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第五話 遠回り
⑤「僕と一緒に時計の針を巻き戻してくれないか」
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また春が来て、未婚のままで死んだ叔母の命日がやって来た。父のたった一人の妹であったが、何処へも嫁がず、四十歳を少し過ぎた頃、突然病死した。淋しげな美貌の人で、瑠美や妹にはとても優しかった。瑠美はこの叔母が大好きだった。
「清子叔母さんが、一度も嫁に行かずに生涯を終えられたのには、何か訳が有るの?」
瑠美は墓参りの支度をしながら母に聞いた。
「あの人は身体が弱かったからねえ」
物干しで洗濯物を干している母の髪には白いものが一筋二筋混じって、薄い春の陽に光っていた。
「尤も、結婚の話はあったのよ。相手は大きな建設会社の技師の方で相思相愛、似合いのカップルだったのよね。結納も交わし結婚式の日取りも決まっていたのに、相手の方が建設現場の事故でお亡くなりになったの。叔母さんはそれから身体の具合が急に悪くなったのよ」
「まあ」
初めて聞いた話であったが、その話には瑠美の胸を鋭く打つものがあった。
「さあ、早く行ってあげなさい」
物干しから下りて来た母は少し物憂げに言った。
霊園に着くと、瑠美はいつものように管理事務所に顔を出し、それから直ぐに墓地に向かった。墓地は丘の頂上に、樹々に囲まれて広がり、薄い春の光を浴びていた。
線香に火をつけ、家から持参した水仙の花を手向けた後、瑠美は長い間、墓の前に頭を垂れた。未婚のままで死んだ不幸な人だと思っていたが、母の話を聞いた後では、叔母が必ずしも不幸せだったとは言えないのではないかと思えていた。
叔母は少なくとも、死なれて致命的な痛手を受けるような人に出会えていたのである。そういう意味では自分も同じではないか、哀しいことではあるが不幸せなことではないだろう、と瑠美は思った。
墓地を降りて霊園を出ると、瑠美は迷わずに去年の道に下りた。今年は温かい天候が続いているので、山桜はもう開いているだろう。思いは自然に手塚純一のことに及んでいった。
あれは去年の夏だった・・・
春に霊園で数年振りに再会して以来、二人の胸には互いを懐かしむ思いがごく自然に蘇えって来た。
やがて、二人は偶にお茶を喫んだりコンサートに出かけたりするようになった。
「ねえ君。僕と一緒に時計の針を巻き戻してくれないか?」
「えっ?何を言っているんですか、手塚さん。わたしはバツイチの出戻りなんですよ」
「そんなことは問題じゃない。君はあの頃と少しも変わらない。優しく柔らかく円やかで、刺々しさなどまるで無い。僕は君と何年振りかで出逢ったことで、胸の中にぽうっと灯が燈った気がしているんだ」
去年の今頃は・・・手塚純一のことがこんなに大きく胸の中に拡がるとは夢にも思わなかった。そう思いながら瑠美は桜の下に立って、花を見上げた。
花は五分咲きくらいに咲き揃って仄かな芳香をただよわせ、晴れた空を背景に、折り重なる花弁が少し暗く見える。
「・・・・・」
ふと、あることを思いついて、瑠美は慌しく辺りを見回した。丁度、中年の夫婦が花を愛でるように仰向きながら、道を上がって来るところであった。
「あのう、申し訳ありませんが、あの枝を少し手折って頂けませんでしょうか」
夫婦は笑顔で花を見上げ、夫の方がひょいと手を伸ばして、手頃な枝を折り取ってくれた。
「すみません。有難うございます」
瑠美は丁寧に礼を言うと、踵を返して駐車場へ急いだ。
川沿いの道から宇治市街に出ると、瑠美は国道に出てアクセルを踏み込んだ。純一の家は此処から京阪電車で二駅ほど西の小高い丘陵地に在った。嘗て、二十歳の看護学生の頃に二、三度訪れていた瑠美は、迷うことなく行き着くことが出来た。
その家は、十年前と変わりなかった。小さな門扉は閉ざされているが、低い生垣の奥には二重障子の和室が見える。門柱の上には鉢植えの花が手入れ良く飾られ、住む人の心豊かさを思わせた。
門扉をそっと押し開け、玄関の呼び鈴を押して訪いを請うた時、瑠美の胸は激しく動悸を打った。自分が今、世間の常識を超えた大胆なことをしているのではないか、その上、出て来た家人に門前払いを言われれば、黙って引き返すしかない。
だが、出て来た人は、おやっ、という表情を作り、挨拶よりも先に、瑠美が抱いている山桜を見て眼を細めた。
「まあ、綺麗な花だこと」
六十歳過ぎの柔和な顔をした母親だった。髪には白いものが混じり、目尻にも小皺が少し出来ていたが、面影は十年前と少しも変わっていない。問いかけるように花から瑠美に移した眼鏡の奥の目はやさしかった。
「わたくし、嘗て、二、三度お邪魔致しました太田瑠美と申します。ご無沙汰致しております」
じっと顔を見つめた母親の顔にゆっくりと微笑が浮かんだ。
「ああ、太田さん、瑠美さんね。あなたのことは以前から良く純一から聞かされました。あの子はあなたとの結婚をあの頃、考えていたのですよ。でも、就職して直ぐに海外勤務になるし、いつ戻れるかも知れないし、それに、あなたは未だ学生さんだったでしょう、言い出せなかったのですよ」
瑠美には言う言葉が無かった。
「でもねえ、私は、きっとあなたが、何日か、こうしてこの家を訪ねて見えるのではないかと、ずうっと思っていましたよ。さあ、どうぞお上がりになって下さい」
先ずは先に、そのお花を戴きましょう、萎れるといけませんから、と純一の母は言って、瑠美の手から桜の枝を受取ると、また、上がってくれ、と勧めた。
履物を脱ぎかけて式台に手をかけると、瑠美は不意に玄関の土間に蹲った。
迸るように眼から涙が零れ落ちる。取り返しのつかない回り道をしたことが、はっきりと解った。此処が私の来る家だったのだ、この家がそうだったのだ。何故もっと若いうちに気づかなかったのだろう、あの頃に解らなかったのだろう・・・
「純一、瑠美さんがお見えになりましたよ、早く降りてらっしゃい」
瑠美さん、どうぞ此方へ、と純一の母がまた言った。
瑠美は顔が上げられなかった。涙が又、ぽたぽたと膝の上に零れた。
「清子叔母さんが、一度も嫁に行かずに生涯を終えられたのには、何か訳が有るの?」
瑠美は墓参りの支度をしながら母に聞いた。
「あの人は身体が弱かったからねえ」
物干しで洗濯物を干している母の髪には白いものが一筋二筋混じって、薄い春の陽に光っていた。
「尤も、結婚の話はあったのよ。相手は大きな建設会社の技師の方で相思相愛、似合いのカップルだったのよね。結納も交わし結婚式の日取りも決まっていたのに、相手の方が建設現場の事故でお亡くなりになったの。叔母さんはそれから身体の具合が急に悪くなったのよ」
「まあ」
初めて聞いた話であったが、その話には瑠美の胸を鋭く打つものがあった。
「さあ、早く行ってあげなさい」
物干しから下りて来た母は少し物憂げに言った。
霊園に着くと、瑠美はいつものように管理事務所に顔を出し、それから直ぐに墓地に向かった。墓地は丘の頂上に、樹々に囲まれて広がり、薄い春の光を浴びていた。
線香に火をつけ、家から持参した水仙の花を手向けた後、瑠美は長い間、墓の前に頭を垂れた。未婚のままで死んだ不幸な人だと思っていたが、母の話を聞いた後では、叔母が必ずしも不幸せだったとは言えないのではないかと思えていた。
叔母は少なくとも、死なれて致命的な痛手を受けるような人に出会えていたのである。そういう意味では自分も同じではないか、哀しいことではあるが不幸せなことではないだろう、と瑠美は思った。
墓地を降りて霊園を出ると、瑠美は迷わずに去年の道に下りた。今年は温かい天候が続いているので、山桜はもう開いているだろう。思いは自然に手塚純一のことに及んでいった。
あれは去年の夏だった・・・
春に霊園で数年振りに再会して以来、二人の胸には互いを懐かしむ思いがごく自然に蘇えって来た。
やがて、二人は偶にお茶を喫んだりコンサートに出かけたりするようになった。
「ねえ君。僕と一緒に時計の針を巻き戻してくれないか?」
「えっ?何を言っているんですか、手塚さん。わたしはバツイチの出戻りなんですよ」
「そんなことは問題じゃない。君はあの頃と少しも変わらない。優しく柔らかく円やかで、刺々しさなどまるで無い。僕は君と何年振りかで出逢ったことで、胸の中にぽうっと灯が燈った気がしているんだ」
去年の今頃は・・・手塚純一のことがこんなに大きく胸の中に拡がるとは夢にも思わなかった。そう思いながら瑠美は桜の下に立って、花を見上げた。
花は五分咲きくらいに咲き揃って仄かな芳香をただよわせ、晴れた空を背景に、折り重なる花弁が少し暗く見える。
「・・・・・」
ふと、あることを思いついて、瑠美は慌しく辺りを見回した。丁度、中年の夫婦が花を愛でるように仰向きながら、道を上がって来るところであった。
「あのう、申し訳ありませんが、あの枝を少し手折って頂けませんでしょうか」
夫婦は笑顔で花を見上げ、夫の方がひょいと手を伸ばして、手頃な枝を折り取ってくれた。
「すみません。有難うございます」
瑠美は丁寧に礼を言うと、踵を返して駐車場へ急いだ。
川沿いの道から宇治市街に出ると、瑠美は国道に出てアクセルを踏み込んだ。純一の家は此処から京阪電車で二駅ほど西の小高い丘陵地に在った。嘗て、二十歳の看護学生の頃に二、三度訪れていた瑠美は、迷うことなく行き着くことが出来た。
その家は、十年前と変わりなかった。小さな門扉は閉ざされているが、低い生垣の奥には二重障子の和室が見える。門柱の上には鉢植えの花が手入れ良く飾られ、住む人の心豊かさを思わせた。
門扉をそっと押し開け、玄関の呼び鈴を押して訪いを請うた時、瑠美の胸は激しく動悸を打った。自分が今、世間の常識を超えた大胆なことをしているのではないか、その上、出て来た家人に門前払いを言われれば、黙って引き返すしかない。
だが、出て来た人は、おやっ、という表情を作り、挨拶よりも先に、瑠美が抱いている山桜を見て眼を細めた。
「まあ、綺麗な花だこと」
六十歳過ぎの柔和な顔をした母親だった。髪には白いものが混じり、目尻にも小皺が少し出来ていたが、面影は十年前と少しも変わっていない。問いかけるように花から瑠美に移した眼鏡の奥の目はやさしかった。
「わたくし、嘗て、二、三度お邪魔致しました太田瑠美と申します。ご無沙汰致しております」
じっと顔を見つめた母親の顔にゆっくりと微笑が浮かんだ。
「ああ、太田さん、瑠美さんね。あなたのことは以前から良く純一から聞かされました。あの子はあなたとの結婚をあの頃、考えていたのですよ。でも、就職して直ぐに海外勤務になるし、いつ戻れるかも知れないし、それに、あなたは未だ学生さんだったでしょう、言い出せなかったのですよ」
瑠美には言う言葉が無かった。
「でもねえ、私は、きっとあなたが、何日か、こうしてこの家を訪ねて見えるのではないかと、ずうっと思っていましたよ。さあ、どうぞお上がりになって下さい」
先ずは先に、そのお花を戴きましょう、萎れるといけませんから、と純一の母は言って、瑠美の手から桜の枝を受取ると、また、上がってくれ、と勧めた。
履物を脱ぎかけて式台に手をかけると、瑠美は不意に玄関の土間に蹲った。
迸るように眼から涙が零れ落ちる。取り返しのつかない回り道をしたことが、はっきりと解った。此処が私の来る家だったのだ、この家がそうだったのだ。何故もっと若いうちに気づかなかったのだろう、あの頃に解らなかったのだろう・・・
「純一、瑠美さんがお見えになりましたよ、早く降りてらっしゃい」
瑠美さん、どうぞ此方へ、と純一の母がまた言った。
瑠美は顔が上げられなかった。涙が又、ぽたぽたと膝の上に零れた。
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