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第七章 バーテンダー嶋木
⑨「死ぬんじゃないぞ、奈美!」
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数日後、美幸の三周忌命日がやって来た。
奈美が「お邪魔します」と他人行儀な声をかけて、今年も嘗て我が家だったマンションを訪れた。奈美は、美幸が死んで以来、毎年、祥月命日とお盆、春秋の彼岸の中日には必ず仏を拝みに来ていた。
「美幸は私の子でもありますからね」
疎ましい顔を向ける嶋木にそう言って奈美は仏前に跪いた。大きな仏壇がリビングの奥の和室に設えられていた。
華を活け替え、蝋燭に灯を燈し、線香を立て、小さな鐘をチーンチーンと鳴らして、奈美は合掌した。美幸が大好きだったチョコレートケーキも供えた。
「ご免ね、美幸、ご免ね、ママを許して、ね。迷わず成仏してね」
奈美は無言で長い間、掌を合わせた。
やがて、数珠をバッグに収めた奈美が、背後に無言で座っている嶋木に向き直って真直ぐに彼を見た。嶋木には、奈美が少し太って顔の色艶も良く、若返ったように見えた。嶋木の心にその若返りを憎む気持が少し動いた。
「今日は少し話が有るの、聞いて貰えるかしら」
眼を上げた嶋木の顔に、何を今更・・・という表情が浮かんだ。
嶋木の胸は奈美と面と向き合うと逆立った。独りで飲む酒の中で、奈美のことを思う時ほど素直になれなかった。初めて手に入れた自分の血を引いた一人娘の美幸を突然に失ったことが、胸が張り裂けるほどに哀しく、煮え滾るほどに腹立たしかった。嶋木は奈美と向き合うと何時もその感情に苛まれた。嶋木自身、自分で自分の気持を制御し切れなかった。
「あなたには少し言い難い話なのだけれど、わたし今、再婚の話があるの。相手は同じ会社に勤める電気工事の職人で真面目で実直な人なの。でも、わたし、どうしても決心が着かなくて迷っているの。それで、一度あなたに話してからと思って・・・」
嶋木は、心の中に不意に大きな穴が開いて、その暗い穴を今まで感じたことの無い淋しいものが吹き抜けるのを感じた。だが、その気持を捩じ伏せるように大仰に言った。
「そりゃあ結構じゃないか!」
奈美が嶋木をじっと凝視した。
「真実にそう思うの?わたしがあなたとは別の人の奥さんになっても、それで良いの?」
「それは他人の俺が、今更とやかく言う話じゃない、お前の勝手だよ」
「他人じゃないわ、わたし達は未だ夫婦なの!離婚届は出してないの、わたしが預かってずうっと持っていたの」
嶋木は足を崩して胡坐をかいた、が、頑なに押し黙って視線を向けなかった。
奈美が深い溜め息をついた。
「あの時、美幸が死んだ時にあなたとの縁は切れてしまったのね」
奈美の声はしんみりと湿っていた。
「あなたは未だ私を憎んでいるのね」
「憎んでなんかいないよ、もう!」
「わたしは、あなたが許してくれさえしたらと思い続けていたんだけど、やっぱり駄目だったのね」
不意に声が途切れ、奈美はハンカチを取り出して目頭を拭った。
「わたしは今でもあなたと一緒に生きたいのに・・・」
嶋木の胸に奈美に対する哀れみが波立ち、溢れるほどに拡がった。だが、彼はじっと座ったまま黙り込んでいた。
奈美も暫く目線を伏せてじっと動かなかった、が、やがて決心が着いたかのように立ち上がると「お邪魔したわね」と言って、出て行った。
奈美の帰り去る足音や玄関ドアの閉まる音を聞きながら、嶋木は何か大事なものをまた一つ失ったような気がした。
奈美は駅への大通りを重い足取りで、眼を伏せて歩いた。
美幸のことを片時も忘れたことは無い、だから心の傷が癒えることは無いだろう。だが、三年の歳月が流れて、あの人の心も少しは溶け始めているかと一縷の望みを託したが、駄目だった。三年前と少しも変わらず堅い殻の中に固まったままだった。奈美は、この先、自分が再婚したら、それでもう完全に嶋木との繋がりは切れてしまうだろうことをはっきり悟った。奈美の胸の中に深い悲しみの波が大きく拡がった。
ふと顔を上げた奈美の眼に、大通りの向こうから白いRV車が、大きな走音をたててかなりのスピードで走って来るのが見えた。
と、その時、細い十字路から小学四、五年生の男の子が、左手に母親から買って貰ったばかりの新品のグローブを填め、嬉々としてスキップしながら飛び出して来た。
「危ない!」
奈美は大声を挙げ、次の瞬間、両腕で男の子を薙ぎ払うような恰好で彼に体当たりした。
男の子は歩道側に数メートルふっ飛んで民家の前に倒れ伏した。
「耕一!」
後方で子供の名前を絶叫する母親の声がした。
奈美は体当たりした一瞬の分だけ逃げ遅れた。車の左前部に撥ねられた奈美の身体は二、三メートル後ろに撥ね上がり、街灯の太い鉄柱に背中から激突して横たわった。急ブレーキの音を軋ませてRV車が停止した。奈美は昏倒してそれっきり動かなかった。
忽ち、人が集まり、誰かが救急車を呼んだ。
奈美が出て行って十分も経たぬ内に嶋木のリビングの電話が鳴った。
「もしもし、嶋木ですが・・・」
「嶋木さんですか、ご主人ですか?」
電話の声は慌しく切迫していた。
「はい、そうですが・・・」
「今、奥さんが、奈美さんが車に撥ねられました、直ぐに来て下さい」
場所を聞いた嶋木は靴を突っ掛け、玄関ドアの自動ロックを後手に閉めて、走り出した。
息を喘がせて駅への大通りを走る嶋木の視線の先に、人だかりが見えた。救急車の紅いライトが回っていた。あそこだ!
走り着いた嶋木は人を掻き分けて前に出た。
丁度、奈美の身体が担架に乗せられて救急車の中へ運び込まれるところだった。
「奈美!奈美!」
嶋木は大声で呼びかけた。
「ご主人ですか?救急車に一緒に乗って下さい」
奈美は顔を少し横に向け、仰向いて寝かされていた。その顔には苦悶の表情は無く、何か大きな仕事を一つし終わって、身体を投げ出して眠っているような、何処か安らかな表情が見て取れた。
奈美の身体を収容し、嶋木が乗り込むと同時に、救急車はサイレンを鳴らして走り出した。病院までの短い距離を閉ざされた車の中で、嶋木はじっと昏睡している奈美の顔を見詰めていた、が、知らぬ間に涙が滲んでいた。
「奈美、死ぬなよ、死ぬんじゃないぞ!奈美!」
嶋木の叫び声が救急車のけたたましいサイレンンに虚しく掻き消された。
奈美が「お邪魔します」と他人行儀な声をかけて、今年も嘗て我が家だったマンションを訪れた。奈美は、美幸が死んで以来、毎年、祥月命日とお盆、春秋の彼岸の中日には必ず仏を拝みに来ていた。
「美幸は私の子でもありますからね」
疎ましい顔を向ける嶋木にそう言って奈美は仏前に跪いた。大きな仏壇がリビングの奥の和室に設えられていた。
華を活け替え、蝋燭に灯を燈し、線香を立て、小さな鐘をチーンチーンと鳴らして、奈美は合掌した。美幸が大好きだったチョコレートケーキも供えた。
「ご免ね、美幸、ご免ね、ママを許して、ね。迷わず成仏してね」
奈美は無言で長い間、掌を合わせた。
やがて、数珠をバッグに収めた奈美が、背後に無言で座っている嶋木に向き直って真直ぐに彼を見た。嶋木には、奈美が少し太って顔の色艶も良く、若返ったように見えた。嶋木の心にその若返りを憎む気持が少し動いた。
「今日は少し話が有るの、聞いて貰えるかしら」
眼を上げた嶋木の顔に、何を今更・・・という表情が浮かんだ。
嶋木の胸は奈美と面と向き合うと逆立った。独りで飲む酒の中で、奈美のことを思う時ほど素直になれなかった。初めて手に入れた自分の血を引いた一人娘の美幸を突然に失ったことが、胸が張り裂けるほどに哀しく、煮え滾るほどに腹立たしかった。嶋木は奈美と向き合うと何時もその感情に苛まれた。嶋木自身、自分で自分の気持を制御し切れなかった。
「あなたには少し言い難い話なのだけれど、わたし今、再婚の話があるの。相手は同じ会社に勤める電気工事の職人で真面目で実直な人なの。でも、わたし、どうしても決心が着かなくて迷っているの。それで、一度あなたに話してからと思って・・・」
嶋木は、心の中に不意に大きな穴が開いて、その暗い穴を今まで感じたことの無い淋しいものが吹き抜けるのを感じた。だが、その気持を捩じ伏せるように大仰に言った。
「そりゃあ結構じゃないか!」
奈美が嶋木をじっと凝視した。
「真実にそう思うの?わたしがあなたとは別の人の奥さんになっても、それで良いの?」
「それは他人の俺が、今更とやかく言う話じゃない、お前の勝手だよ」
「他人じゃないわ、わたし達は未だ夫婦なの!離婚届は出してないの、わたしが預かってずうっと持っていたの」
嶋木は足を崩して胡坐をかいた、が、頑なに押し黙って視線を向けなかった。
奈美が深い溜め息をついた。
「あの時、美幸が死んだ時にあなたとの縁は切れてしまったのね」
奈美の声はしんみりと湿っていた。
「あなたは未だ私を憎んでいるのね」
「憎んでなんかいないよ、もう!」
「わたしは、あなたが許してくれさえしたらと思い続けていたんだけど、やっぱり駄目だったのね」
不意に声が途切れ、奈美はハンカチを取り出して目頭を拭った。
「わたしは今でもあなたと一緒に生きたいのに・・・」
嶋木の胸に奈美に対する哀れみが波立ち、溢れるほどに拡がった。だが、彼はじっと座ったまま黙り込んでいた。
奈美も暫く目線を伏せてじっと動かなかった、が、やがて決心が着いたかのように立ち上がると「お邪魔したわね」と言って、出て行った。
奈美の帰り去る足音や玄関ドアの閉まる音を聞きながら、嶋木は何か大事なものをまた一つ失ったような気がした。
奈美は駅への大通りを重い足取りで、眼を伏せて歩いた。
美幸のことを片時も忘れたことは無い、だから心の傷が癒えることは無いだろう。だが、三年の歳月が流れて、あの人の心も少しは溶け始めているかと一縷の望みを託したが、駄目だった。三年前と少しも変わらず堅い殻の中に固まったままだった。奈美は、この先、自分が再婚したら、それでもう完全に嶋木との繋がりは切れてしまうだろうことをはっきり悟った。奈美の胸の中に深い悲しみの波が大きく拡がった。
ふと顔を上げた奈美の眼に、大通りの向こうから白いRV車が、大きな走音をたててかなりのスピードで走って来るのが見えた。
と、その時、細い十字路から小学四、五年生の男の子が、左手に母親から買って貰ったばかりの新品のグローブを填め、嬉々としてスキップしながら飛び出して来た。
「危ない!」
奈美は大声を挙げ、次の瞬間、両腕で男の子を薙ぎ払うような恰好で彼に体当たりした。
男の子は歩道側に数メートルふっ飛んで民家の前に倒れ伏した。
「耕一!」
後方で子供の名前を絶叫する母親の声がした。
奈美は体当たりした一瞬の分だけ逃げ遅れた。車の左前部に撥ねられた奈美の身体は二、三メートル後ろに撥ね上がり、街灯の太い鉄柱に背中から激突して横たわった。急ブレーキの音を軋ませてRV車が停止した。奈美は昏倒してそれっきり動かなかった。
忽ち、人が集まり、誰かが救急車を呼んだ。
奈美が出て行って十分も経たぬ内に嶋木のリビングの電話が鳴った。
「もしもし、嶋木ですが・・・」
「嶋木さんですか、ご主人ですか?」
電話の声は慌しく切迫していた。
「はい、そうですが・・・」
「今、奥さんが、奈美さんが車に撥ねられました、直ぐに来て下さい」
場所を聞いた嶋木は靴を突っ掛け、玄関ドアの自動ロックを後手に閉めて、走り出した。
息を喘がせて駅への大通りを走る嶋木の視線の先に、人だかりが見えた。救急車の紅いライトが回っていた。あそこだ!
走り着いた嶋木は人を掻き分けて前に出た。
丁度、奈美の身体が担架に乗せられて救急車の中へ運び込まれるところだった。
「奈美!奈美!」
嶋木は大声で呼びかけた。
「ご主人ですか?救急車に一緒に乗って下さい」
奈美は顔を少し横に向け、仰向いて寝かされていた。その顔には苦悶の表情は無く、何か大きな仕事を一つし終わって、身体を投げ出して眠っているような、何処か安らかな表情が見て取れた。
奈美の身体を収容し、嶋木が乗り込むと同時に、救急車はサイレンを鳴らして走り出した。病院までの短い距離を閉ざされた車の中で、嶋木はじっと昏睡している奈美の顔を見詰めていた、が、知らぬ間に涙が滲んでいた。
「奈美、死ぬなよ、死ぬんじゃないぞ!奈美!」
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