、直樹の胸に別れ難い思いが彷彿と湧き上がった。彼は言い澱むように言った。
「あのう、傘に入れて貰ったお礼に晩飯でもご馳走したいんだけど、時間、無いですか?」
知佳にも、此の侭別れるには後ろ髪を引かれる感覚が在った。
「はい、私は特には、構いませんが・・・」
「そうですか・・・じゃ・・・」
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