翻る社旗の下で

相良武有

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第一章 悔恨

第14話 三十年後、嶋、日本に帰国する

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 二十二歳の若い嶋と麗子が愛し合った青春のあの頃から三十年の歳月が経過した。
その間、嶋はオタワの後、ニューヨーク、ロンドン、アムステルダム、パリ等の欧米と北京、ソウル、シンガポール、バンコックなどのアジアを歴任し、シドニーを経て二か月前に海外事業本部の部長となって日本に帰って来た。敏腕と剛腕でこの世界では少しは名の知れた存在になっていた。
 佐々木は本社の人事部一筋に歩んで、人事制度の改革や人材育成システムの構築などに業績を残し、他部門からの信任も厚い人望で部長に昇進していた。無論、全社員の個人的人事情報もデータベース化されて一元管理され、全て、部長佐々木の権限の元に集約されていた。
二人の仕事の成果は順調だったのである。
 日本に帰任した嶋を空港に出迎えたのは温厚な風貌の人事課長と精悍な面構えの海外事業課長だった。二人とも四十過ぎの若さだった。嶋が黒塗りの大きなクラウンで連れて行かれたのは高層マンションの三階だった。それは会社が用意した嶋のこれからの生活拠点だった。ドアを開けて中に入った嶋は、ほう~ッ、という顔になった。
3LDKの室内は入り口の下駄箱から奥の洋間まで塵一つ無く綺麗に清掃されていた。
ダイニングキッチンの裸のままの木製テーブルにはナプキンが一枚丁寧に折畳まれ、その脇に椅子が二つきちんと置かれていた。
隣のリビングルームには、シルバーグレイのステレオコンポと大型テレビが並び、その向かい側に横長ソファーが一つ置かれていた。ソファーの横の背の高い本棚は未だ全段が空いていた。
奥の洋間にはベッドと整理箪笥が一竿、それに黒塗りの机と椅子一脚、壁には乳白色のクロス紙が貼られ、三枚扉のクローゼットが埋め込まれている。ベッドはシーツの四隅がきちんとマットレスの下にたくし込まれてホテル並みにメーキングされていた。窓に面した机には、閉じたノート型パソコンとプリンター、筆記用具立てが整然と並んでいる。机の横の壁には日本の風景写真を掲載したカレンダーが吊るされていた。
隣の和室を覗くと窓には二重障子が建てつけられ、光は十分に入るのに外からは室内が見えない仕掛けになっていた。嶋がシドニーから送った引っ越し荷物はその居間の隅に整然と積まれていた。
「世話をお掛けして済まなかったな」
嶋は二人の課長に礼を言って労った。
「宜しければ荷物の開梱をお手伝いしましょうか?」
海外事業課長が申し出たが、嶋は頭を振って拒った。
「いや、いい。あとは自分でぼちぼちするから」
「そうですか。それではごゆっくりお寛ぎ下さい。明日の朝八時半に私が車でお迎えに上がりますから、それまでに準備を整えておいて下さい」
そう言って、人事課長を促して帰って行った。
 二人が帰った後、嶋は長い時間をかけて入浴した。凡そ三十年間の海外勤務で知らず知らずに胸のうちに澱んだ数々の思いを熱いバスタブで洗い流した。
 
 翌日、嶋は本社へ着くと直ぐに、帰任の挨拶をしに社長を初め副社長、専務、常務のそれぞれの部屋を訪れた。
「長い間の海外勤務、ご苦労さん。これからもしっかり頼むよ」
一様に慰労と激励の言葉をかけられ、嶋は丁寧に礼を言って頭を下げた。
それから経営企画本部と管理本部で本部長に接見し、更に人事部を訪ねて部長の佐々木の前に立った。
 佐々木は少し太って顔が円くなり、オールバックの髪は黒々と艶やかだった。一方、嶋は白いものが頭に混じり、額にも頬にも深い皺が幾筋も刻まれていた。が、老いた感じは無く、練れた精悍さが滲み出ていた。
腹をやや迫り出し乍ら自席から立ち上がった佐々木が応接ソファーに腰かけることを勧めたが、未だ挨拶回りが控えていますから、と嶋は座らなかった。
「これから又、宜しくお願いします」
「いや、此方こそどうぞ宜しく」
顔を上げた二人の視線が結び合ったが、二人に笑顔は無かった。
 
 あたふたとした挨拶回りや業務引き継ぎが終わって、漸く、嶋の本部長の仕事が軌道に乗り始めた頃、佐々木が、ちょっと会いたい、話がある、と連絡して来た。指定されたのは、時間は週末の午後六時、場所はおでん屋ということだった。其処は昔、新人時代に仲間達とよく呑んだ店だった。
「いらっしゃいませ」
色は浅葱に白地で抜いた零れ松葉の暖簾を掻き分けて店内へ入った嶋を、縞のお召しに西陣帯を締めた粋な女将が、徳利片手に愛嬌を振りまいて、明るく迎えてくれた。
店はかなり混んでいた。きっと常連客が多いのだろう、と嶋は思った。
カウンターの奥の隅で、佐々木が片手を挙げた。
「悪い、悪い。遅くなっちゃったな」
「おう」
軽く手を挙げて嶋を迎えた佐々木が言った。
「俺も今来たばかりだ。未だ約束の六時には少し間があるよ、君が遅れた訳じゃないさ」
それから女将を手招きして此方へ呼び寄せ、嶋を引き合わせた。
「どうだ、憶えているか?嶋だよ、嶋。昔、三十年ほど前に、よくみんなと一緒に呑みに来た嶋だ」
女将は繁々と嶋の顔を穴の開くほど凝視したが、やがて、ああ、という風に頷いて、あの嶋さん?と聞いて来た。
「そうだ、あの嶋だよ」
「此方、可愛い笑窪の看板娘だった悦っちゃんだ。尤も、もう姥桜だがな」
五十歳を過ぎて眼尻に小皺も増え、髪にも白いものが混じってはいたが、女将はあの頃の面影を愛くるしい顔に残していた。嶋の胸に懐かしさが一気に膨れ上った。
 二人は早速に酒とおでんを注文し、先ずはビールでグラスを合わせて飲み始めた。
「君は長い海外生活で洋食には口が肥えているから、何処にしようかと迷ったんだが、こういう店も偶には良いだろうと思って、此処に決めたんだ。どうだ、色々思い出して懐かしいだろう?」
「君はあれ以来此処の常連なのか?」
「ああ、よく来ることは来るな。女将とは昔馴染みだし、気を使うこともないし」
暫く二人は仕事のことや会社のこと、世間話などをしながら酒とおでんを口に運んだ。
 それから、不意に佐々木が話題を変えて嶋に聞いて来た。
「君は何故、今まで結婚しなかったのだ?」
「えっ?」
嶋は一瞬、狼狽えた。予期せぬ質問だった。
「それは・・・外国の女性のあのボリューム感が生理的にも心理的にも俺には合わなかったからだよ、ただそれだけだ」
「そうか・・・」
佐々木は、それ以上は何も言わず何も聞かなかった。
 佐々木は思っていた。
嶋の胸にはずうっと麗子が居たのではないか?日本へ帰任する機会は幾度かあったのに、その都度、嶋は自ら拒んで海外に居続けた。麗子の面影が嶋の心にずうっと宿って居たのではないか?
それは、妻も娶らず家庭も持たず、生涯一人の女性を思い続ける、それほど強烈なロマンと強靭な志だったのか?
佐々木は、自分が嶋に詫び償い続ける思いの正体を具体的に明確に理解した気がした。
 嶋は麗子のことが聞きたかったが、自分から口にするのは憚られた。
すると、それを察したのか、佐々木が徐に嶋に言った。
「麗子が一年前に死んだんだ」
「えっ!」
嶋は次の言葉が継げなかった。驚愕の眼でじっと佐々木の次の言葉を待った。
「膵臓癌で、な。もう直ぐ一周忌になる」
 それから佐々木は、二人が結婚してから麗子の死に至るまでの経緯を詳らかに話した。
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