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第六話 花の陰に
①年末大掃除
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昨夜半から降り出した雨もどうやら昼前には止み、午後には曇り空ながら偶には薄日も差す天気になった。
今日は年末の二十八日、大掃除と仕事納めの日である。川島俊彦は机の上の書類箱を整理して壁際の棚に収め、ロッカーからトレーナーを引っ張り出して袖を通し、徐に、床から天井、机の下から棚の上まで丹念に掃除機を掛け始めた。傍らでは、事務職員の井川加奈が寒さにもめげず上衣を脱いだ長袖のTシャツにジーンズ姿で、お湯と洗剤を使って机やカウンターや丸テーブルの上を雑巾で磨き上げている。いつもは地味な服装の井川加奈が、原色の人形模様が鮮やかに踊るTシャツと腰の辺りが大きく膨らんだ今風のジーンズを履いて、不安定に腰の辺りを捻りながら雑巾掛けをしている。彼女はこの豊徳学園大学文学部の出身で、卒業後も企業に就職するのが嫌だったのか、母校の研究室で安月給の事務職員になり既に丸八カ月が経過した。元々小柄で子供っぽく見える上に、そうした気楽な服装をすると殆どまだ女子学生と見栄えは変わらない。華のある晴れやかな貌ではないが、よく見ると、色白で眼鼻の整ったなかなかの美形である。
「こりゃ、掃除機では落ちないや。油とゴミがこびり着いている。ね、其処が終わったら此処もお願いしますよ」
俊彦が声を掛けて頼むと井川加奈が雑巾片手にやって来た。
「私、其処、届くかしら。ね、椅子、ちゃんと支えていて下さいよ、先生」
この四月に一緒に此処の研究室に入った気安さか、井川加奈がいつもに似合わぬ親しげな燥いだ声を挙げた。
俊彦は国立大学の大学院修士課程を終えた後、この豊徳学園大学に職を得て英文科の講師になった。国立大学の学部長と豊徳学園の理事長が親しい知古であったことから、求められての着任であった。やがて講師から助教授になり、教授になって学部長から更には学長にまで登り詰めるかも知れない。だが、今は未だ入職八カ月余り、新人駆け出しの研究者の一人に過ぎない。然し、彼はそれなりの砕けた服装と気楽な語り口で、年齢が近いことも有って、若い学生達の人気を集めてはいた。時には学外で文学論だけでなく人生論や政治談議を論じたりもした。
「家では大抵そう言う格好なの?」
俊彦の問いに井川加奈が少し顔を赤らめて答えた。
「もう酷いものなんです、いつも」
そう言うと彼女は勢いをつけるようにして立ち上がり、雑巾を絞りに行った。
夕方になると大掃除も大方片が付いて、そろそろ退勤の時刻になった。
教授が研究室の皆を集めて納会の挨拶をした。
「今年一年間、真実に、ご苦労だった。四月から新しく加わった人たちも含めて、皆、よく頑張ってくれた。正月休みの間、心身ともにリフレッシュして、年が開けたら又、新たな気持で頑張ってくれるよう今からお願いしておく。ではこれで、今年の打ち上げとしょう」
殆どの職員が車通勤ということも有って、ビールによる乾杯も無く呆気無く納会は終了した。
その後、俊彦は井川加奈と彼女の同僚の辻井紗香を近くの盛り場の行きつけの店へ食事に誘った。小料理屋と言うほどでもないが食事が出来る店で、多少の慰労を兼ねて、と思って誘ったのである。
だが、ビールを一、二杯呑んだところで辻井紗香が時計を見てもじもじし始めた。
「あのぉ、先生、実はちょっと約束があって、行かなきゃなりませんので・・・」
辻井紗香があたふたと出て行った後、井川加奈と二人で取り残された俊彦は、早々に酒を切り上げて食事にした。考えてみれば、もう一年近くも秘書の如くにして働いて貰って居ながら井川加奈と慰労の食事をするのはこれが初めてだった。
「もう今年も終わりなんですねぇ」
食事を終わって駅の方へ、年末の夜の雑踏の中を歩き始めた時、井川加奈が独り言のように呟いたその言葉が俊彦の足を止めた。彼がもう一件誘うと、彼女は素直に頷いた。
井川加奈はバーで勧められるままにゆっくりと飲みながら、自分の育った北海道の話をした。
「札幌から一時間ほど東に行った処なんですが、岩見沢と言って雪の多い町なんです。だから、小さい頃から父親とよくスキーをして一緒に遊びました。私が一番楽しかった頃です」
父親はもう亡くなって久しい、と言う。
井川加奈は世間の二十二、三歳の若い娘とは少し趣を異にしていた。別に地味で陰気という訳ではないが、燥いで華やかという雰囲気は余り無く、何処か老成しているような処があった。戸外で友人たちと戯れることよりも、独りマンションの自室で本を読んだり音楽を聴いたりしている方が好きというタイプだった。
バーから出て、俊彦は井川加奈をタクシーで送り、マンションの入口で彼女と別れた。タクシーのテールランプが見えなくなるまで、玄関前で手を振りながら、井川加奈は彼を見送った。
今日は年末の二十八日、大掃除と仕事納めの日である。川島俊彦は机の上の書類箱を整理して壁際の棚に収め、ロッカーからトレーナーを引っ張り出して袖を通し、徐に、床から天井、机の下から棚の上まで丹念に掃除機を掛け始めた。傍らでは、事務職員の井川加奈が寒さにもめげず上衣を脱いだ長袖のTシャツにジーンズ姿で、お湯と洗剤を使って机やカウンターや丸テーブルの上を雑巾で磨き上げている。いつもは地味な服装の井川加奈が、原色の人形模様が鮮やかに踊るTシャツと腰の辺りが大きく膨らんだ今風のジーンズを履いて、不安定に腰の辺りを捻りながら雑巾掛けをしている。彼女はこの豊徳学園大学文学部の出身で、卒業後も企業に就職するのが嫌だったのか、母校の研究室で安月給の事務職員になり既に丸八カ月が経過した。元々小柄で子供っぽく見える上に、そうした気楽な服装をすると殆どまだ女子学生と見栄えは変わらない。華のある晴れやかな貌ではないが、よく見ると、色白で眼鼻の整ったなかなかの美形である。
「こりゃ、掃除機では落ちないや。油とゴミがこびり着いている。ね、其処が終わったら此処もお願いしますよ」
俊彦が声を掛けて頼むと井川加奈が雑巾片手にやって来た。
「私、其処、届くかしら。ね、椅子、ちゃんと支えていて下さいよ、先生」
この四月に一緒に此処の研究室に入った気安さか、井川加奈がいつもに似合わぬ親しげな燥いだ声を挙げた。
俊彦は国立大学の大学院修士課程を終えた後、この豊徳学園大学に職を得て英文科の講師になった。国立大学の学部長と豊徳学園の理事長が親しい知古であったことから、求められての着任であった。やがて講師から助教授になり、教授になって学部長から更には学長にまで登り詰めるかも知れない。だが、今は未だ入職八カ月余り、新人駆け出しの研究者の一人に過ぎない。然し、彼はそれなりの砕けた服装と気楽な語り口で、年齢が近いことも有って、若い学生達の人気を集めてはいた。時には学外で文学論だけでなく人生論や政治談議を論じたりもした。
「家では大抵そう言う格好なの?」
俊彦の問いに井川加奈が少し顔を赤らめて答えた。
「もう酷いものなんです、いつも」
そう言うと彼女は勢いをつけるようにして立ち上がり、雑巾を絞りに行った。
夕方になると大掃除も大方片が付いて、そろそろ退勤の時刻になった。
教授が研究室の皆を集めて納会の挨拶をした。
「今年一年間、真実に、ご苦労だった。四月から新しく加わった人たちも含めて、皆、よく頑張ってくれた。正月休みの間、心身ともにリフレッシュして、年が開けたら又、新たな気持で頑張ってくれるよう今からお願いしておく。ではこれで、今年の打ち上げとしょう」
殆どの職員が車通勤ということも有って、ビールによる乾杯も無く呆気無く納会は終了した。
その後、俊彦は井川加奈と彼女の同僚の辻井紗香を近くの盛り場の行きつけの店へ食事に誘った。小料理屋と言うほどでもないが食事が出来る店で、多少の慰労を兼ねて、と思って誘ったのである。
だが、ビールを一、二杯呑んだところで辻井紗香が時計を見てもじもじし始めた。
「あのぉ、先生、実はちょっと約束があって、行かなきゃなりませんので・・・」
辻井紗香があたふたと出て行った後、井川加奈と二人で取り残された俊彦は、早々に酒を切り上げて食事にした。考えてみれば、もう一年近くも秘書の如くにして働いて貰って居ながら井川加奈と慰労の食事をするのはこれが初めてだった。
「もう今年も終わりなんですねぇ」
食事を終わって駅の方へ、年末の夜の雑踏の中を歩き始めた時、井川加奈が独り言のように呟いたその言葉が俊彦の足を止めた。彼がもう一件誘うと、彼女は素直に頷いた。
井川加奈はバーで勧められるままにゆっくりと飲みながら、自分の育った北海道の話をした。
「札幌から一時間ほど東に行った処なんですが、岩見沢と言って雪の多い町なんです。だから、小さい頃から父親とよくスキーをして一緒に遊びました。私が一番楽しかった頃です」
父親はもう亡くなって久しい、と言う。
井川加奈は世間の二十二、三歳の若い娘とは少し趣を異にしていた。別に地味で陰気という訳ではないが、燥いで華やかという雰囲気は余り無く、何処か老成しているような処があった。戸外で友人たちと戯れることよりも、独りマンションの自室で本を読んだり音楽を聴いたりしている方が好きというタイプだった。
バーから出て、俊彦は井川加奈をタクシーで送り、マンションの入口で彼女と別れた。タクシーのテールランプが見えなくなるまで、玄関前で手を振りながら、井川加奈は彼を見送った。
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