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第六話 花の陰に
⑥「私の住んで居る処を見て行って下さい」
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バーから出て、俊彦はいつものように彼女をタクシーで送った。タクシーがマンションの入口の前で止まった時、井川加奈が彼の方を向いて言った。
「先生、私の住んでいる所を一度、見て行って下さい」
「えっ、良いの?ほんとうに」
エレベーターを降りて廊下に出ると、靴の下で低い足音がした。暗い窓の前を通って二つ目の扉が彼女の部屋だった。
八畳ほどの洋間と六畳ばかりのダイニングキッチンに小さなバス、トイレの付いた小綺麗な部屋で、井川加奈は少し緊張した面持ちで、俯いてお茶を煎れた。急いで点けた石油ファンヒーターの火だけが、微かな音を立てて赤く燃えている。
良く片付いた部屋を見やりながら俊彦は言った。
「随分綺麗にして暮らしているね」
「いえ、そんな・・・」
井川加奈が戸棚からウイスキーを取り出そうと立ち上がった時、俊彦はその小柄な肩に両手をかけて引き寄せた。唇を寄せた時、一度は顔を伏せたが、左手の指でそっと顎を持ち上げると、もう避けはしなかった。一、二度唇が触れ合った後、長い接吻になった。左手で相手の背中を抱き寄せ、右手をその下の方へ伸ばしながら、俊彦は相手がもう何も拒まないことを確信した。右手はジーンズの固い生地を通して、彼女の尻の丸く固く、それでいて柔らかな弾力を感じていた。俊彦は井川加奈を抱いたまま奥のベッドへ彼女を誘った。直ぐにカジュアルなシャツとジーンズが脱ぎ捨てられ、それから二人は二人だけの無限に優しいひと時に没して行った。
事が終わった後、裸の背中を抱きしめながら、俊彦は言った。
「五月の連休になったら、君の故郷の北海道へ行こう。そして、お母さんの前で僕たち婚約しよう、良いね」
顔を上げた井川加奈の瞳から大粒の涙が溢れ出た。直ぐに、俊彦の胸に顔を埋めた彼女は、うん、と頷いた後、両掌で顔を覆って咽び泣いた。その忍び泣きを聴きながら、俊彦は、こいつを必ず幸せにしなきゃ、と心に誓った。
一週間が経った或る日、俊彦宛てに一通の手紙が届いた。今どき、手紙なんて誰からだろう、と訝しく思って、差出人を見ると、それは智香子嬢からだった。
「前略、手紙などと自分でも思いつつ、でも、メールでは書き切れないようにも思えて、書き慣れない手紙に記めます。先日は真実に有難うございました。とてもお世話になりましたし、とても楽しかったです。
あなたのことは美しい青春の一コマとして決して忘れません。私は正月に初めて逢った時からあなたのことが好きでした。いえ、今でも大好きです。でも、私は学者の奥さんになって上手くやって行く自信はとても持てそうにありません。で、二月にお見合いをした人と結婚することになりました。相手の人は地元の代議士の息子さんです。学生時代にラグビーをやっていて背が高く、肩幅もがっしりしてとても素敵な人です。父の商売の方も最近はなかなか難しくて、やはり有力なバックが必要なのだそうです。ディーラーと修理工場と言うことに限れば、今では県内でうちが一番大きいのですって。それに、彼の弟さんが、政治家の後を継ぎたい、と言い出したので、彼はうちの商売を継げることになって、こういうことになりました。私は商売が好きだから何とかやって行けると思います。今から、副社長になる心算で張り切っています。
私はこういうことになりましたが、あなたにもきっと素敵な人が見つかるに違いないと思います。あなたのお幸せを陰ながら祈って居ます。どうぞ、お元気で、さようなら。草々」
俊彦は、ああ、僕には女ってものはよく解らないなぁ、とつくづく思いつつ手紙を読み終えた。そして、ワン・ルームマンションの床に座り込みながら、まあ、本人が幸せならそれも良いか、と智香子嬢の結婚を心から祝したのだった。
「先生、私の住んでいる所を一度、見て行って下さい」
「えっ、良いの?ほんとうに」
エレベーターを降りて廊下に出ると、靴の下で低い足音がした。暗い窓の前を通って二つ目の扉が彼女の部屋だった。
八畳ほどの洋間と六畳ばかりのダイニングキッチンに小さなバス、トイレの付いた小綺麗な部屋で、井川加奈は少し緊張した面持ちで、俯いてお茶を煎れた。急いで点けた石油ファンヒーターの火だけが、微かな音を立てて赤く燃えている。
良く片付いた部屋を見やりながら俊彦は言った。
「随分綺麗にして暮らしているね」
「いえ、そんな・・・」
井川加奈が戸棚からウイスキーを取り出そうと立ち上がった時、俊彦はその小柄な肩に両手をかけて引き寄せた。唇を寄せた時、一度は顔を伏せたが、左手の指でそっと顎を持ち上げると、もう避けはしなかった。一、二度唇が触れ合った後、長い接吻になった。左手で相手の背中を抱き寄せ、右手をその下の方へ伸ばしながら、俊彦は相手がもう何も拒まないことを確信した。右手はジーンズの固い生地を通して、彼女の尻の丸く固く、それでいて柔らかな弾力を感じていた。俊彦は井川加奈を抱いたまま奥のベッドへ彼女を誘った。直ぐにカジュアルなシャツとジーンズが脱ぎ捨てられ、それから二人は二人だけの無限に優しいひと時に没して行った。
事が終わった後、裸の背中を抱きしめながら、俊彦は言った。
「五月の連休になったら、君の故郷の北海道へ行こう。そして、お母さんの前で僕たち婚約しよう、良いね」
顔を上げた井川加奈の瞳から大粒の涙が溢れ出た。直ぐに、俊彦の胸に顔を埋めた彼女は、うん、と頷いた後、両掌で顔を覆って咽び泣いた。その忍び泣きを聴きながら、俊彦は、こいつを必ず幸せにしなきゃ、と心に誓った。
一週間が経った或る日、俊彦宛てに一通の手紙が届いた。今どき、手紙なんて誰からだろう、と訝しく思って、差出人を見ると、それは智香子嬢からだった。
「前略、手紙などと自分でも思いつつ、でも、メールでは書き切れないようにも思えて、書き慣れない手紙に記めます。先日は真実に有難うございました。とてもお世話になりましたし、とても楽しかったです。
あなたのことは美しい青春の一コマとして決して忘れません。私は正月に初めて逢った時からあなたのことが好きでした。いえ、今でも大好きです。でも、私は学者の奥さんになって上手くやって行く自信はとても持てそうにありません。で、二月にお見合いをした人と結婚することになりました。相手の人は地元の代議士の息子さんです。学生時代にラグビーをやっていて背が高く、肩幅もがっしりしてとても素敵な人です。父の商売の方も最近はなかなか難しくて、やはり有力なバックが必要なのだそうです。ディーラーと修理工場と言うことに限れば、今では県内でうちが一番大きいのですって。それに、彼の弟さんが、政治家の後を継ぎたい、と言い出したので、彼はうちの商売を継げることになって、こういうことになりました。私は商売が好きだから何とかやって行けると思います。今から、副社長になる心算で張り切っています。
私はこういうことになりましたが、あなたにもきっと素敵な人が見つかるに違いないと思います。あなたのお幸せを陰ながら祈って居ます。どうぞ、お元気で、さようなら。草々」
俊彦は、ああ、僕には女ってものはよく解らないなぁ、とつくづく思いつつ手紙を読み終えた。そして、ワン・ルームマンションの床に座り込みながら、まあ、本人が幸せならそれも良いか、と智香子嬢の結婚を心から祝したのだった。
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