翻る社旗の下で

相良武有

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第一章 悔恨

第7話 嶋のカナダでの仕事は生易しいものではなかった

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 嶋のカナダでのビジネスマンとしての仕事は生易しいものではなかった、否、むしろ激烈を極めた。 
カナダの経済はアメリカに輸出の八割、輸入の六割を依存して順調に安定的に成長していたので、日本の大手企業はそのアメリカ依存の切り崩しと自国の貿易拡大の為に競ってカナダへ進出して凌ぎを削っていた。自動車とその部品や機械・機器を輸出し、木材や豚肉、パルプ、菜種、非鉄金属、石炭等を輸入するのが主な日加貿易であった。
 嶋は日本へ送る木材の買い付けを担当させられたが、それは大変の極みであった。カナダの国土は世界第二位、日本の二十七倍である。十以上ある州の森林地帯まで奥深く分け入らなければ、安価で良質の木材を調達することは出来なかった。しかも著名な大企業がしのぎを削る中での戦いであった。絶対に勝たなければならないし、勝つことが至上命令であった。
 遠く見知らぬ異国の土地で、見知らぬ同僚に取り囲まれた新入りの嶋にとって、麗子の不在は大きな喪失の痛手となって胸を締め付け、嶋は孤独感と寂寥感に苛まれた。彼はそれを紛らす為にせっせと頻繁に麗子に宛てて手紙を書いた。
 だが、仕事とノルマに追われる毎日の生活の中で、次第にそんな余裕は時間的にも気持の上でも無くなって行った。否応無しに企業戦士としての生活に埋没して行かざるを得なかった。当然の如く、仕事の成果が目標通りに上がらなければ日本への帰任の道も開かれはしなかった。
 
 嶋が仕事の相棒としてコンビを組んだのはサンドラ・ペリーと言う主任だった。
オタワ大学の経営学部を卒業して現地入社した五年目の女性で、今やオタワ支店の掛け替えの無い戦力の一人だった。嶋より三つ年嵩の二十七歳で、強い光を湛えた良く動く大きな眼に筋の通った高い鼻梁、引き締まった口元には意志の強さが滲み出ていた。が、透き通るように白い肌の頬には微笑むと片笑窪が刻まれ、上唇が少し捲れ上がって仄かな大人の香りが漂った。均整の取れた見事なプロポーションで闊歩する姿は将にキャリアウーマンそのものの美形だった。
「Mr.嶋。あなたはこれから私とペアを組んで仕事をするの。だから、想いついたり気になることが有ったら躊躇無く何でも言って頂戴、宜しくね」
 だが、彼女は厳しかった。嶋にどんどん資料を与えてレクチャーし、行く先々へ彼を連れ回した。麗子のことを思い惑っている暇など無かった。尤も、それが嶋を救ったのも確かだった。
 
 十月のオタワは既に寒かった。亜寒帯湿潤気候に属し、平均気温は八度、最高気温が十三度、最低気温は三度ほどだった。雪の降る日も在った。
 オタワの冬の寒さは厳しかった。一月の平均気温はマイナス十度、北極寒波に襲われるとマイナス三十度以下まで下がり、日中でも氷点下二十度までしか上がらないことも珍しくなく、年間降雪量は二メートルを超え、北米の中では最も多い部類に入っていた。完全に凍り付いたリドー運河がスケートリンクに変身して、通勤・通学の市民で賑わう姿はオタワの風物詩だと言うことだった。
 
 カナダの首都オタワはオンタリオ州東部に位置する地方行政区の一つで、オタワ川を挟んで隣接するガティーノを含めて連邦政府の行政機関が集中する行政都市であり、周辺都市とオタワ首都圏を形成していた。市域人口は八十万人強で、トロント、モントリオール、カルガリーに次いで四番目、それ程の大都市と言う訳ではなかった。行政官庁や研究機関が多くハイテク産業も盛んであったが、郊外ではこの街発祥の基礎となった林業が重要な産業だった。またパルプやセメントの生産も行われていた。
 オタワ都市圏の人口は百五十万人程であったが、人種は白人が八十%、黒人が五%、その他に中国系、南アジア系、アラブ系、先住民系などが居た。市内にはイタリア人街や中華街、ユダヤ人街が点在し、ソマリアからの難民が多いのが特徴だった。又、オタワがインドシナ難民の受け入れを積極的に行った為にベトナムやカンボジアからの難民も数多く居た。
言語は市民の六十数%が英語を、十五%程がフランス語を使用し、多くは英語とフランス語のバイリンガルだった。他には中国語、アラビア語、イタリア語、スペイン語などが話されていた。尚、因みに、オタワの姉妹都市は中国の北京市だった。
サンドラはこういったことを最初にレクチャーしてくれた。
 
 サンドラはブロークンな英語しか話せない嶋を気遣って、会話は出来るだけ片言の日本語を駆使して話してくれた。嶋の呼称は、Mr.嶋、か、嶋さん、だったし、嶋は彼女をペリー主任と呼んだ。
「Mr.嶋、これを読んでマスターしておいて」
そう言ってサンドラが嶋のデスクに置いたのは、樹木の特性比較や木材の等級、それに伐採から搬出に至る方法等の分厚い資料だった。
「これを私があなたにレクチャーしていたのでは時間が幾ら有っても足りないから、自分でしっかり理解しておいてね、三日も在れば十分でしょう」
嶋は指示された通り、資料に噛り付くようにして読み耽った。
 
 一般的に輸出される主な針葉樹種の力学的特性と加工特性はとても参考に値するものだった。
それは、樹種ごとに、比重、曲げ強さ、曲げヤング係数、縦圧縮強さ、せん断強さ、側面硬さ、耐久性、処理性、作業性の九要素によって評価、比較されていた。
作業性については、機械加工性、割れ難さ、ねじ・釘保持能力、接着性を五段階で評していた。
耐久性は平均寿命年数で五段階にクラス分けされていた。
平均寿命が二十五年以上のものを「耐久性に優れる」と認定し、以下順に、十五年から二十五年のものを「耐久性有り」、十年から十五年のものを「適度に耐久性有り」、五年から十年のものが「耐久性やや有り」、五年未満のものが「耐久性無し」ということだった。
 
 独りで自習するのよ、と言いながらも、外勤から帰って来た時に、嶋がデスクにへばり付いて資料と睨めっこをしているのを見ると、サンドラは傍らの椅子を嶋の机の横に引っ張って来て自らレクチャーを始めるのだった。
「アメリカ西部産の針葉樹は、明確に定義された等級に基づいて、数百種類もの木材製品に加工されるの。この等級は、製品を照会する際の利便性と共に、買い手や売り手、設計技術者が木材の品質を決定する上での信頼のおける基準となっているの。そして、樹種と等級は使用目的別に大まかに分類されるのよ」
 等級には、建築用構造材の等級、強度よりも外観を重視した等級、工業用材並びに再加工材として利用される等級、カリフォルニア・レッドウッド等級、特別輸出向け等級の五区分が有った。
「建築用の構造材等級は厚さと幅で決められているの。この構造材は高い工業用価値を持っていて、一般的な用途としては、枠組み材、エンジニア―ド・ウッド製品、積層材、コンクリと枠材、足場材量、梁、円柱などに利用されるのよ」
 輸出先のニーズに合わせた特別な構造上の等級とサイズの製品は、四つの格付機関の管理の下で米国内の製材所が加工及び出荷を行っていた。製品は未乾燥のまま出荷する場合とキルン乾燥させてから出荷する場合とが有った。
「強度よりも外観を重視した等級と言うのは、強度が特別に重視される製品を除いて様々な用途に利用されるわ。全ての樹種が揃っているので、通常は樹種別に出荷されるけれども、様々な樹種の組合せをセットで購入することも出来るし、最高級のクリア材から経済的な等級まで広い範囲で調達出来るの。用途としては、パネリング、外装材、棚材、フローリング、家具、装飾設備などが有るわ」
 工業用材及び再加工材として利用される樹種は加工が容易で、釘やネジが良く効き、美しく仕上がるので、キャビネット、高級家具、窓、ドア部材、モールディング、特製品、鉛筆、木工器具などに用いられる。工業用としては、木型、梱包用材、箱、パレット、杭、建築用枠材などの用途が有った。
「カリフォルニア・レッドウッド等級と言うのは、商業目的に栽培され、本質的に耐久性に優れたオレゴン州南部産と北カリフォルニア原産のセコイア・セムベルヴィレンス専用の等級なの。外見の美しさと耐久性に基づいて格付けされているわ」
 多くのメーカーは輸出先の規則による等級とサイズの木材製品を提供する訳であるが、一方、国際市場で広く取引されている種類以外の輸出向け等級に関しては、売り手と買い手の合意に基づくことになり、それが特別輸出向け等級であった。
 最後にサンドラは総合的に纏めるように嶋に話した。
「木材の等級は、樹木の素材が持つ特性と木材の加工の際に生じる欠点とによって決定されるの。樹木の特徴は夫々の木材に表れて、木材の強度、硬度、外見等に影響を与えるのよ。そして、加工時に生じる欠点は等級にも影響を与えるの。等級は、種類、サイズ、木目の緻密さ、一つの木材における全ての特性と欠点の数と位置など、一連の複雑な基準に基づいて決定されるのよ。どう?解った?」
嶋は今一つ良く解らなかったが、それでも、ハイ、と答えざるを得なかった。
「まあ、百聞は一見に如かず、だから、来週から一緒に現場を見て廻りましょう。今週はもう一度復習をしておきなさい」
サンドラはそう言って、ウイ、と言う表情で自分の席へ引き揚げて行った。
嶋は、疲れて帰って来ているだろうに、わざわざ丁寧にレクチャーしてくれて有難う、と心の中で感謝した。
 週末に嶋はサンドラから、火曜日に現場へ出かけるので、ウインドブレーカーとジャンパーを持って来なさい、と命じられた。
「私が調達した樹木の伐採が来週から始まるの。少し奥まった所に入るし雨に降られるかも知れないから、忘れずの用意して来るのよ」
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