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第八章 純子ママ

⑤山崎は相田社長直々に娘の婿にと望まれた

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 一月ほどが経ったある夕刻、営業から帰って来た山崎を課長が呼び止めた。
「山崎君、直ぐ社長室へ行ってくれ。社長がお呼びだそうだ」
課長は怪訝な表情をしていた。一介の営業マンを社長が直接呼びつけて、話を聴いたり質問したり、叱責したりすることは先ず無い。お前何をやらかしたのだ?という貌つきだった。
深呼吸を一つして社長室のドアをノックした山崎は緊張の面持ちで中へ入って行った。社長室には、恰幅の良い精悍な風貌の五十歳代中半の見知らぬ客が居た。
「これが営業の山崎です。此方が大日製菓(株)の相田社長さんだ」
自社の社長がそう言って山崎を相田社長に引き合わせた。
「いつもお世話になっております。担当営業の山崎です」
山崎は深く腰を折って丁寧に挨拶した。
「大日の相田です、宜しく」
相田社長は鷹揚に応えた。
用件はそれだけだった。山崎は翔子の父親が自分を値踏みに来たことを直ぐに理解した。
週末に翔子と逢ったとき、翔子が悪戯っぽく言った。
「先日、父があなたを下見に行ったみたいね。あなた合格したみたいよ」

 更に一月後、山崎は相田家の夕食に招かれた。
家族は四人のようだった。翔子とその両親、それに弟が一人居た。弟は翔子より六つ年下で未だ学生だった。
贅沢な食事の後、コニャックを舐めながら相田社長が直截に聞いて来た。
「君の仕事に取り組むモットーは何か有るかね?」
「僕は未だ会社の経営についてはよく解りませんが、営業という今の仕事に関しては僕なりに一つの背骨を持っています」
「ほお~。是非それを聞かせて欲しいものだね」
山崎は悪びれることなく自分の考えを陳述した。
「僕は、顧客満足ということを言葉だけの抽象的なものではなく、どうすれば相手にも儲けて頂いて喜んで貰えるか、ユーザーの友人になるのが営業マンである、と考えています。買って戴く相手とどれだけ友人的にお付き合い願えるか、それだけを考えて、力まずに素直な気持で接して行きたいと思っています」
 商いとは信用を積み重ねて行くことである。良い品物を安く正確な納期で、奉仕の心を込めて、提供することで信用は得られる。然し、売る側に高い道徳観や人徳があれば、信用以上のものが得られる。お客様から「尊敬」されるようになる。商売の極意は「お客様の尊敬を得る」ことである。徳性が有るということは、優れた品質・価格・納期を超えるものが有るということである。営業マンが身につけるべきは「哲学」であり、人を自然に敬服させる「器量」である。この資質を身につけることを学ばなければビジネスの成果は上がらない。お客様の尊敬を得ることが、長期にわたる営業の成功に繋がるのである。そして、顧客満足こそが真に基本である。ビジネスで利益を上げる方法は「お客様に喜んで頂く」こと以外には無い。お客様のご期待に沿い、更にはそれを超えるような最高の製品を作ろうと一生懸命に働き、その上でお客様がより多くの利益を上げられるように新製品の開発を続けて行く。ビジネス上の行為は総て、お客様に喜んで頂くという基本に基づいていなければならない。優れた企業とは、お客様により多くの利益をもたらすことが出来る企業である。兎に角、積極的な気持ちで、丹念に製品を作り続け、心を込めて販売する。仕入から製造、販売まで、遇直なまでに「顧客第一」を貫くことに徹底する。脇目もふらず、お客様に喜んで貰えることを継続してやり続ける。会社の強みとは、挑戦者として、目標達成に向け一気呵成に走り出す団結力と元気の良さと勢いである。
相田社長は山崎の話を、ほう~、ほう~と頷き、相槌を打ちながら熱心に聞いてくれた。
 
 そして、三ヵ月後、山崎は相田社長直々に娘の婿にと望まれた。
山崎にとっては思いがけない幸運の舞い込みであった。 
山崎は、一度は断った。が、翔子と結婚することは将来の社長の椅子を約束されたも同然だった。大いに気持が動いた。それに、何よりも、訪れた幸運を逃がすには忍びない思いが山崎の胸にどっと溢れた。
純子への思いは更に冷えていった。
 山崎が純子と別れることを決心したのは、純子から妊娠したことを打ち明けられた時である。山崎は翔子の父親から最終決断を迫られて、はっきりと決心がついた。今だ!手切れの機会だ!
直ぐに純子を産婦人科に連れて行って子供を堕ろさせた。
誰にも知られずに首尾よく子供の始末がついた時、まるで憑き物が落ちたように純子から心が完全に離れていた。
その後、どう言い包めて純子に別れ話を承知させたのか、山崎は明確きりとは覚えていない。ただ、今のままだと二人は駄目になる、君も自分の足でしっかりと、もう一度自分の人生を生き直して欲しい、と宥めたり賺したりしたことだけは微かに記憶している。
純子は何も言わなかった。抗うこともせず、山崎の一方的な別れ話の裏を探ることもしなかった。ただ唯、泣きに泣いた。気が狂うのではないかと山崎が怯えるほどに泣き続けた。純子の狭いマンションの部屋で、狂気の泣き声に耐えながら山崎はその時、ひたすらに、もう少しの辛抱だ、もう少しでこの修羅場から逃げ出せるのだ、と、それだけを思っていた。
 
 山崎に捨てられた純子の胸には悲嘆と怨念と憤怒が大きく渦巻いた。それは純子自身が怖くなるほど大きくて激しいものだった。自分の何処にこんな激しい感情があったのだろうかと訝るほどの激しさだった。純子はその憤怒の赴くままに身を任せた。
会社を辞めた純子は数日後、ふらっと店頭の貼り紙を見て、キャバクラの面接を受けた。
純子は居直った。男っていうのはあんなもんだ、精々金を稼いで人生面白おかしく生きてやれ、どうせこの世の中はそんなもんだ・・・純子は自棄になり破れかぶれだった。
純子は自ら素顔を消した。そして、その瞬間から源氏名「茉莉」のキャバ嬢人生を走り始めた。
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