大人への門

相良武有

文字の大きさ
上 下
34 / 67
第六話 花の陰に

⑤俊彦、井川加奈の真実に気付く

しおりを挟む
 四月中頃、午後の仕事が始まる少し前の昼休みに、俊彦はデスクの前でコーヒーを飲みながら椅子に凭れて、書類に眼を通していた。
「何をご覧になっているのですか?」
傍を通りかかった井川加奈が声を掛けて覗き込んだ。
「なに、別に大したものじゃ無いよ、午後の講義のレジュメだよ」
「そうですか、ご熱心なのですね」
そう言って向きを変えようとした井川加奈の上衣の裾が机の端に置いて在ったコーヒーカップに触れて、カップがひっくり返った。コーヒーが零れて彼女の膝の辺りと机の上を濡らした。
「あっ、済みません!」
咄嗟に、井川加奈はそのまま、自分の上衣の袖で、無造作に机の上に零れたコーヒーをさあ~っと拭き取った。今日着下ろしたばかりと思われる真新しい服の袖を雑巾代わりに使ったのである。
驚いた俊彦が少し語気を荒めて言った。
「汚れるじゃないか、折角の服が!」
「いえ、良いんです。済みません、コーヒー、煎れ替えて来ます」
彼女はそう言い置いて部屋を出て行った。
さり気ない仕草に見えたが、俊彦は彼女の仕草に、ほのぼのとした温もりと優しさを視た気がした。
「そうか、そういう娘だったのか・・・」
彼は其処で少し考えこみ、何かを心に決めた。
 その日の夕方、井川加奈が帰途の私鉄駅に着くと、改札口の前で俊彦が人待ち顔に佇んでいた。買い物袋を下げた彼女は少し手前で足を止めて彼に呼びかけ、悪戯っぽい眼で笑い掛けた。
「どなたかをお待ちなのですか、先生?」
「うん、待って居たんだよ、逢いたい人を、ね」
「でも、あの可愛いお嬢さんはもう故郷へ帰られたんじゃないすか?」
「えっ、何でそんなことを君が知っているんだ?」
「何度かお見かけしたんです、白いBMWのお二人を」
「そうだったのか、見られていたのか・・・」
「でも、ここ十日間ほどはお見かけして居ませんわ」
「然し、逢いたい人は来るんだよ」
「えっ、来られるんですか、真実に?」
「真実だ、と言うより、もう来ているんだよ、眼の前に。僕が逢いたくて待って居たのは、間違えないで欲しい、井川君、君なんだ」
「わたしを、ですか?でも、何故?」
「話したいことが一杯在ってさ。口ではなかなか上手く言えないんだが・・・」
そこで、俊彦はちょっと息をついてから、話を続けた。
「僕は最近ずうっと、この三月ほどの間、若いぴちぴちした明るい華やかな女の精気みたいなものに魅入られていた。然し、真実の女の息吹と言うのは、井川君、君のことだったんだ。君の優しさ、穏やかさ、和やかさこそが女の生命なんだ。一年間も毎日仕事で顔を合わせながら解らなかったが、僕はやっとそれに気が付いた。今日、君が零れたコーヒーを服の袖で拭いてくれた時に、解ったんだ。とにかく君に、それを伝えたかった、だからこうして待って居たんだ」
井川加奈は眼を見張り、放心して、手にした買物袋を落としそうになり、その後、不意に激しく瞬きをした。更に、彼女は狼狽え、当惑し、じっとしていられない素振りになって、言った。
「少し歩いて下さい、あちらへ。あの踏切を渡って向うへ行きませんか」
彼女は俊彦の返事を待たずに先に立って歩き出した。
その少し前屈みの肩が、歩きながら頻りに揺れている。しゃくり上げているようにも見える。
俊彦は足を速めて追いつき、その肩にそっと手をかけた。
 それから二人はレストランでフレンチを食し、バーでワインを飲んで心穏やかなひと時を過ごした。それは二人が出会って初めての、寛いだ和やかな解き放たれた時間だった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

久々に幼なじみの家に遊びに行ったら、寝ている間に…

しゅうじつ
BL
俺の隣の家に住んでいる有沢は幼なじみだ。 高校に入ってからは、学校で話したり遊んだりするくらいの仲だったが、今日数人の友達と彼の家に遊びに行くことになった。 数年ぶりの幼なじみの家を懐かしんでいる中、いつの間にか友人たちは帰っており、幼なじみと2人きりに。 そこで俺は彼の部屋であるものを見つけてしまい、部屋に来た有沢に咄嗟に寝たフリをするが…

会社の上司の妻との禁断の関係に溺れた男の物語

六角
恋愛
日本の大都市で働くサラリーマンが、偶然出会った上司の妻に一目惚れしてしまう。彼女に強く引き寄せられるように、彼女との禁断の関係に溺れていく。しかし、会社に知られてしまい、別れを余儀なくされる。彼女との別れに苦しみ、彼女を忘れることができずにいる。彼女との関係は、運命的なものであり、彼女との愛は一生忘れることができない。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

体育座りでスカートを汚してしまったあの日々

yoshieeesan
現代文学
学生時代にやたらとさせられた体育座りですが、女性からすると服が汚れた嫌な思い出が多いです。そういった短編小説を書いていきます。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

処理中です...