クラブ「純」のカウンターから

相良武有

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第八章 純子ママ

①純子ママの店に昔の男が訊ねて来た

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 夕食を終えた山崎は自分の書斎へ入ってカーテンを開き、庭を覗いて居た。外灯の光に照らされて糸のように雨が降っていた。庭の花木は暗くてよく見えなかった。
山崎は凝然と雨の音を聞き、暗い空を見やった。
 若い頃は、それほど心が痛むことが無かったのに、今になって、呵責の念に心が苛まれるのは何故だろう、と山崎は思った。
 元同僚の下野の言葉によれば、純子はあれ以来結婚することも無く、水商売の道に入って男を騙し、したたかに男を操って、一介のホステスからクラブのママに成り上がったのだと言う。著名なパトロンも何人か見つけたことであろう。そんなことが出来る女ではなかった、自分の所為だ、俺の責任だ、そう思いながら、山崎は暗い庭の奥に、ほっそりした身体つきで柔らかな笑顔の、あの頃の純子の面影を幻のように思い浮かべた。
あの時は、将来も現状もよく見えていない若造だったから出来たことだ。今なら、あんな酷いことは決して出来はしない・・・

 今し方、山崎はメインストリートと大通りの交差点でタクシーを降りた。
普段、山崎がタクシーを使うことは滅多に無い。運転手付きの専用車で出かけるのが常であるが、今日は違っていた。昔の捨てた女に逢いに行くという、誰にも知られたくない秘かな行為に、社用車を使う気にはなれなかった。
タクシーの中で山崎は迷った。一度は会わなければならないだろうと腹を括って出て来はしたものの、いざとなると、迷いが出て来た。今まで放っておいたのだから、このまま会わずに帰ってしまっても、別にどうってことも無い、何も変わる訳ではない。それに、純子と会うのが怖いような気持も有る。引き返そうかと思ったとき、タクシーが交差点に着いて、山崎は漸く決心がついた。
 大通りを北へ歩いて、山崎は下野から聞いた店を探し求めた。高級クラブ、ラウンジ、スナック、バー、料亭、小料理屋が整然と立地している。風俗店やパチンコ店は全く無い。此処はこの都市最大級の高級飲食店街である。午後八時を少し回ってクラブやスナックが開店した今時分は、夥しい数のタクシーがエリア内を溢れるほどに往来していた。ネオンが煌き、人がさざめき、これから熱気が街に満ち満ちて来る。この街は、大企業の接待や有名人・著名人の需要で支えられている、庶民性は一部のチェーン展開の店を除けば殆ど無い。
 目指す店は直ぐに判った。瀟洒なホワイトビルの一階に在った。
店内は垢抜けて洒落ていた。
床には紅い毛氈が敷かれ、照明はあたたかい橙黄色でほんのりと煙って霞んでいる。フロアーも仄明るかった。開店して間がない所為か、客は未だ二組しか居なかった。
五十歳代半ばの恰幅の良い山崎は紳士然として「ママさんの知り合いだが・・・」と言って案内を乞うた。
一番奥のボックス席へ案内した若いホステスが、丁度、先客達に挨拶を終えた和服の純子ママに耳打ちした。あっそう、という顔立ちで純子ママは腰を上げ、男の方へ歩を向けた。
「いらっしゃいませ」
零れるばかりの笑顔を見せて挨拶した純子ママは、山崎の顔を見て、一瞬、瞳に炎を燃え上がらせたようだった。
山崎は驚きの目を見張った。
五十歳に三つ四つ手前だと思われるのに、容貌も体形も昔と殆ど変わらなかった。少し濃い目に丁寧に施された化粧と和装に調和してふんわりとセットされた髪形がしっくりと似合っていた。目尻に少し出来た小皺が無ければ二十数年前にタイムスリップした純子の着物姿そのものであった。
「お久し振りでございます」
席に着いた純子ママのにこやかな笑顔は変わらなかったが、眼は笑っていなかった。
「・・・・・」
「どうして私が此処に居ることがお判りになったのですか?」
「うん。下野に聞いたものでね」
言いながら山崎は身体の中に後ろめたい思いが湧き上がり、それが胸の中一杯に拡がるのを感じた。
若いホステスが酒を運んで来て、水割りを作った。純子ママが目配せしてホステスはカウンターの方へ去って行った。
「ま、一杯飲こうか」
山崎の勧めに、純子ママはグラスを持ち上げただけで飲みはしなかった。
「下野さんにお逢いになったのですか?」
「うん。今はうちの会社の下請けをやっているよ」
「そう言えば、山崎さんは立派な会社の社長さんでしたね。業界じゃ有名な会社だと伺っていますけど」
「なんだ、知っていたのか?」
「そりゃ知っていましたよ。あなたは私を騙した人ですからね」
純子ママは相変わらず丁寧な言い回しではあったが、辛辣であった。顔は穏やかに微笑んでいるのに眼は依然、刺すような眼差しである。
山崎は顔を伏せた。
「君は今でも僕を怨んでいるのだろうな」
「怨む?」
純子ママは山崎をじっと見た。
「怨むねえ・・・そりゃあの時は怨みましたよ。あなたが上手いことを言って私を捨てたのは、ちゃんと判っていました。でも仕方が無いと思いましたね。殺してやりたい気持ちになったのは、その後、暫くして、あなたが社長の娘さんとちゃっかり結婚したことを知った時ですよ」
「・・・・・」
「あなたの新築の家に火をつけてやろうかと思いましたよ。知らないでしょうけど、真実にそう思って、ご自宅の近くにまで行ったことがあるのですから」
「・・・・・」
「でも、みんな過ぎてしまった昔のことです。こうして今日あなたに会うまで、そんな事が有ったなんて、忘れていました」
純子ママは短く笑って、襟足に手を遣った。
「私も色々世の中の裏表を見て来ましたからね。いつまでもあなたのことを怨んでいる訳にも行きませんでしたよ」
「結婚もしないで、ずうっとこの道を独りで歩いて来たと下野から聞いたけど、そうだったのか?」
純子ママは薄く笑って応えた。
「でもねえ、この商売もなかなか捨てたものじゃありません。結構愉しく、良いものですよ。それに今更、他の事をやってみても上手く行く筈もありませんしね。こうして毎日殿方のお相手をして暮らして行くのも結構気楽なものです」
だが、もうそろそろ歳だろう、いつまでも水商売でもあるまい、と山崎は、濃い化粧の下に隠されているであろう小皺を思って、純子ママの顔を見つめた。
「さあ、どうぞ、召し上がって下さい」
グラスの氷が解けて、チリンと音がした。山崎は苦い酒を一気に飲み干した。
「あらあら、そんな無茶な飲み方をしちゃ駄目ですよ」
 
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