翻る社旗の下で

相良武有

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第一章 悔恨

第6話 嶋にカナダの首都オタワへの転勤が命じられた

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 春から夏にかけて嶋も麗子も懸命に仕事に取り組んだ。二人には山ほどの仕事が次から次へと上から下りて来る感じだった。そう、二人はもう新人ではなかったのである。
二人は仕事に没頭しながらもよく逢った。
ティールームでコーヒーを啜り、レストランでディナーを摂り、バーのカウンターで酒を舐め、そして、腕を組んでジャズライブに出かけた。二人はより一層、互いの愛を深め合って行った。
 
 そうして、未だうだる残暑が残る九月初めに、嶋は北米カナダの首都オタワへの転勤を命じられた。人事の定期異動である十月一日付の辞令だった。海外事業部は国内と違って秋に異動するのが決まりだった。嶋にとっても麗子にとっても思いの外の早い異動命令だった。未だ三、四年は海外勤務は無いだろうと、心の準備がまるで無かった二人にはショックだった。二人は大いに動揺した。
 嶋も麗子も一緒に居たかった。片時も離れたくないと思った。以前にも増して愛しさが増した。だが、仕事の基盤も生活の設計も脆弱だった。嶋はこれから先、海のものとも山のものとも判らぬ遠い異国での初めての勤務だったし、麗子の方も経営コンサルタントとしての自立どころか公認会計士の受験さえ覚束ぬ状況だった。それに何よりも二人は未だ若かった。嶋は二十四歳になったばかりだったし、麗子も未だ二十三歳でしかなかった。社会人としては将にこれからの二人だった。結婚して海外へ一緒に赴ける状況ではなかった。
嶋は独りで赴任することを決意した。
「ニ年か三年で帰って来ればお互いに未だ二十六、七歳だし、結婚はそれからでも遅くは無いだろう、な」
「・・・・・」
「その間に金を貯め込んで、帰って来ると同時に結婚すれば何もかも上手く行くよ」
嶋はそう言って麗子を説得した。
同じ一つの事業部であっても、勤務地が違えば別会社と同じである。ましてや初めての海外勤務となればどんな仕事に就けるのかも判らないし、全くの新人である。嶋は仕事も生活も先のことが見通せるまでは単身で赴くのも止むを得ないと考えたのだった。
麗子は一晩中、泣き明かした。何処にこれだけ大量の涙が在るのかと自分でも不思議に思う程、涙は溢れ続けた。

 九月の半ばに二人は初めての遠出をした。
夏の終わりの照り付ける太陽の下で二人は心行くまで海の香りを満喫し、夜には公園の乾いた草の上に横たわって輝く空の星を見上げた。その晩二人は海沿いの白亜のホテルに部屋を取って夜が明けるまで愛の交歓にふけった。それは互いに、自分の全てを委ね、相手の全てを吸引しておく、謂わば、与え尽くし奪い尽くす激しくも壮絶なものだった。
「俺たち二人はお互いに、こうして俺たちの身体を押し合いくっつけ合って、温もり合って居れば良いんだ。うんッ・・!うんッ・・・!」
嶋が麗子の中に押し入って言った。
「そうよ。押し合いくっつけ合って二人の人生を歩いて行けば良いのよ。あ~ッ・・!あ~ッ・・・!」
麗子が喘ぎながら応えた。
「俺達はどちらが一人居なくても寂し過ぎるし、誰かが一人入り込んでも喧し過ぎる。うんッ・・!うんッ・・・!」
「私達二人は私たち自身の生を呟いて居れば良いの。肌に繋がる私達の温もりを感じていれば良いのよ。あ~ッ・・あ~ッ・・・!」
「たとえ夜を掴んでどろどろになった掌でも、二人は握り締め、握り緊め合って、二人の平和の旗を打ち振り守り、温もり合って、二人で歩いて行けば良いんだ。うんッ・・!うんッ・・・!」
 
 数日後、同期の有志たちが嶋を送る会を催してくれた。音頭を取ったのは人事部に居た佐々木だった。
仲間たちが口々に言った。
「嶋、お前が遠くカナダに赴っても俺たちは皆、仲間だからな、何時も仲間だからな」
嶋は胸の中に熱いものが込み上げて来て何も言えず、ただ頭を下げているだけだった。
 佐々木が手洗いに立ったのを見て嶋が後を追った。二人は洗面所で鏡に向き合いながら話し合った。
「佐々木、お前に一寸、頼んで置きたいことが有るんだ」
そう言って嶋が、麗子とのことを打ち明け、麗子の後のことを佐々木に託した。
「お前達のことは知っていたよ、任せておけよ。彼女のことは何かあったら俺が相談に乗るから心配するな」
「頼む。真実に宜しく頼むよ」
嶋は然し、佐々木も陰ながら秘かに麗子を愛していたことを知らなかった、知る由も無かった。
 
 七日後、嶋は大勢の海外事業部員等に見送られてカナダへ旅立って行った。麗子は空港ロビーの柱の陰でそっと目頭を押さえて彼を見送った。もうこれであの人とは会えないかも知れない、と思った。
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