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第三章 無念
第43話 沢木、営業部長職を解任される
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数日後、沢木は本社ビルに大田常務を訪ねた。
エレベーターで十一階の役員室に赴いた沢木は、其処で二十分ほど待たされた。最初に渋茶が出され、継いでコーヒーがふるまわれた。
「やあ、待たせたな」
飛び込んで来た常務は、然し、見るからに不機嫌で疲れてもいる様子だった。
「沢木、君は何日復帰出来る?」
バインダーに挟まれた書類に眼を通しながら、常務は気忙しく訊いた。
「はい、恐らく後一ヶ月、長くても二ヶ月、というところでしょうか」
常務は、ふむと呟きつつも何事かを思案した。
「身体はどの程度回復している?」
「はい。概ね九十パーセント程度は大丈夫です」
沢木は、十五%壊死した心臓の半分は元に戻らず、後の半分も今後の回復状況による、ということは話さなかった。
大田常務がもう一度訊いて来た。
「何日だって?」
「一ヶ月、いえ、二十日も有れば十分だと思います」
「そうか、なら、君は当分本社勤務だ、本社人事部預けということだ。営業部長のような激務は退いて貰って、健康回復に努めて貰おう。回復すればまた次のチャンスも有る。そういうことだ」
実に常務らしい即断即決だった。余人の干渉を排し、孤独な立場で判断することを繰り返して来た権力者の凄みだった。
「部長の後任は決まったのでしょうか?」
「安田にやって貰う、まあ何とかやりこなせるだろう」
沢木は、ああ、終わったな、と思った。否、既に終わっていたことに気付いた気がした。
沢木の胸の中に無念と落胆の思いと共にほっと安堵の思いも拡がった。
自分が人事部付の身になれば、部長の佐々木は困るだろうな、迷惑するだろうな・・・
沢木と佐々木は同期に入社した仲間だった。
矢張りあいつの下では働けないかな、と沢木は思った。
沢木が大田常務から本社の人事部勤務を言い渡されて数日が経った日曜日に、恵子が、それまで気に掛かっていたことを聞くかのように、沢木に訊ねた。
「ねえ、何かしたいことが有るんじゃないの?」
「散歩」
「後は?」
「手が震えない、階段で振らつかない、吐き気が無い、乗物で酔わない、意識が透明になった、詰まらないことで悩まなくなった、食欲が出て来た、ひょっとしたら性欲も回復したかも、だから・・・」
「馬鹿ねぇ」
「はっはっはっ・・・」
「私は二十数年前にあなたに救われた。心を救われ、お蔭でその後、精神もタフになった。今度は私があなたを支える番なの。ねえ、体力が回復したら何か書いてみない?」
「そうだな、書いてみたい気もするな」
顧みれば、書きたいという意欲は入院中もずっと続いていたような気がする。それも営業部長雑感というようなエッセイではなく、社旗はためく下での、ビジネスマンの最前線に於ける闘いや心意気や気概、或いは、葛藤や悩みや醜さ、そういった本音をフィクションで書いてみたい、沢木はそう思っていた。
構想を考え、メモを取り、文章に纏める。そういうことが少しも苦痛ではなく、それが根元で自分を支えている、決して過激ではないが、少しずつ情熱のようなものが其方に向かっている気がする。
「ふ~ん、なるほど・・・」
恵子は、それ以上は何も言わなかった。
然し、その前に、と沢木は思った。
これだけ弱った身体と心で、仮令、心臓がそれなりに回復したとしても、これからの有為転変、苦難に満ちた人生の幾星霜に闘い挑んでいくことが真実に出来るだろうか?沢木の胸に穏やかならざる思いが揺れて拡がった。
人生には上り坂も在れば下り坂も有る。上り坂は、なんだ坂、こんな坂、と一気に駆け上がっても良いが、下り坂はゆっくり緩やかに歩かないと滑り転げる危険がある。下り坂は支えが無いと歩き切れないことがあるかも知れない。
恵子は沢木の看護日誌をつけていた。
発病の初日から入院手術、病院での闘病生活、退院後の自宅療養等々について、沢木の症状と併せて、恵子自身が思ったり感じたり惑ったりしたことを率直に飾らずに書き綴っていた。
「なあ、一度見せてくれよ、その看護体験纏めとやらを」
「駄目よ。幾らあなたでもこれだけは見せる訳にはいかないわ。これは私の心模様を綴っているのだから」
「それなら尚更見たいものだね」
「病と対峙しているあなたの行動や表情や話し振りから、あなたの気持や心情を慮ったり、私の知らなかったあなたを新たに発見したり、私自身の揺れ動く思いを書き綴ったり、まあ、あなたが真実に癒くなって、この事を笑い話で済ませることが出来るようになれば、見せてあげるわよ」
沢木は恵子の不安や苦悩を想ってそれ以上は強要しなかった。
兎に角、今は体力を回復することが最優先だ、体力と共に気力が戻れば、挑戦したいと激しく闘志を掻き立てられたり、壁があってもそれを何が何でも乗り越えたいと切望したりするだろう、今はそれを待つしかないだろう・・・沢木はそう自分に言い聞かせた。
人の一生と空行く雲は風の吹き様で西東、山在り谷在りか・・・然し・・・
沢木は空を見上げて唇を噛み締めた。
エレベーターで十一階の役員室に赴いた沢木は、其処で二十分ほど待たされた。最初に渋茶が出され、継いでコーヒーがふるまわれた。
「やあ、待たせたな」
飛び込んで来た常務は、然し、見るからに不機嫌で疲れてもいる様子だった。
「沢木、君は何日復帰出来る?」
バインダーに挟まれた書類に眼を通しながら、常務は気忙しく訊いた。
「はい、恐らく後一ヶ月、長くても二ヶ月、というところでしょうか」
常務は、ふむと呟きつつも何事かを思案した。
「身体はどの程度回復している?」
「はい。概ね九十パーセント程度は大丈夫です」
沢木は、十五%壊死した心臓の半分は元に戻らず、後の半分も今後の回復状況による、ということは話さなかった。
大田常務がもう一度訊いて来た。
「何日だって?」
「一ヶ月、いえ、二十日も有れば十分だと思います」
「そうか、なら、君は当分本社勤務だ、本社人事部預けということだ。営業部長のような激務は退いて貰って、健康回復に努めて貰おう。回復すればまた次のチャンスも有る。そういうことだ」
実に常務らしい即断即決だった。余人の干渉を排し、孤独な立場で判断することを繰り返して来た権力者の凄みだった。
「部長の後任は決まったのでしょうか?」
「安田にやって貰う、まあ何とかやりこなせるだろう」
沢木は、ああ、終わったな、と思った。否、既に終わっていたことに気付いた気がした。
沢木の胸の中に無念と落胆の思いと共にほっと安堵の思いも拡がった。
自分が人事部付の身になれば、部長の佐々木は困るだろうな、迷惑するだろうな・・・
沢木と佐々木は同期に入社した仲間だった。
矢張りあいつの下では働けないかな、と沢木は思った。
沢木が大田常務から本社の人事部勤務を言い渡されて数日が経った日曜日に、恵子が、それまで気に掛かっていたことを聞くかのように、沢木に訊ねた。
「ねえ、何かしたいことが有るんじゃないの?」
「散歩」
「後は?」
「手が震えない、階段で振らつかない、吐き気が無い、乗物で酔わない、意識が透明になった、詰まらないことで悩まなくなった、食欲が出て来た、ひょっとしたら性欲も回復したかも、だから・・・」
「馬鹿ねぇ」
「はっはっはっ・・・」
「私は二十数年前にあなたに救われた。心を救われ、お蔭でその後、精神もタフになった。今度は私があなたを支える番なの。ねえ、体力が回復したら何か書いてみない?」
「そうだな、書いてみたい気もするな」
顧みれば、書きたいという意欲は入院中もずっと続いていたような気がする。それも営業部長雑感というようなエッセイではなく、社旗はためく下での、ビジネスマンの最前線に於ける闘いや心意気や気概、或いは、葛藤や悩みや醜さ、そういった本音をフィクションで書いてみたい、沢木はそう思っていた。
構想を考え、メモを取り、文章に纏める。そういうことが少しも苦痛ではなく、それが根元で自分を支えている、決して過激ではないが、少しずつ情熱のようなものが其方に向かっている気がする。
「ふ~ん、なるほど・・・」
恵子は、それ以上は何も言わなかった。
然し、その前に、と沢木は思った。
これだけ弱った身体と心で、仮令、心臓がそれなりに回復したとしても、これからの有為転変、苦難に満ちた人生の幾星霜に闘い挑んでいくことが真実に出来るだろうか?沢木の胸に穏やかならざる思いが揺れて拡がった。
人生には上り坂も在れば下り坂も有る。上り坂は、なんだ坂、こんな坂、と一気に駆け上がっても良いが、下り坂はゆっくり緩やかに歩かないと滑り転げる危険がある。下り坂は支えが無いと歩き切れないことがあるかも知れない。
恵子は沢木の看護日誌をつけていた。
発病の初日から入院手術、病院での闘病生活、退院後の自宅療養等々について、沢木の症状と併せて、恵子自身が思ったり感じたり惑ったりしたことを率直に飾らずに書き綴っていた。
「なあ、一度見せてくれよ、その看護体験纏めとやらを」
「駄目よ。幾らあなたでもこれだけは見せる訳にはいかないわ。これは私の心模様を綴っているのだから」
「それなら尚更見たいものだね」
「病と対峙しているあなたの行動や表情や話し振りから、あなたの気持や心情を慮ったり、私の知らなかったあなたを新たに発見したり、私自身の揺れ動く思いを書き綴ったり、まあ、あなたが真実に癒くなって、この事を笑い話で済ませることが出来るようになれば、見せてあげるわよ」
沢木は恵子の不安や苦悩を想ってそれ以上は強要しなかった。
兎に角、今は体力を回復することが最優先だ、体力と共に気力が戻れば、挑戦したいと激しく闘志を掻き立てられたり、壁があってもそれを何が何でも乗り越えたいと切望したりするだろう、今はそれを待つしかないだろう・・・沢木はそう自分に言い聞かせた。
人の一生と空行く雲は風の吹き様で西東、山在り谷在りか・・・然し・・・
沢木は空を見上げて唇を噛み締めた。
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