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第二話 掛け替えの無いものが解かったんだ!
③亮治には一緒に暮らしている結衣が居た
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亮治には今、一緒に暮らしている女が居る。結婚をしている訳ではなく、籍を入れている訳でも無いが、二人が同棲して既に一年以上が経っている。
後ろめたい気持に駆られたのは高層住宅が立ち並ぶマンションの前まで来た時だった。花園を潜り抜けて来たような浮き浮きした気分が急に萎んだ。
いきなりと言う訳にも行かないな・・・
橙色の仄暗い灯の下に、つい今し方まで亮治が身に着けていた華やかなものとは馴染まない日常の暮らしが匂っていた。その匂いが亮治のして来たことを咎めるようだった。亮治は暫く凝然とマンションの入口の前に立っていたが、やがて、エレベーターに乗って五階の自分の部屋へ上がり、玄関のドアを開けた。
「あなた?」
新藤結衣の声がして、玄関ホールにその姿が現れた。
「お帰り。遅かったのね」
「うん、ちょっと兄弟子たちと一杯やって来た」
「御飯は?」
「食ったよ」
亮治はダイニングルームへ入った。彼を待って居たらしく、食卓には布巾を架けた食膳が二つ、向かい合わせに並んでいた。
「待たずに食えば良かったのに・・・」
亮治は少し不機嫌な気分になってそう言った。見慣れたダイニングの光景も、結衣も、くすんで色褪せて見えた。
ふたりの出逢いは一年以上も前のことだった。
特別のことも無く何日も通りに仕事が終わった秋の夕暮れ、亮治が帰りに立ち寄った駅ビルの書店で二人はばったり出逢った。新刊コーナーで何か読めるものを探していた結衣の横に偶然に立ち止まった亮治が「やあ」と声をかけた。
「君もこの駅からの通勤なの?」
「はい、野上さんも、ですか?」
「うん。仕事が予定通りに終わったので、ちょっと立ち寄ったんだが・・・」
二人は暫くそれぞれに書物を探した後、亮治は伝統工芸に関する書籍を、結衣は新刊小説を買って書店を出た。
「あのぉ、この駅ビルの二階に一寸洒落た喫茶店が有るんだけれど、宜かったらお茶でも喫まないか?」
断られるかな、と危惧したが、結衣は「あっ、はい、私は構いませんが・・・」と言って、亮治の後に従いて来た。
二人は喫茶店に入ってお互いの仕事や趣味などについて語り合った。
結衣の話し振りは飾り語が無く理路整然としていた。日頃得意先の仕入担当者や気難しい職人を相手にテキパキと商品を売り捌く仕事をしている女性に相応しい物言いと態度だった。自分をひけらかすことは無く、口数もそれほど多くは無かった。
趣味は囲碁だ、と言って恥ずかしそうに微笑んだ。
「子供の頃から父に連れられて家の近くの碁会所に出入りしていたんですが、高校で囲碁研究会に入ってから病鴻毛に入ってしまったんです」
「若い女性なのに囲碁だなんて珍しいね」
「私は小学生の頃に、大学生の人が碁を打っているのを見て格好良いなと思いました。それで、十二歳になった時に父の手解きを受けて碁会所へも通うようになったんです」
その後、高校を卒業するまで日々研鑽に励んで二級まで進んだ、と言う。
「でも、社会へ出てからは毎日仕事に追われて忙しく、最近では週一回打てるか打てないかという状況です。碁会所で月に一回行われるハンディ・トーナメント戦に毎回参加するのが精一杯なんですよ」
囲碁は「棋道」と言って、技芸の品位と礼儀を重んじるものだ、と結衣は言った。
「対局の相手に不愉快な気持を与えず、勝負は盤上でフェアに競うのが基本です。定石や戦略や戦術も大事ですが、最も重要なのは礼です。礼に始まり、礼に終わる、とも言われます」
話を聞きながら亮治は、この娘は聡明だな、と好感を持った。切れ長の眼に色白の瓜実顔、愛嬌や華やぎには欠けるものの冷やかなほどに整ったクレバーな容貌には亮治を惹き付けるものが多分に在った。
「野上さんの趣味は何ですか?」
結衣が直裁に聞いて来た。
「残念ながら、趣味と言えるものは何も無いんだ。簪を創るしか能の無い人間だよ」
亮治は悪びれずに答えた。
「ただね、華やかな錺簪を創る細かい手作業の仕事だから、集中力と巧緻性と創造性、この三つだけは常に心掛けてやってはいるけどね」
更に亮治は続けて言った。
「作品には上手く行った出来栄えの良いものもあれば失敗作や駄作もある。唯、傑作も失敗作も、其処で終わってしまっては成長がないから、何故上手く行ったのか?何故駄目だったのか?気持や集中力はどうだったのか?技巧や手法は間違い無かったのか?仕事を振り返りながらそういったことを反省し、次の工夫に活かし、それを目指して努力する、そういうことが大切だと思ってはいるよ」
「なるほど、そういうことですね。何か囲碁と通じるものが有るように思いますが・・・」
職人としての日頃の寡黙な言動からは隠れて見えない、その中に潜んでいる亮治の矜持の強さを垣間見て、結衣は彼に深い興味と関心と好意を持った。
それから二人はよく逢うようになった。
休みの日や仕事の帰途に食事をしたりドライブに出かけたりして交際を深め、互いの成長を高め合って行った。
やがて、結衣は亮治のマンションへ出入りするようになり、台所用品や食器類を揃えたり、リビングルームを片付けて飾り付けたりして、二人の暮らしを整えて行った。間も無く、彼女はワンルームマンションを引き払って亮治と一緒に住むようになった。
後ろめたい気持に駆られたのは高層住宅が立ち並ぶマンションの前まで来た時だった。花園を潜り抜けて来たような浮き浮きした気分が急に萎んだ。
いきなりと言う訳にも行かないな・・・
橙色の仄暗い灯の下に、つい今し方まで亮治が身に着けていた華やかなものとは馴染まない日常の暮らしが匂っていた。その匂いが亮治のして来たことを咎めるようだった。亮治は暫く凝然とマンションの入口の前に立っていたが、やがて、エレベーターに乗って五階の自分の部屋へ上がり、玄関のドアを開けた。
「あなた?」
新藤結衣の声がして、玄関ホールにその姿が現れた。
「お帰り。遅かったのね」
「うん、ちょっと兄弟子たちと一杯やって来た」
「御飯は?」
「食ったよ」
亮治はダイニングルームへ入った。彼を待って居たらしく、食卓には布巾を架けた食膳が二つ、向かい合わせに並んでいた。
「待たずに食えば良かったのに・・・」
亮治は少し不機嫌な気分になってそう言った。見慣れたダイニングの光景も、結衣も、くすんで色褪せて見えた。
ふたりの出逢いは一年以上も前のことだった。
特別のことも無く何日も通りに仕事が終わった秋の夕暮れ、亮治が帰りに立ち寄った駅ビルの書店で二人はばったり出逢った。新刊コーナーで何か読めるものを探していた結衣の横に偶然に立ち止まった亮治が「やあ」と声をかけた。
「君もこの駅からの通勤なの?」
「はい、野上さんも、ですか?」
「うん。仕事が予定通りに終わったので、ちょっと立ち寄ったんだが・・・」
二人は暫くそれぞれに書物を探した後、亮治は伝統工芸に関する書籍を、結衣は新刊小説を買って書店を出た。
「あのぉ、この駅ビルの二階に一寸洒落た喫茶店が有るんだけれど、宜かったらお茶でも喫まないか?」
断られるかな、と危惧したが、結衣は「あっ、はい、私は構いませんが・・・」と言って、亮治の後に従いて来た。
二人は喫茶店に入ってお互いの仕事や趣味などについて語り合った。
結衣の話し振りは飾り語が無く理路整然としていた。日頃得意先の仕入担当者や気難しい職人を相手にテキパキと商品を売り捌く仕事をしている女性に相応しい物言いと態度だった。自分をひけらかすことは無く、口数もそれほど多くは無かった。
趣味は囲碁だ、と言って恥ずかしそうに微笑んだ。
「子供の頃から父に連れられて家の近くの碁会所に出入りしていたんですが、高校で囲碁研究会に入ってから病鴻毛に入ってしまったんです」
「若い女性なのに囲碁だなんて珍しいね」
「私は小学生の頃に、大学生の人が碁を打っているのを見て格好良いなと思いました。それで、十二歳になった時に父の手解きを受けて碁会所へも通うようになったんです」
その後、高校を卒業するまで日々研鑽に励んで二級まで進んだ、と言う。
「でも、社会へ出てからは毎日仕事に追われて忙しく、最近では週一回打てるか打てないかという状況です。碁会所で月に一回行われるハンディ・トーナメント戦に毎回参加するのが精一杯なんですよ」
囲碁は「棋道」と言って、技芸の品位と礼儀を重んじるものだ、と結衣は言った。
「対局の相手に不愉快な気持を与えず、勝負は盤上でフェアに競うのが基本です。定石や戦略や戦術も大事ですが、最も重要なのは礼です。礼に始まり、礼に終わる、とも言われます」
話を聞きながら亮治は、この娘は聡明だな、と好感を持った。切れ長の眼に色白の瓜実顔、愛嬌や華やぎには欠けるものの冷やかなほどに整ったクレバーな容貌には亮治を惹き付けるものが多分に在った。
「野上さんの趣味は何ですか?」
結衣が直裁に聞いて来た。
「残念ながら、趣味と言えるものは何も無いんだ。簪を創るしか能の無い人間だよ」
亮治は悪びれずに答えた。
「ただね、華やかな錺簪を創る細かい手作業の仕事だから、集中力と巧緻性と創造性、この三つだけは常に心掛けてやってはいるけどね」
更に亮治は続けて言った。
「作品には上手く行った出来栄えの良いものもあれば失敗作や駄作もある。唯、傑作も失敗作も、其処で終わってしまっては成長がないから、何故上手く行ったのか?何故駄目だったのか?気持や集中力はどうだったのか?技巧や手法は間違い無かったのか?仕事を振り返りながらそういったことを反省し、次の工夫に活かし、それを目指して努力する、そういうことが大切だと思ってはいるよ」
「なるほど、そういうことですね。何か囲碁と通じるものが有るように思いますが・・・」
職人としての日頃の寡黙な言動からは隠れて見えない、その中に潜んでいる亮治の矜持の強さを垣間見て、結衣は彼に深い興味と関心と好意を持った。
それから二人はよく逢うようになった。
休みの日や仕事の帰途に食事をしたりドライブに出かけたりして交際を深め、互いの成長を高め合って行った。
やがて、結衣は亮治のマンションへ出入りするようになり、台所用品や食器類を揃えたり、リビングルームを片付けて飾り付けたりして、二人の暮らしを整えて行った。間も無く、彼女はワンルームマンションを引き払って亮治と一緒に住むようになった。
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