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第四話 女庭師、遼子
②遼子の生い立ち
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遼子は四歳で父親と死に別れ、五歳の時に母親も亡くなって児童養護施設に預けられた。高校を卒業するまで彼女は其処で暮らした。
遼子は中学生になって思春期を迎えた頃、孤独感に苛まれて自閉した。
遼子は、預けられた時には既に五歳になっていたので、親という存在も解かっていたし、父親のことはあまり記憶に無かったが、母親と過ごした生活も母親の面影も僅かながらには憶えていた。中学校に上った時に施設長の先生から親のことを聞かされたが、やはり親が居ると違う生活が有ったんだ、とショックは隠せなかった。
遼子の母親はこの都市一番の大きな花街で、一、二を競う美貌の芸妓だった。源氏名を菊千代、本名を小泉千代と言った。遼子は母親の姓を名乗ったことになる。
父親は九州若松の、海運業の元締め「関本組」の二代目で、名を関本吾郎と言った。
二人は初めてのお座敷で一目惚れし合ったらしい。それからは二ヶ月に一、二度の逢瀬だったが、座敷に呼んで呼ばれているうちに互いに忘れられない人となった。母親は半年後には引かされて唐津へ移った。金銭的なことは不義理の無いように、何の後腐れも無くきちんと二人で処理して行ったと言うことだった。
だが、二代目には既に正妻が居た。その為に、若松で住まうのは気が退けて、二人は唐津に移り住んだ。然し、母親は所詮日陰の身だったので、世間からは随分冷たい眼で見られたり蔑まれたりしたようだった。
だが、遼子が四歳になった時、父親が突然の事故で呆気無く他界した。母親は遼子を伴って故郷のこの街へ戻り、花街の端の髪結処で働いた。が、その母親も一年後に悪性のすい臓癌で三ヶ月の闘病後に、薬石効無く、亡くなった。身寄りの無い孤児となった遼子は施設に預けられることになった。
遼子は施設長の話を詳しく聞き進むにつれて、次第に暗い思いを胸に沈ませて行った。自分はやくざ紛いの父親と芸者の母親との間に生まれた子供だったのだ、然も、妾の子だったのだ・・・生まれながらにして、普通の子では無かったのだ・・・
それから遼子は荒れた。心が落ち着かず精神の安定を欠いた。
施設の丸山と言う女先生がCDを聞かせたりDVDを聴かせたりして、音楽を拠所にして根気よく遼子の心を解いて行ってくれた。
遼子は次第に心の鎧を脱ぎ始め、二年ほど後には漸く普通の女の子に戻っていた。
中学卒業時に進学か就職かの選択を迫られた遼子は丸山先生に相談した。
「十五歳で就職して自活するのは非常に厳しい状況だからね。出来れば、高校か専門学校か或いは職業訓練校へ進学した方が良いわね」
遼子は金の掛からない市立の普通高校へ進学することを決めた。
施設の子の一割余りが就職して社会へ出て行ったが、直ぐに辞めてしまったり、その後行方知れずになったりして、将来的に生活を安定させて自立出来た子は非常に少なかった。
高校へ進学した遼子はアルバイトを始めた。
喫茶店のウエイトレスになってお運びをし、スーパーやコンビニや和菓子店等のレジに立って金を稼いだ。施設から貰う小遣いは微々たるものだったので、本を買ったり服を買ったり、或いは、夏休みに施設が催してくれる海水浴やキャンプに参加する小遣いも入用であった。そして何よりも、十八歳で施設を出て行く時の資金を確保することが必要だった。アパートを借りるだけでも相応の資金が要る筈だと遼子は考えていた。特に夏休みには、親の有る子は多くが親元へ帰って行ったが、両親ともに居なかった遼子には帰る所は無く、もっぱらアルバイトに精を出した。
施設を巣立つ時、奨学金を貰ったり篤志家の支援を得たりして大学へ進学する者も二、三人は居たが、遼子は、兎に角、将来の自活と自立を第一に考えて、住み込みで働ける就職先を探した。
だが、卒業したとき、遼子には就職先も住むアパートも無かった。施設長が保護者という生徒をOLや店員で雇う会社は無かったし、その上に未成年という子供にアパートを貸してくれるところも無かった。派遣やパートの仕事では自分一人の食い扶持さへ覚束なかった。遼子は止む無く夜の水商売の道へ入って行った。
遼子は中学生になって思春期を迎えた頃、孤独感に苛まれて自閉した。
遼子は、預けられた時には既に五歳になっていたので、親という存在も解かっていたし、父親のことはあまり記憶に無かったが、母親と過ごした生活も母親の面影も僅かながらには憶えていた。中学校に上った時に施設長の先生から親のことを聞かされたが、やはり親が居ると違う生活が有ったんだ、とショックは隠せなかった。
遼子の母親はこの都市一番の大きな花街で、一、二を競う美貌の芸妓だった。源氏名を菊千代、本名を小泉千代と言った。遼子は母親の姓を名乗ったことになる。
父親は九州若松の、海運業の元締め「関本組」の二代目で、名を関本吾郎と言った。
二人は初めてのお座敷で一目惚れし合ったらしい。それからは二ヶ月に一、二度の逢瀬だったが、座敷に呼んで呼ばれているうちに互いに忘れられない人となった。母親は半年後には引かされて唐津へ移った。金銭的なことは不義理の無いように、何の後腐れも無くきちんと二人で処理して行ったと言うことだった。
だが、二代目には既に正妻が居た。その為に、若松で住まうのは気が退けて、二人は唐津に移り住んだ。然し、母親は所詮日陰の身だったので、世間からは随分冷たい眼で見られたり蔑まれたりしたようだった。
だが、遼子が四歳になった時、父親が突然の事故で呆気無く他界した。母親は遼子を伴って故郷のこの街へ戻り、花街の端の髪結処で働いた。が、その母親も一年後に悪性のすい臓癌で三ヶ月の闘病後に、薬石効無く、亡くなった。身寄りの無い孤児となった遼子は施設に預けられることになった。
遼子は施設長の話を詳しく聞き進むにつれて、次第に暗い思いを胸に沈ませて行った。自分はやくざ紛いの父親と芸者の母親との間に生まれた子供だったのだ、然も、妾の子だったのだ・・・生まれながらにして、普通の子では無かったのだ・・・
それから遼子は荒れた。心が落ち着かず精神の安定を欠いた。
施設の丸山と言う女先生がCDを聞かせたりDVDを聴かせたりして、音楽を拠所にして根気よく遼子の心を解いて行ってくれた。
遼子は次第に心の鎧を脱ぎ始め、二年ほど後には漸く普通の女の子に戻っていた。
中学卒業時に進学か就職かの選択を迫られた遼子は丸山先生に相談した。
「十五歳で就職して自活するのは非常に厳しい状況だからね。出来れば、高校か専門学校か或いは職業訓練校へ進学した方が良いわね」
遼子は金の掛からない市立の普通高校へ進学することを決めた。
施設の子の一割余りが就職して社会へ出て行ったが、直ぐに辞めてしまったり、その後行方知れずになったりして、将来的に生活を安定させて自立出来た子は非常に少なかった。
高校へ進学した遼子はアルバイトを始めた。
喫茶店のウエイトレスになってお運びをし、スーパーやコンビニや和菓子店等のレジに立って金を稼いだ。施設から貰う小遣いは微々たるものだったので、本を買ったり服を買ったり、或いは、夏休みに施設が催してくれる海水浴やキャンプに参加する小遣いも入用であった。そして何よりも、十八歳で施設を出て行く時の資金を確保することが必要だった。アパートを借りるだけでも相応の資金が要る筈だと遼子は考えていた。特に夏休みには、親の有る子は多くが親元へ帰って行ったが、両親ともに居なかった遼子には帰る所は無く、もっぱらアルバイトに精を出した。
施設を巣立つ時、奨学金を貰ったり篤志家の支援を得たりして大学へ進学する者も二、三人は居たが、遼子は、兎に角、将来の自活と自立を第一に考えて、住み込みで働ける就職先を探した。
だが、卒業したとき、遼子には就職先も住むアパートも無かった。施設長が保護者という生徒をOLや店員で雇う会社は無かったし、その上に未成年という子供にアパートを貸してくれるところも無かった。派遣やパートの仕事では自分一人の食い扶持さへ覚束なかった。遼子は止む無く夜の水商売の道へ入って行った。
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