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相良武有

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第八章 純子ママ

③二十数年前、純子ママと山崎は出逢った

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 二十数年前、大手上場企業の営業部に所属していた山崎が、月に一、二度、ルートセールスで訪問する得意先の資材課に、細田純子は居た。彼女は頭の回転の速い聡明な担当者で、百戦練磨のメーカー営業マンを相手に、納期、品質、価格の何れの交渉においても一歩も引けを取らなかった。だが、ぎすぎすした固い感じは無く、何よりも純子が醸し出す温かくて柔らかい、人を包み込むような雰囲気が彼女の魅力であった。その知性と温かさに魅せられて、殆どのメーカー営業マンが彼女のファンになって行ったし、山崎もそんなファンの一人であった。丁々発止の商売のやり取りをしながらも、心地良い穏やかな空気に浸りつつ、山崎は次第に彼女に好意を抱いていった。
 男女の仲は不思議な機微で以心伝心。純子もまた、長身で気さく、あまり飾り気の無い山崎を次第に意識し始め、山崎がコンサートに誘ったのを皮切りに、二人は交際を始めた。

 ホテル最上階の展望レストランでディナーを摂っていた二人の傍らを中年女性数人のグループが、白粉と香水の匂いをぷんぷんさせ、楽しそうに談笑しながら、を通り過ぎた。長い黒髪の長身の女性、丸顔の笑顔が華やかな栗毛の女性、雌牛並みのバストをした五十年輩の女性、頭の帽子から足元の靴までを黒と茶色のツートンカラーに纏めている女性等々が、賑やかに奥の席へと入って行った。
 二人の会話は自ずと互いの共通項である仕事の話から始まった。
「世間では、人は何事も痛い目をしないと本当には解らない、ってよく言いますよね。想像力や思考力を鋭敏に研ぎ澄ませば、ある程度までは理解出来るでしょうけれど、痛々しい経験や体験をして骨身に沁みたものほどには身に付かない。これは仕事にも当てはまるように思うのですが・・・」
「と言うと?」
「はい。幾ら良い考えや案やアイディアが有っても、それを試ってみなければただの絵に描いた餅で何の意味も成さないでしょう。仮令それが失敗に終わっても、失敗だったという事実だけは経験や体験となって心や頭に、場合によっては身体にまでも残りますよね。然も、これは仕事だけに限ったことでは無いでしょうけれど、自分一人だけでする仕事なんて余程の例外を除けば殆ど無いですから、何某かの関係で人の協力や支援やお世話や、或は、反対や拒絶や無私などを受けて毎日の仕事は回っている訳ですし、そう言った毎日の仕事の中で、人との関係に於いての経験や体験を経て初めて自分のものとして学習され蓄積されていくものではないかと私は考えているのですが・・・」
「そうだね。いつの世にあっても仕事は一人で出来るものではないし、自分の仕事だけ出来れば良いという会社も無い。会社には、必ずやるべきことと絶対にしてはいけないタブーとが有る。別に難しいことではない、極く常識的なことなんだな。然し、常識的なことが出来ない人間は、どんなに能力が有ろうと、一時は成功しても、結局は舞台から降りざるを得ないことになる」
「常識的なことと言いますと、日常の意識や習慣を変える、という意味ですか?」
「うん。会社で仕事をする人間には三地点主義が必要だと思う。会社と自宅の二点を往復するだけでなく、もう一点自分の場所を見つけ、偶には其処を通って帰る。それが生活全体にメリハリをつけるということになる」
「解かりました。アフターファイブに映画を観るなり、ジムで汗を流すなりして、センスアップを図るということですね」
「企業を伸ばす要素が効率性から創造性に移行した現代では、自己埋没型のビジネスマンは要らない。そんな人間には、困難な時代を切り開く発想は期待出来ない。そして、独創的な発想に何より大切なのは、何事にも好奇心を持ち、一つ一つのことに熱中する心の態度ではないだろうか、脳を刺激し、感性を磨くには、日常では触れることの少ない、自然の在り様や人間に対しての感情を、活き活きと働かせる心がけが大切だと僕は思う」
「例えば、週末に海岸を歩くとか、野山を散歩するとかして、感情を豊にすることが大事なのですね」
「朝の時間活用にも同じことが言える。ゆっくり食事をし、朝刊にも眼を通しておく、そういう余裕を持って電車に乗る、そうすれば、乾いた心に水が浸み通るような朝が過ごせるだろう。だが、多くの人は、慌てて身支度をし、混雑のピークにある電車に小走りで駆け込む。これでは感性は閉ざされたままだよね」
純子は、膨大な仕事をこなしているのに悠然としている人と、せかせかと仕事に追われている人との違いは、案外この辺に秘密が有るのかも知れないわ、と思った。
「僕はビジネスマンとして良い仕事をしたいと思うから、よしやってやるぞ、という熱い闘志を胸の中に滾らせているのですがね・・・」
 
 会社の上司や同僚或いは他社の営業マンに知られてはいけないという秘かな忍び逢いが、二人の恋を一途なものにしていった。二人は次第に激しく求め合うようになった。
山崎との交際は結婚が前提だと当初から純子は考えていた。
エプロン姿でキッチンに立ち、フライパンをカサコソ振りつつキャベツを刻む。隣のコンロでお湯がしゅんしゅんと湧き上がっている。ダイニングではテーブルの前で夕刊を拡げて山崎が料理の出来るのを待っている。そんな情景を胸に描いて純子は幸福感に浸ったりした。
 しかし、二年近くの時を経て、二人の関係は惰性化して行った。
最初の頃は、逢う度に新鮮さもあり、ときめきもあったが、時を経るに連れて、ただ漫然と会い、食事をして酒を飲み、そして、身体を重ね合う日常の中へと、二人は埋没して行った。
純子はそんな二人の関係に気を揉み、そして危惧した。が、山崎には純子を思う気持ちが次第に薄れて、愛する心も急速に冷えて行く気がしていた。
「私たち、この侭、こんな関係を続けて行って、この先どうなるのかしら・・・」
山崎には純子が暗に結婚を催促しているように思えた。
 純子は二人の暮らしについてあれこれと夢を語ったりもした。
やがて生まれて来るであろう子供達の子育てと教育の環境を整える為に、狭いながらも慎ましやかな自分達の戸建て住宅を出来るだけ速い内に手に入れたい、そして、子供達には一人一人に自分の部屋を与えて、生活環境はしっかり整えてやりたい、毎日使うダイニングキッチンやリビングは出来るだけ使い勝手の良い広さにしたい、二人の寝室も山崎自身の書斎もそれなりの大きさが欲しい・・・。
「あなた、もし転勤があっても単身赴任は嫌よ。月に一度か二度しか帰って来ないあなたを、子供と二人でじっと息を詰めて待っているなんて私には耐えられないわ」
話を聞きながら山崎には次第に純子を疎ましく思う気持ちが大きくなっていった。
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