我ら同級生たち

相良武有

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第三話 ラガーマン、達哉

⑧達哉の葬儀(2)

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 不意に、焼香台の前で泣き崩れた若い女性が居た。
へたり込んで辺り憚らず、身も世も無く、さめざめと泣き続けた。
高校の級友が謙一にそっと告げた。
「あの娘が達哉君の恋人よ」
「えっ、あいつにそんな相手が居たのか?」
「うん。わたし、何度か二人を見かけたことが有るの。肩を並べて弾けた笑顔で歩いていたし、一度は手を繋いでいたこともあったわ」
「で、お前、紹介されたのか?」
「ううん。余りにも楽しそうだったから、私の方から避けたの」
女性は桜木江梨子と言う名の女子大生だ、とのことだった。
「あの娘、達哉君と同じ大学の二年後輩なのよ」
 
 急に降り出した雨に慌てて速足で歩き始めた達哉に、十字路の角でセーラー服の少女が接触した。抱えていた達哉の本とノートが路上に散らばった。
「わあっ、済みません。私、拾います」
「いいよ」
一冊のノートに同時に二人の手が触れて、二人は微笑み合った。
取り敢えず二人は、四つ角の大きな時計店の店先に駆け込んで雨を避けた。
「私、お兄さん、知っています」
「えっ?」
高校へ自転車通学する達哉を、中学へ登校する少女が毎日擦れ違って見かけた、と言う。
「と言うことは、あの小高い山の麓にある閑静な住宅街に君は住んでいると言うこと?」
「はい、そうです」
良く動く黒い瞳が愛らしい十七歳の江梨子に、その純真な初々しさに達哉は惹かれた。達哉が十九歳の大学二年の頃だった。
 その年の冬の試合で、達哉は相手チームの激烈なタックルに遭って地面に叩き付けられ、足の骨を折った。
江梨子は早速に病室へやって来た。
「達哉さん、脚、骨折したんだって?痛い?」
「そりゃ痛いさ、ズキズキするよ」
達哉は少し大袈裟に答えた。
「あら、弱虫言っている、大きな人が」
江梨子はクスクス笑った。
「でも、速く癒よくなってね」
江梨子の顔が少し陰った。
「ねえ、リンゴ食べる?」
然し、リンゴを剥いて振り返った江梨子の貌はもう明るかった。
 達哉と江梨子は今年の夏休みに、江梨子が成人したのを機に、海水浴を兼ねて二人だけの小旅行に出かけた。
二人は遠く離れた海水浴場へ、江梨子が手作りした昼食と水筒と水着の入ったナップザックを担いで出向いた。
JRと私鉄バスを乗り継いで着いた浜辺は、綺麗な砂浜が四キロも続き、松並木が美しく、白い砂浜と青い水面のコントラストが絶妙だった。
太陽はすでに中空高く浜辺は暑かった。点在する島の向こうに見える遥かな山々は将に最高の眺望だった。
暫し絶景に見惚れた後、二人はバンガローを一部屋借りて、水着に着替えようと中へ入って行った。
「早く着替えて外で待って居てよ」
「解ったよ、覗かれないように外で見張って居てやるよ」
着替えを終えた二人は肩を並べて水辺へ歩を進めた。
長い髪を風に靡かせ、すらりと伸びた足で颯爽と闊歩し、黒い瞳はきらきらと輝いて、笑顔がとても眩しい江梨子は、擦れ違う誰もが振り向いてその容姿に見惚れる魅力を備えていた。そんな江梨子を連れて、達哉は自慢げに誇らしげに砂浜を歩いた。
半裸になり肌の露出が増えた分だけ心が解き放たれて、二人ははしゃぎ、笑い、走った。
水の中では、形の良いクロールでゆっくりと大きく水を切って泳いだ。
「なかなか良い泳ぎじゃないか」
達哉が立泳ぎで江梨子のクロールを誉めた。
「そうよ、子供の頃、夏休みに、毎日のように水泳教室に通ったんだもの。それに女の子の平泳ぎは見っとも無いからね」
江梨子も立泳ぎしながら答えた。
「達哉さんの泳ぎも上手いじゃない?」
「俺の泳ぎは我流だよ。幼い頃、親父に川の泳ぎ場で水の中へ放り込まれて、沈まないように必死で足掻いた。犬掻きって奴だよ。あれ以来そんなに変わっていないよ」
二人は又、ゆっくり沖の方へと泳ぎ始めた。
暫くして、泳ぎ疲れた達哉が浜辺に上がって腹這いになった。その達哉の大きな背中に江梨子がオリーブオイルを塗り、寄り添って汚れた砂の上に砕ける波を見つめた。
二人は自分達だけの小さな世界に閉じこもって、喧騒する周りの人間には聞こえないほどの小声で話合いながら、暫し遠くを眺めた。真夏の浜と雲と風が二人を優しく気だるく包んだ。
 やがて、空腹を覚えた二人は昼食を摂る為にバンガローへ戻った。
江梨子が用意した献立は、ハンバーグと卵焼きとホウレンソウのお浸し、それに拳ほどの大きさのおにぎり二個に一口大のおにぎり七個であった。
「大きい方は達哉さんの分よ」
「其方は随分と可愛らしい手間の掛かかった握り飯じゃないか」
達哉が小さい方を指差して言うと、江梨子が微笑いながら答えた。
「これは私の分。だって女の子が大きなおにぎりに齧り付いている姿は格好悪いでしょう」
手作りの美味い昼食で腹の満ちた二人は暫し、うとうととまどろんだ。満腹感は人を心地よく寛がせる。
「宝探し大会、始まるよ!」
大きな呼び声に目覚めた二人は、バンガローを出て声のする方角へ歩いた。
七月十五日から八月十二日までの間、毎週一回開催される恒例の「水中宝探し大会」であった。色を付けたシジミを探し当てると景品が貰えると言う。
「折角だから参加してみようよ」
江梨子の一言で、余り乗り気でなかった達哉も一緒にやることになった。家族連れから若者達、若いカップル等大勢の参加者が集まった。
午後一時の開始合図と共に皆が一斉に水中へ入って行った。
十分もしない内に江梨子が、百メートルほど沖合いの水中で、金色の着いた小さなシジミを見つけた。
主催者のテントへ持って行くと、千円の金券が貰えた。売店や屋台で好きなものと交換出来ると言う。
「やったあ!何か思い出になるものを買おうよ」
江梨子は素直に喜びを表して達哉の腕を捕った。
おやッ、という表情で達哉が江梨子の横顔を見たが、江梨子は素知らぬ顔で正面を向いたまま歩いていた。二人は腕を組んだまま売店の方へと急いだ。
 真夏の照り付ける太陽の下で二人は心行くまで海の香りを満喫し、夜には公園の乾いた草の上に横たわって輝く空の星を見上げた。
その晩二人は海沿いの白亜のホテルに部屋を取って夜が明けるまで愛の交歓にふけった。江梨子は初めてだった。達哉との愛の交歓に慄きつつも、幼いながらに初々しく、心と肉体を震わせて応えた。
「俺たち二人は、何方が一人居なくても寂し過ぎるよな」
「そうね。そして、誰が一人入り込んでも喧し過ぎるのよね」
「俺たちはこうして、お互いの身体を押し合いくっつけ合って、温もり合っていれば良いんだよ」
「押し合いくっつけ合って、肌に繫がる温もりを感じ合っていれば良いのね」
「たとえ夜を掴んでどろどろになった掌でも、二人は握り締め、握り緊め合って、二人の平和の旗を打ち振り守り、温もり合って、二人で歩いて行けば良いんだ」
「私たちは私たち自身の生を呟いて居れば良いのね」
達哉と江梨子は互いの言葉と微笑みに嘘偽りは無いと信じ合っていた。
二人は自分たちの愛と信頼を確かめ、深め合った。

 遺族席の最前列に座っていた達哉の姉が、つと立ち上がって、江梨子の肩に優しくそっと手をかけ、泣きじゃくる彼女を抱き起して遺族席の後方へ連れて行った。
江梨子は顔を両手で覆い、涙をぼろぼろ溢して泣き続けていた。姉は江梨子を両手で抱き締め彼女の背中を優しく撫でてやった。姉の方も時折、ハンカチで目頭を押さえていた。
謙一は、江梨子が、私はもっと達哉さんのことを知りたかったのに、もっと達哉さんと一緒に居たかったのに、もっともっと達哉さんと二人の人生を生きたかったのに、と訴えているように思った。
 
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