クラブ「純」のカウンターから

相良武有

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第八章 純子ママ

②山崎は用意して来た額面五百万円の小切手を差し出した

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 山崎は、背広の内ポケットから、用意して来た額面五百万円の小切手を取り出して、徐に、純子ママの前に差し出した。
「あなた、どうしたのですか?これは何の真似です?」
純子ママは顔を上げて正面から山崎を見すえた。
「ほんの僕の気持ちだ、是非取っておいて欲しい」
「へ~え」
純子ママは言ったが、山崎から視線を離さなかった。
「ですがねえ山崎さん。こんなお金は頂く訳には行きませんよ。昔の詫びの心算ですか?罪滅ぼしですか?冗談じゃありません。あなた、私の人生をお金で償う心算ですか?お金で二十年間を買おうって言うのですか?」
純子ママは小切手を掴み取ると、びりびりと引き裂いた。
「昔のことを言い出すのでしたら、一億が二億円積まれたって承知出来ませんよ。でもねえ、あなたのような薄情な人に惚れた私が馬鹿だったと、きっぱり忘れて生きて来たのですよ。それが何ですか、今頃になってのこのこ顔を出して。私もこの世界じゃ少しは知られた女です。憚りながら、五百万や一千万のお金に不自由している訳じゃありません。お金で帳消しにして楽な気持ちになろうたって、そうは行きませんよ」
「・・・・・」
「蔑んで貰っちゃ困ります。私の方であなたを哀れんでいたのですから。業界では名の通った会社か知りませんけど、中小企業の社長の椅子に眼が眩んで、冷や汗たらたらかいて私を騙して逃げた男が、昔一人居たっけなあ、とね」
「・・・・・」
「勘違いしないで下さい。あなたを怨んで、あなたに復讐しようとして、この世界でのし上って来た訳じゃありません。私はね、他人が棚ぼた式に敷いたレールの上に乗っかって歩くような不甲斐無い安易な生き方ではなく、自分の力で、自分の足で切り開いて、私自身の意志で、この道一筋に生きて来たのです」
「然し・・・」
「さあ、もうお帰りになって下さい。今夜のお酒は私の奢りです。二度と顔を見せないで下さいまし」
山崎は黙って立ち上がった。
「有難うございました」
満面の笑みで純子ママが頭を下げた。クラブのママそのものの艶やかな表情と物腰であった。

 クラブ「純」を出ると、小雨がぱらついて来た。タクシーを拾うには通りの向こう側へ渡らないといけないなあ、山崎は思案しながらそのまま歩き続けた。
純子に会う前よりも気持ちが重くなっている。二十数年前の純子に対するあの惨い行為がより一層、山崎の心にずしりと重く沈み澱っている。今更ながらに酷い仕打ちだったと思い返された。
雨はそれほど強くはなかった。空車のタクシーがクラクションを鳴らしたが、反対方向だったので、山崎はそのままやり過ごした。
この錘を胸の中に一生抱えたまま生きて行くのが純子に対する責任であり、自分自身の贖罪なのだな、許して貰ったり償ったりしようと考えること自体がおこがましく虫が良過ぎることなのだな、襲ってきた寒さに身震いしながら、山崎はそう思った。
社長と言っても別にたいしたことは無いのだよ・・・
山崎は胸の中で呟いた。
 あの時、純子と一緒になっていたら、もう少し違った人生が歩けたのだろうか・・・
だが、考えても埒が明くものではない。もう後戻りは、出来はしない。全てがやり直しの効かないところまで来ている。このまま続けて行くしかない年齢になっている。純子も、もうやり直しの効かない年齢になっていることを悟っているだろう・・・。
 ネオンの煌きとは対照的な暗い空から、小雨はしとしとと降り続いている。山崎は肩を窄めて歩き続けた。
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