翻る社旗の下で

相良武有

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第四章 矜持

第49話 英二、社長令嬢玲奈に見染められ、婚約する

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「少しは自分の立場というものを考えたらどうだ!」
今夜自宅に飯でも食いに来い、と言われた社長の自宅で、英二はいきなり叱責された。
「男だから、東や西のクラブやバーで遊ぶのは止むを得ん。然し、お前のは、決まった相手が居て、しかも、わざわざ隣の県の街まで毎週のように出かけるそうじゃないか。式を挙げる前からこれでは娘が可愛そうだろうが!」
社長の一人娘である玲奈が、横で膝に手を置き、椅子に真直ぐ背を立てて英二を見詰めていた。派手な顔立ちの美貌に、知性も滲み出てはいるが、然し表情は冷ややかである。

 英二は札幌支店勤務の後、二年前に本社の社長室勤務となった。経営企画や経営管理業務の傍ら社長秘書の仕事も担っている。夜に資料を届けたり、出張の早朝に迎えに行ったりして、社長宅を頻繁に訪問している内に、娘の玲奈と知り合い、謂わば、玲奈に見染められて、半年前に二人は婚約した。

 最初、英二は社長宅へ行っても、会社のトップとその直属の部下という関係を決して崩さなかった。 
初めて玲奈と出逢ったのは、夜遅く経営資料を届けに行って門扉のインターフォンを押した時だった。中から玲奈の声が聞こえて来た。
「は~い、どなた?」
「会社の高木と申します」
「ああ、ご苦労様。今開けますから少し待って下さい」
玄関を開けて門前に出て来た玲奈は、長い髪を肩まで垂らし、門燈の下で明るい笑顔を英二に向けた。
綺麗な人だ!
玲奈に対する最初の印象だった。
「今、父は入浴中なの。暫く時間が掛かると思うから中へ入ってお待ちになって下さい」
「そうですか。それでは、もう遅いですから、これを社長にお渡し下さい」
英二は大振りの書類封筒を差し出して玲奈に依頼した。
「でも、それじゃ、あなたが後で父から怒られない?」
「大丈夫です。分析結果も問題点も課題もキチンと整理して纏めておきましたから、社長がご覧になれば解ると思います。もし何かありましたら私の携帯にお電話頂くようお伝え下さい」
「そう。じゃお預かりします」
「では宜しくお願いします。失礼致します」
英二は深々と頭を下げて自分の車へ戻り、乗り込む前にもう一度お辞儀をした。
玲奈は英二が車を発進させた後も門前で暫く見送ってくれた。
 その後、何度か、社長を早朝に迎えに行ったり夜遅くに送って行ったりする度に、玲奈が顔を見せた。家の中へ入るよう促されたことも幾度かあったが、英二は決して入ろうとはしなかった。社長とその秘書という関係を堅持した。
 玲奈はそんな英二に一目惚れした。ビジネスマンとしての矜持を保ち、社長の娘に諂ったりお愛想をしたりすることは一切しない、その爽やかさに惹かれた。それまで玲奈の周りに寄り集まって来た男たちとは異質であったし、邪心の無い男と接するのは玲奈にとっては初めてに等しかった。
 英二にとっては思いもよらぬことであった。明るく活動的で、それでいて、理知的で、豊かな表情に育ちの良さを思わせる秀麗な美貌の玲奈から思いを寄せられるなど想像さえしなかった。勿論、英二も若い男の一人として、心の中で玲奈に淡い思いを抱き憧れもしたが、所詮、住む世界の違う、自分には手の届かぬ高嶺の花だと思っていた。相手は社長の令嬢であり、恋の相手や結婚の対象になど夢想だにしなかった。
 然し、玲奈は積極的で行動的だった。自分から何の衒いも無く英二をデートに誘ったし、自ら英二への愛を告白した。

 玲奈の二十五歳の誕生日に、玲奈と英二は市街を一望できる瀟洒なホテルの展望レストランでフレンチを賞味して、二人きりの祝宴を催した。
エレベーターに同乗した人やレストランへの通路で行き交う人が、誰もが皆、長い黒髪を波打たせ颯爽と闊歩する玲奈の姿に見惚れ、振り返った。そんな玲奈に腕を組まれて並んで歩く英二も少し自慢げであった。
英二はディナーの席で、玲奈に誕生日祝いのプレゼントを渡した。
「今の僕に出来る精一杯の気持です。どうぞ受取って下さい」
玲奈は輝く笑顔で「ありがとう」と言い、まるで少女のように歓んだ。
英二はその表情を見て、玲奈にとっては有り触れた何時でも手に入れることが出来る品物であるだろうに、こんなにも喜んでくれるのか、ひょっとして、ほんとうに玲奈の愛を信じても良いのかも・・・と思った。
 そして、玲奈は楽しく語らった食事の後、「バー・ムーンライト」でシャンパンカクテルを飲み、エンターテイナーの奏でるバラードを聞きながら、仄灯りのロマンチックな雰囲気の中で、英二に求婚した。
玲奈はとても優しかった。英二の手を握って言った。
「今日はとても嬉しい、真実にありがとう。わたし、あなたと一生、人生を共に歩きたいの」
だが、英二は返事が出来なかった。応諾は留保した。
玲奈は父親にも頻繁に英二とのことを話し、そして、結局は認めさせた。
 
 最初、英二は、生まれ育った世界が違う、分不相応だ、不釣合いは不縁の基だ、と固辞した。だが、社長からも何度か説得されて英二の心は動いた。
「なあ高木。昔からよく言うだろう、鶏頭になるとも牛尾になるなかれ、とな。仕事というものは自己実現の為にあるんだぞ。一介の平社員よりも社長の方が何倍も自分の思うこと、考えること、やりたいことを実現出来るんだ。お前も将来、この会社を自分の思うように経営していったら良いじゃないか、解るな」
玲奈は社長のひとり娘であった。玲奈と結婚することは将来の社長の椅子を約束されたも同然であった。
 その時、英二は父親のことを考えていた。
英二の父は地方公務員であった。が、キャリアでないばかりか、中央省庁の出先機関である県の局勤務であった。判で押したように朝決まった時刻に出勤し、夜ほぼ定刻に帰宅した。定年一年前に漸く課長に昇進したが、仕事は何事も中央の意志と指示に従い、一寸した企画も常に中央にお伺いを立てて、実直さだけが取り得の昔風の典型的な公務員であった。英二は、俺は自分のやりたい事を自分の意志で実現出来る仕事をする、といつも思っていた。
 英二は、六年前の入社式で百五十名ほどの新入社員仲間たちと、社長の訓辞を聞いた時のあの感動を思い起した。
ビジネスマンなら一度は社長になることを夢見るものだ。東京や札幌の支店勤務で毎日の営業ノルマ達成に追い捲られ、日々の行動だけに埋没して、いつの間にか忘れてしまっていた初志を胸の中に甦らせた。
 社員一万人、年商五千億円、米国や欧州・中国・東南アジアに事業所を持つ東証一部上場の大手企業、国内シェア五十パーセントを超える業界ナンバーワンの会社、そんな会社の社長になれば、俺も将来、存分に仕事で腕が揮えるんじゃないか、そう思った時、英二の心に邪心と野心が沸々と渦巻いた。
 
 二人の婚約が整った後、玲奈は英二と決まって週末に逢瀬を重ね、二人の思いを一つに重ね合わせようと努力した。英二も玲奈の思いに沿うように振る舞い、二人は幸せな時を過ごした。
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