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第三話 不倫でも・・・愛
③二人の間には”暗黙の了解”が有った
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いつもの年の大晦日と同じように、真由美は今夜もスーパーで買って来たキャビアをテーブルの上に広げ、アイスバケットに入ったワインを傍らに置いて、一人で過ごして居た。
こういう新年の迎え方は最近では彼女の一寸とした儀式のようなものになっていた。年の変わり目に友人たちと行っていた乱痴気騒ぎからは、もう、とうの昔に身を引いていた。特に浅田と知り合った三年前からは静かに独りで過ごすことが習慣のようになってしまった。二年前に浅田の妻が心筋梗塞を患って心臓にバイパスを通してからは、浅田は、新年は必ず妻と自宅で迎えるようになったので、真由美の処へ顔を出すことは無くなった。とりわけ、妻の貴子がこの二月に末期の膵臓癌に侵されて手術による病巣の摘出が不可能と判明し、余命幾ばくも無くなって以降は、浅田の休日である日曜日に逢うことさえも憚られる程になっていた。そんな訳で、この三年、大晦日は真由美にとってはとりわけ孤独な時間なのであった。
真由美は既に二十代の中半を過ぎていた。もう二、三年もすれば二十代も終わると考えると、彼女は得体の知れない不気味な不安に駆られる。年末のバカ騒ぎなど勝手にしろとばかり、彼女は独り寝のベッドに潜り込むとテレビの「往く年、来る年」を観ることにした。
浅田はもう貴子のことは愛してはいなかったが、妻への労わりの気持ちだけは残していた。毎年年の暮れになると、貴子の気持が、新しい年が前の年と同じように空しいものであると言う虚無感に捉われるだろうことを彼は良く知っていたのである。
浅田と恋に落ちた当初は、真由美は浅田のそうした妻への忠誠心に煮え滾るほどの嫉妬を覚えたが、今では、やむを得ぬことだと悟って、それなりに気持を上手く処理していた。
貴子が病に倒れてからも真由美と浅田の関係は変わる事は無く、二人の間に病身の貴子が介在することが暗黙の了解のようになっていた。
「どうしてそんな関係を続けているの?」
親しい友人の看護師が訊いたことがある。
「あなたを愛しているなら、彼はなんで奥さんと離婚しないの?」
「あの人は奥さんを不憫に思っているのよ」
「じゃ、彼は、あなたは不憫じゃない、と思っているの?」
「私たちの間には暗黙の了解が有るのよ」
この“暗黙の了解”というのが、真由美がこの二年間、一人で胸に収めて来た思いそのものなのであった。
真由美は救急総合病院の外科病棟で働いている。今ではもう古株で、若い看護師の指導もしている立場である。浅田と出逢う前は幾人かの男たちと付き合っていたが、その誰とも是と言ったことは起きずに終わってしまった。職場では彼女はとっつきが悪く人間味に欠けると思われているし、詰まらない腹立たしい噂をされることもある。そういった周囲の視線を真由美なりに感じ取ってはいたが、一切気に留めずに今日までやって来た。
三年前、浅田が勤務医として初めて眼の前に現れた時、彼は真由美にとっては途轍もなく新鮮だった。既に大学病院でインターンを終え、相応の臨床経験を積んで、年齢も三十歳を過ぎ、循環器外科医として一人前の風格さえ漂っていた。穏やかにゆったりと患者に寄り沿って外来の診療をしている彼と、メスを握ってテキパキと明確な指示を出して迅速に患部を切開し、摘出し、縫合する彼とは全くの別人だった。それに、普段の浅田は親切で優しく、品性も在って十分に魅力的な男でもあった。
「浅田先生って格好良いわねえ!」
「素敵だわ!」
看護師の誰もがそう言って眼をうっとりさせた。
真由美は、浅田のオペの時には自ら手を挙げて積極的に彼の助手を務め、殆ど一目惚れのようにして彼と親しくなった。
浅田も、丁寧でしっかりした仕事をし、小さなことにも直ぐに気付いて周囲の皆をフォローする真由美に、安心感とストレスの無い居心地の良さを覚えた。
夜勤で一緒になった時に、これをチャンスとばかりに互いの連絡先を交換し合い、浅田が、一緒に食事をしよう、と誘って二人は交際を始めた。
当初、真由美は浅田が既に妻帯者であることに躊躇いと逡巡と当惑があったが、一年近くが経った或る日、彼の妻が心筋梗塞で緊急入院して来た時に彼女を見て、その迷いは吹っ切れた。バイパスを通す手術は夫である浅田が実施したが、その後、二週間ばかり彼女は入院して療養した。
或る夜、十一時を過ぎて一人の女性が浅田に付き添われて救急搬送されて来た。処置は直ぐに行われた。血圧測定、心拍数測定、心電図セット、酸素吸入開始、点滴セット、採血、レントゲン撮影、エコー、尿道カテーテルなどなど、あれよあれよの怒涛の勢いだった。
病状と治療方法について循環器科の医師が患者に説明した。
「奥さん、あなたは急性心筋梗塞になって居られます。比較的危険な状態ですので緊急手術が必要です。手術はいわゆる心臓カテーテル、ステント留置を行います。あなたの場合は足の付け根即ち大腿動脈から心臓まで管を通して処置します。手術はご主人の浅田先生が担当されます。どうぞ安心して手術を受けて下さい」
手術の前に浅田が真由美に言った。
「今回は、君は、処置介助はしなくて良いよ」
「えっ、どうしてですか?」
「患者は僕の妻なんだ、だから・・・」
その言葉を聞いて、真由美は激しく動揺した。その動揺を推し量っての浅田の言葉だったのである。
一般的なカテーテルによる手術だった。大腿動脈からのカテーテル挿入、造影剤投入、狭窄状況確認、狭窄部バルーンで狭窄部を解放、ステント留置・・・手術は一時間程度で終了した。
翌日、妻の貴子はカテーテル室から同じ階にあるICUに移された。だが、モニターしていた心臓の鼓動が芳しくなかった。担当医師が言った。
「不整脈や不規則な鼓動があります。どうやら心不全を起こしている疑いが強いです。念のため、一時体外設置型のペースメーカーを設置して、心臓の動きを安定させます」
こういう新年の迎え方は最近では彼女の一寸とした儀式のようなものになっていた。年の変わり目に友人たちと行っていた乱痴気騒ぎからは、もう、とうの昔に身を引いていた。特に浅田と知り合った三年前からは静かに独りで過ごすことが習慣のようになってしまった。二年前に浅田の妻が心筋梗塞を患って心臓にバイパスを通してからは、浅田は、新年は必ず妻と自宅で迎えるようになったので、真由美の処へ顔を出すことは無くなった。とりわけ、妻の貴子がこの二月に末期の膵臓癌に侵されて手術による病巣の摘出が不可能と判明し、余命幾ばくも無くなって以降は、浅田の休日である日曜日に逢うことさえも憚られる程になっていた。そんな訳で、この三年、大晦日は真由美にとってはとりわけ孤独な時間なのであった。
真由美は既に二十代の中半を過ぎていた。もう二、三年もすれば二十代も終わると考えると、彼女は得体の知れない不気味な不安に駆られる。年末のバカ騒ぎなど勝手にしろとばかり、彼女は独り寝のベッドに潜り込むとテレビの「往く年、来る年」を観ることにした。
浅田はもう貴子のことは愛してはいなかったが、妻への労わりの気持ちだけは残していた。毎年年の暮れになると、貴子の気持が、新しい年が前の年と同じように空しいものであると言う虚無感に捉われるだろうことを彼は良く知っていたのである。
浅田と恋に落ちた当初は、真由美は浅田のそうした妻への忠誠心に煮え滾るほどの嫉妬を覚えたが、今では、やむを得ぬことだと悟って、それなりに気持を上手く処理していた。
貴子が病に倒れてからも真由美と浅田の関係は変わる事は無く、二人の間に病身の貴子が介在することが暗黙の了解のようになっていた。
「どうしてそんな関係を続けているの?」
親しい友人の看護師が訊いたことがある。
「あなたを愛しているなら、彼はなんで奥さんと離婚しないの?」
「あの人は奥さんを不憫に思っているのよ」
「じゃ、彼は、あなたは不憫じゃない、と思っているの?」
「私たちの間には暗黙の了解が有るのよ」
この“暗黙の了解”というのが、真由美がこの二年間、一人で胸に収めて来た思いそのものなのであった。
真由美は救急総合病院の外科病棟で働いている。今ではもう古株で、若い看護師の指導もしている立場である。浅田と出逢う前は幾人かの男たちと付き合っていたが、その誰とも是と言ったことは起きずに終わってしまった。職場では彼女はとっつきが悪く人間味に欠けると思われているし、詰まらない腹立たしい噂をされることもある。そういった周囲の視線を真由美なりに感じ取ってはいたが、一切気に留めずに今日までやって来た。
三年前、浅田が勤務医として初めて眼の前に現れた時、彼は真由美にとっては途轍もなく新鮮だった。既に大学病院でインターンを終え、相応の臨床経験を積んで、年齢も三十歳を過ぎ、循環器外科医として一人前の風格さえ漂っていた。穏やかにゆったりと患者に寄り沿って外来の診療をしている彼と、メスを握ってテキパキと明確な指示を出して迅速に患部を切開し、摘出し、縫合する彼とは全くの別人だった。それに、普段の浅田は親切で優しく、品性も在って十分に魅力的な男でもあった。
「浅田先生って格好良いわねえ!」
「素敵だわ!」
看護師の誰もがそう言って眼をうっとりさせた。
真由美は、浅田のオペの時には自ら手を挙げて積極的に彼の助手を務め、殆ど一目惚れのようにして彼と親しくなった。
浅田も、丁寧でしっかりした仕事をし、小さなことにも直ぐに気付いて周囲の皆をフォローする真由美に、安心感とストレスの無い居心地の良さを覚えた。
夜勤で一緒になった時に、これをチャンスとばかりに互いの連絡先を交換し合い、浅田が、一緒に食事をしよう、と誘って二人は交際を始めた。
当初、真由美は浅田が既に妻帯者であることに躊躇いと逡巡と当惑があったが、一年近くが経った或る日、彼の妻が心筋梗塞で緊急入院して来た時に彼女を見て、その迷いは吹っ切れた。バイパスを通す手術は夫である浅田が実施したが、その後、二週間ばかり彼女は入院して療養した。
或る夜、十一時を過ぎて一人の女性が浅田に付き添われて救急搬送されて来た。処置は直ぐに行われた。血圧測定、心拍数測定、心電図セット、酸素吸入開始、点滴セット、採血、レントゲン撮影、エコー、尿道カテーテルなどなど、あれよあれよの怒涛の勢いだった。
病状と治療方法について循環器科の医師が患者に説明した。
「奥さん、あなたは急性心筋梗塞になって居られます。比較的危険な状態ですので緊急手術が必要です。手術はいわゆる心臓カテーテル、ステント留置を行います。あなたの場合は足の付け根即ち大腿動脈から心臓まで管を通して処置します。手術はご主人の浅田先生が担当されます。どうぞ安心して手術を受けて下さい」
手術の前に浅田が真由美に言った。
「今回は、君は、処置介助はしなくて良いよ」
「えっ、どうしてですか?」
「患者は僕の妻なんだ、だから・・・」
その言葉を聞いて、真由美は激しく動揺した。その動揺を推し量っての浅田の言葉だったのである。
一般的なカテーテルによる手術だった。大腿動脈からのカテーテル挿入、造影剤投入、狭窄状況確認、狭窄部バルーンで狭窄部を解放、ステント留置・・・手術は一時間程度で終了した。
翌日、妻の貴子はカテーテル室から同じ階にあるICUに移された。だが、モニターしていた心臓の鼓動が芳しくなかった。担当医師が言った。
「不整脈や不規則な鼓動があります。どうやら心不全を起こしている疑いが強いです。念のため、一時体外設置型のペースメーカーを設置して、心臓の動きを安定させます」
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