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第四章 矜持
第55話 「そうか、卓球場の管理運営な、良いかも、な」
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英二が再就職活動に嫌気を覚え心が倦んで来た頃、裕美がそれ迄とは全く異なる仕事話を持って来た。
「ねえねえ、あなたも知っているでしょう?若葉卓球場、実家の近くに在った・・・」
「ああ、昔よく行ったあの卓球場か?」
「ええ。あそこがね、卓球場の管理運営を委ねられる人を探しているのよ。マスターがもう高齢になって自分達で続けるのが辛くなって来たんだって。それで代わりに面倒を見てくれる人を色々探しているみたいなの。どう?英二さん、やってみる気無い?」
「なるほど。でも、何処でそんな情報を手に入れたんだ?」
「私ね、あなたが東京や札幌へ赴った後もずうっと、時偶、あそこへ出入りしていたの。卓球をしたりマスターや奥さんと雑談したり、ね。で、三日ほど前に実家へ帰った折にも覗いてみたんだけれども、その時に今の話を聞いたのよ。生憎、遅番と夜勤続きで今日まであなたに連絡出来なかったの、ご免なさいね」
「卓球場の管理運営か・・・あそこは確か卓球台が十二、三台にマシーンも有ったよな。駐車場もかなり広かったし、シャワーやロッカールームそれに冷暖房も完備していた。あれだけのスケールの卓球場はそうざらには無いだろう。そうか、卓球場の管理運営な、良いかも、な」
「良かったら、明日にでも行ってみたら?」
「そうだな。しかし、いきなり俺が行っても大丈夫かな?」
「大丈夫よ。あなたのことはマスターも奥さんも覚えて居られたから」
翌日に早速、英二は若葉卓球場を訪ねた。
建物を見上げた途端に込み上げて来た懐かしい思いを胸にフロントへ入って行った英二を、カウンターの正面越しに見止めたマスターの奥さんが、あらっ、という表情で観止めた。
「ご無沙汰しています、昔お世話になりました高木です。お元気そうで何よりです」
「まあ、高木さん、本当にお久し振りね。随分と立派にお成りになって・・・」
二人は暫くの間、昔の思い出や近況を語り合った。
英二が徐に切り出した。
「実は北川君から此方さんのことを聞いて、今日は伺ったのですが」
「まあ。それじゃ、あちらの家の方へ廻って頂けるかしら。主人は家に居りますから」
英二はフロントを出て卓球場に隣接する居宅の方へ廻った。
久し振りに見るマスターの姿は昔とは少し様子が違っていた。頬が削げて皺が増え、髪にも白いものが混じっていた。固太りのがっちりした身体が一回り小さくなったようだった。
だが、マスターは確かに年老いてはいたが、弱っている風ではなかった。嘗て卓球練習の後、マスターを囲んで徹夜でマージャンをしたり鴨鍋をつついたりしたことが昨日の事のように思い出された。この卓球場へ初めて顔を出してから既に十年以上の歳月が流れていた。
英二が今日訪ねて来た用件を話し出すと、マスターは暫く黙って頷きつつ耳を傾けていたが、やがて、問い質すように聞いて来た。
「真実に君がやってくれるのか?」
じっと英二を見詰めた視線は指すように鋭かった、それはオーナー経営者の眼であった。英二は自分の覚悟の程を問われた気がした。
考えてみれば、この卓球場は、マスターと奥さんが二人して三十有余年の間、休むこと無く、汗と智恵と根気で営々と営み続けてきた事業である。それを他人に託そうと言うのであれば、引き継ぐ人間の覚悟が問われるのは当然のことであった。
「僕で宜しければ是非やらせて頂きたいのですが・・・僕は卓球場の経営や管理運営については未だ何も解かりません。でも、僕は単に此処を維持するだけでなく、もっと発展させたいと思っています。幼稚園児や小学生達に卓球の面白さや楽しさを知って貰い、卓球人口の裾野を拡げたいですし、自分で彼らを選手に育てることは出来ませんが、何日か彼らの誰かが全日本級や世界に通用する選手になった時に、その第一歩のスタートが此処だったとしたら、これ程素晴しいことは無いと思います。それに、卓球は生涯スポーツです、シニアの皆さんが健康で明るい人生を長らえられる一助になることは間違い有りません。その為には、事業を此処だけではなく他都市にも拡げ、出来ることなら海外にも拡げて行きたいと考えます。そういった諸々の意味で今後の更なる発展を期したいと思う訳です」
「そうか、そういう想いで引き継いでくれようとしているのか、解かった、有難う」
マスターは軽く頭を垂れ、それから居住いを正して言った。
「よし、君にやって貰うことにしよう、宜しく頼みます」
英二も真直ぐマスターの眼を見て姿勢を正した。
「有難うございます、これから三十年先のことを考えて、全力で取組ませて頂きます」
「それじゃ、契約書を作るので出来上がったら連絡するよ、電話番号を教えて貰えないかね」
「いえ、僕は未だ何も解かりませんから、管理運営の一から教えて下さい。当面は雇われマスターということで如何でしょうか?」
英二は考えていた。
最低三ヶ月間はじっくり観察して考える、その間に思いついたことをノートに書き込む、そこに向こう三年間に成すべきことが記される筈である。そして、三年間がむしゃらに働く、そうして初めて引継ぎ者としての資質が養われるだろう。転職は、料理人なら皿洗いから、外食産業ならウエイターから、スーパーなら魚を切ることから始められなければ、つまり、現時点での「一からの出発」ではなく「マイナスからの出発」が出来なければ、成功しない。それは大変にしんどくて辛いことであるし、逃げ出したくなることも、身をかわしたくなることも有る筈である。然し、逃げずにガチンコ、ガチンコとぶつかっている内に真の強さが培われ、教えられなくても自分で考え、行動し、実践する人間になる。人生と仕事はニアリ・イコールという覚悟を持たなければならない。自らの人生を賭して引き受けた事業を牽引しなければならない。其処まで覚悟しなければ事業の成功など覚束無い。
具体的にはどうするか?先ずは最初の基本から見直してみたい。
卓球場内外の整理・整頓・清掃、卓球台や照明器具や什器備品等の拭き掃除、駐車場の清掃と美化、シャワールームやロッカールームの清潔化、フロントの挨拶や言葉使いや態度の躾、そういった基本的なところから見直して行きたい。引継ぐ事業の具体的な内容については今後マスターと相談しながらじっくり拡充させて行けば良い。お客様は基本的には卓球が好きで、卓球がやりたくてお見えになる、その気持を更に盛り上げなければならない。それには先ず、自分自身がこの仕事をこよなく好きになることが第一である。全てはそこから芽生え出発する。
英二は改めて人生再出発の覚悟を胸の中にずっしりと重く持った。
「ねえねえ、あなたも知っているでしょう?若葉卓球場、実家の近くに在った・・・」
「ああ、昔よく行ったあの卓球場か?」
「ええ。あそこがね、卓球場の管理運営を委ねられる人を探しているのよ。マスターがもう高齢になって自分達で続けるのが辛くなって来たんだって。それで代わりに面倒を見てくれる人を色々探しているみたいなの。どう?英二さん、やってみる気無い?」
「なるほど。でも、何処でそんな情報を手に入れたんだ?」
「私ね、あなたが東京や札幌へ赴った後もずうっと、時偶、あそこへ出入りしていたの。卓球をしたりマスターや奥さんと雑談したり、ね。で、三日ほど前に実家へ帰った折にも覗いてみたんだけれども、その時に今の話を聞いたのよ。生憎、遅番と夜勤続きで今日まであなたに連絡出来なかったの、ご免なさいね」
「卓球場の管理運営か・・・あそこは確か卓球台が十二、三台にマシーンも有ったよな。駐車場もかなり広かったし、シャワーやロッカールームそれに冷暖房も完備していた。あれだけのスケールの卓球場はそうざらには無いだろう。そうか、卓球場の管理運営な、良いかも、な」
「良かったら、明日にでも行ってみたら?」
「そうだな。しかし、いきなり俺が行っても大丈夫かな?」
「大丈夫よ。あなたのことはマスターも奥さんも覚えて居られたから」
翌日に早速、英二は若葉卓球場を訪ねた。
建物を見上げた途端に込み上げて来た懐かしい思いを胸にフロントへ入って行った英二を、カウンターの正面越しに見止めたマスターの奥さんが、あらっ、という表情で観止めた。
「ご無沙汰しています、昔お世話になりました高木です。お元気そうで何よりです」
「まあ、高木さん、本当にお久し振りね。随分と立派にお成りになって・・・」
二人は暫くの間、昔の思い出や近況を語り合った。
英二が徐に切り出した。
「実は北川君から此方さんのことを聞いて、今日は伺ったのですが」
「まあ。それじゃ、あちらの家の方へ廻って頂けるかしら。主人は家に居りますから」
英二はフロントを出て卓球場に隣接する居宅の方へ廻った。
久し振りに見るマスターの姿は昔とは少し様子が違っていた。頬が削げて皺が増え、髪にも白いものが混じっていた。固太りのがっちりした身体が一回り小さくなったようだった。
だが、マスターは確かに年老いてはいたが、弱っている風ではなかった。嘗て卓球練習の後、マスターを囲んで徹夜でマージャンをしたり鴨鍋をつついたりしたことが昨日の事のように思い出された。この卓球場へ初めて顔を出してから既に十年以上の歳月が流れていた。
英二が今日訪ねて来た用件を話し出すと、マスターは暫く黙って頷きつつ耳を傾けていたが、やがて、問い質すように聞いて来た。
「真実に君がやってくれるのか?」
じっと英二を見詰めた視線は指すように鋭かった、それはオーナー経営者の眼であった。英二は自分の覚悟の程を問われた気がした。
考えてみれば、この卓球場は、マスターと奥さんが二人して三十有余年の間、休むこと無く、汗と智恵と根気で営々と営み続けてきた事業である。それを他人に託そうと言うのであれば、引き継ぐ人間の覚悟が問われるのは当然のことであった。
「僕で宜しければ是非やらせて頂きたいのですが・・・僕は卓球場の経営や管理運営については未だ何も解かりません。でも、僕は単に此処を維持するだけでなく、もっと発展させたいと思っています。幼稚園児や小学生達に卓球の面白さや楽しさを知って貰い、卓球人口の裾野を拡げたいですし、自分で彼らを選手に育てることは出来ませんが、何日か彼らの誰かが全日本級や世界に通用する選手になった時に、その第一歩のスタートが此処だったとしたら、これ程素晴しいことは無いと思います。それに、卓球は生涯スポーツです、シニアの皆さんが健康で明るい人生を長らえられる一助になることは間違い有りません。その為には、事業を此処だけではなく他都市にも拡げ、出来ることなら海外にも拡げて行きたいと考えます。そういった諸々の意味で今後の更なる発展を期したいと思う訳です」
「そうか、そういう想いで引き継いでくれようとしているのか、解かった、有難う」
マスターは軽く頭を垂れ、それから居住いを正して言った。
「よし、君にやって貰うことにしよう、宜しく頼みます」
英二も真直ぐマスターの眼を見て姿勢を正した。
「有難うございます、これから三十年先のことを考えて、全力で取組ませて頂きます」
「それじゃ、契約書を作るので出来上がったら連絡するよ、電話番号を教えて貰えないかね」
「いえ、僕は未だ何も解かりませんから、管理運営の一から教えて下さい。当面は雇われマスターということで如何でしょうか?」
英二は考えていた。
最低三ヶ月間はじっくり観察して考える、その間に思いついたことをノートに書き込む、そこに向こう三年間に成すべきことが記される筈である。そして、三年間がむしゃらに働く、そうして初めて引継ぎ者としての資質が養われるだろう。転職は、料理人なら皿洗いから、外食産業ならウエイターから、スーパーなら魚を切ることから始められなければ、つまり、現時点での「一からの出発」ではなく「マイナスからの出発」が出来なければ、成功しない。それは大変にしんどくて辛いことであるし、逃げ出したくなることも、身をかわしたくなることも有る筈である。然し、逃げずにガチンコ、ガチンコとぶつかっている内に真の強さが培われ、教えられなくても自分で考え、行動し、実践する人間になる。人生と仕事はニアリ・イコールという覚悟を持たなければならない。自らの人生を賭して引き受けた事業を牽引しなければならない。其処まで覚悟しなければ事業の成功など覚束無い。
具体的にはどうするか?先ずは最初の基本から見直してみたい。
卓球場内外の整理・整頓・清掃、卓球台や照明器具や什器備品等の拭き掃除、駐車場の清掃と美化、シャワールームやロッカールームの清潔化、フロントの挨拶や言葉使いや態度の躾、そういった基本的なところから見直して行きたい。引継ぐ事業の具体的な内容については今後マスターと相談しながらじっくり拡充させて行けば良い。お客様は基本的には卓球が好きで、卓球がやりたくてお見えになる、その気持を更に盛り上げなければならない。それには先ず、自分自身がこの仕事をこよなく好きになることが第一である。全てはそこから芽生え出発する。
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