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第七章 バーテンダー嶋木
⑦嶋木、憤怒で荒れ狂う
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美幸の葬儀が終わるまで、嶋木は奈美に一言も口を聞かなかった。
「申し訳ありませんでした」と何度も詫びた安子にも、険しい一瞥を呉れただけで返事もしなかった。一緒に溺れた紗智子が助かり、娘の美幸だけが死んだことが腹立たしかった。それが不条理な怒りであることは嶋木にも十重解かっていたが、胸の中に渦巻く、何もかも一緒くたになった憤りの中で、嶋木自身どうしようもなかった。彼は異様に堅い殻の中へ自分を閉じ込めてしまったようだった。
嶋木が奈美にものを言ったのは、それから更に半月も経った後だった。
或る深夜、嶋木はへべれけに酔って帰った。そして、玄関を入ってホールに上がるとそのままうつ伏せに潰れてしまった。酒場勤めの嶋木が酒を飲んで酔って帰って来ることはそれまで無かった。
「あなた」
何時までも動かない嶋木を見ながら、奈美は側に跪いて途方に暮れた。
「そんな所に寝て居ないで、中に入ってよ、ね」
地域の地蔵盆が間近い頃であったが、未だ未だ暑さは厳しかった。その日は一日中蒸し暑く、エアコンの届かない玄関ホールは其処に居るだけで汗が滲み出てくる程だった。
「あなた」
「触るな!」
嶋木の肩に伸ばした奈美の手を邪険に振り払って、徐に、四つん這いのままリビングに入り、そのまま長椅子に寝そべった。
奈美がリビングに入ると、嶋木は寝返りを打って背を向けた。
不機嫌の塊である厳つい背中に向かって座った奈美は、掌を膝の上に握り締めて恐々ながらに言った。
「ごめんなさい、真実にごめんなさい!」
「・・・・・」
「あなたが怒っているのは良く解かっているの。どんなに怒られても仕方の無いことだと思っているの。でも・・・」
奈美は声を詰まらせて啜り上げた。
「でも、わたしも辛いのよ。美幸は二人の子供だし、毎日、悲しくて、辛くて・・・」
「利いた風な口を叩くな!」
背中を向けたまま、嶋木は吐き捨てるように言った。
「やっぱり未だ、怒っているのね」
「・・・・・」
「それなら、ちゃんと言ってよ。ものも言わずにただ頑なにそうして居られるのが一番辛いわ。こんな蛇の生殺しみたいな状態よりも、いっそ、殴られる方が未だ増しよ」
不意に嶋木が起き上がって、充血した眼で疎ましそうに奈美を見た。突き放した冷たい眼だった。その視線に奈美はぞっとした。夫との間に、これまでに無かった埋めようの無い深い谷間が出来ている気がした。
「わたしを憎んでいるのね」
奈美は叫んだ。
「そんなに憎いのなら、いっそのこと、一思いに殺してよ」
「何だと、このアマ!」
嶋木は突き上げてきたものに揺り動かされたように、いきなり奈美の胸倉をきつく掴まえた。嶋木は喘ぎながら言った。
「俺の大事な初めての独り娘を死なせよって、しかも碌でも無いお喋りに夢中になりよって、な!」
「だから、わたしが悪かったって謝っているでしょう。許せないのならあなたの気の済むようにしてよ、ね」
「許せ、だと!」
嶋木はいきなり奈美の頬を平手で張った。
奈美は「ひいっ」と声を発したが、逃げはしなかった。
嶋木は、一度手を上げた後は、それまで身体の中で荒れ狂っていたものが急に出口を見出した奔流のように一気に溢れ出すのを感じた。
嶋木を眼も眩むような憤怒が襲っていた。
「よくもしゃあしゃあと生きていられるな、このアマ!」
突き飛ばされた奈美の身体が軽々と窓際まで飛んで行った。嶋木の怒りは倍加した。
「畜生!美幸を連れ戻して来い、今直ぐ此処へ連れて来い!そしたら許してやるよ!」
立ち上がった嶋木は奈美を足で蹴り、髪を掴んで引きずり回した。奥の和室へ続く引き戸が外れ、食器棚がガタガタと揺れたが、もう嶋木はそんなことは耳目に無かった。這って入口の方へ逃げようとする奈美を引き戻し、また目茶苦茶に顔を殴った。
漸く嶋木が手を止めた時、奈美は襤褸切れのように部屋の隅に倒れていた。着ていた服は裂け破れ、頬は充血して腫れ上がり、唇が切れて血が流れ、鼻血が垂れていた。
「殺してよ!」
奈美が床に顔をうつ伏せたまま叫んだ。
「そんなに憎かったら、ほんとうに殺してよ!」
目尻から流れ出る涙がぽたぽたと床を濡らした。
嶋木は立ったまま奈美を眺めていたが、もう一度腰の辺りを蹴飛ばすと、荒々しい足音を残して部屋を出て行った。その夜、奈美は熱を出したが、嶋木は一度も顔を出さなかった。高い熱に浮かされながら、奈美は糸のように細い二人の絆を見詰め続けた。
それが始まりだった。嶋木は素面の時には一言も口をきかなかったし、酔って帰って来ると奈美を半殺しの目にあわせた。
奈美は頬が扱け、眼だけが大きくなって、時々、寝込むようになった。
嶋木の夜中に暴れる様は隣や向いの住人にも聞こえ、誰もが昼間の奈美に恐怖の苦情を言い、憐憫の表情を見せた。
ママ友の安子が痛ましそうに奈美を見て言った。
「でも、そんな目にあわされてどうして一緒に居るの?お母さんも未だ健在なのだし、別れた方が良いんじゃないの?あの人、もう見込み無いよ、あれじゃ」
「安子さん」
奈美は肉が落ちて痩せ細った顔に淋しげな微笑を浮かべて眼を伏せた。
「仕方が無いのよ、美幸を死なせたのは私なんだから。無視して、叩いて殴って蹴って、それであの人の気が済むのなら、それはそれで良いの。その時だけは二人は夫婦なんだもの。閼伽の他人だったら叩いたり殴ったりはしないでしょ、だから・・・」
安子は何も言えず、溜め息をもらして、少し涙ぐんだ。
マンションの住人達が見るに見兼ねるようになった頃、奈美の母親がその後の様子を見にやって来た。奈美の貌を一目見た母親は驚愕した。彼女の決断と処置は素早かった。この母にこんな強さが在ったのかと奈美が驚くほど、母親は力強かった。嶋木に対して一歩も怯まなかった。直ぐに二人を別れさせ奈美を実家に引取った。別離際に嶋木が無言で奈美に離婚届を手渡した。夫の欄に嶋木の署名と捺印が有った。
嶋木は酔客と戯れて仕事をしている間は気が紛れた。だが、仕事が終わって一息つくと、美幸を亡くした哀しみと奈美への憤怒が一気に噴出して嶋木の胸に拡がった。彼は翌朝までしたたかに飲み、酔っ払った。酒場を梯子して酩酊し、誰彼構わず突っ掛かっては喧嘩をしたりもした。 ある未明、嶋木はパトカーに押し込められるようにして留置場へ連れて行かれ、住んでいる場所や名前を尋ねられてもむっつりと押し黙って答えなかったので、一日留め置かれた。
夕方、しこたま説教を喰った嶋木は調書を取られて釈放された。
「俺は一体何をしているんだ? 馬鹿じゃないか!」
酔いの覚めた嶋木は自嘲気味に頬を歪めた。
美幸が死んだことで、自ら信じて築こうとした家庭と家族を失った嶋木は、心に張りを無くして無気力な毎日を過ごした。
「申し訳ありませんでした」と何度も詫びた安子にも、険しい一瞥を呉れただけで返事もしなかった。一緒に溺れた紗智子が助かり、娘の美幸だけが死んだことが腹立たしかった。それが不条理な怒りであることは嶋木にも十重解かっていたが、胸の中に渦巻く、何もかも一緒くたになった憤りの中で、嶋木自身どうしようもなかった。彼は異様に堅い殻の中へ自分を閉じ込めてしまったようだった。
嶋木が奈美にものを言ったのは、それから更に半月も経った後だった。
或る深夜、嶋木はへべれけに酔って帰った。そして、玄関を入ってホールに上がるとそのままうつ伏せに潰れてしまった。酒場勤めの嶋木が酒を飲んで酔って帰って来ることはそれまで無かった。
「あなた」
何時までも動かない嶋木を見ながら、奈美は側に跪いて途方に暮れた。
「そんな所に寝て居ないで、中に入ってよ、ね」
地域の地蔵盆が間近い頃であったが、未だ未だ暑さは厳しかった。その日は一日中蒸し暑く、エアコンの届かない玄関ホールは其処に居るだけで汗が滲み出てくる程だった。
「あなた」
「触るな!」
嶋木の肩に伸ばした奈美の手を邪険に振り払って、徐に、四つん這いのままリビングに入り、そのまま長椅子に寝そべった。
奈美がリビングに入ると、嶋木は寝返りを打って背を向けた。
不機嫌の塊である厳つい背中に向かって座った奈美は、掌を膝の上に握り締めて恐々ながらに言った。
「ごめんなさい、真実にごめんなさい!」
「・・・・・」
「あなたが怒っているのは良く解かっているの。どんなに怒られても仕方の無いことだと思っているの。でも・・・」
奈美は声を詰まらせて啜り上げた。
「でも、わたしも辛いのよ。美幸は二人の子供だし、毎日、悲しくて、辛くて・・・」
「利いた風な口を叩くな!」
背中を向けたまま、嶋木は吐き捨てるように言った。
「やっぱり未だ、怒っているのね」
「・・・・・」
「それなら、ちゃんと言ってよ。ものも言わずにただ頑なにそうして居られるのが一番辛いわ。こんな蛇の生殺しみたいな状態よりも、いっそ、殴られる方が未だ増しよ」
不意に嶋木が起き上がって、充血した眼で疎ましそうに奈美を見た。突き放した冷たい眼だった。その視線に奈美はぞっとした。夫との間に、これまでに無かった埋めようの無い深い谷間が出来ている気がした。
「わたしを憎んでいるのね」
奈美は叫んだ。
「そんなに憎いのなら、いっそのこと、一思いに殺してよ」
「何だと、このアマ!」
嶋木は突き上げてきたものに揺り動かされたように、いきなり奈美の胸倉をきつく掴まえた。嶋木は喘ぎながら言った。
「俺の大事な初めての独り娘を死なせよって、しかも碌でも無いお喋りに夢中になりよって、な!」
「だから、わたしが悪かったって謝っているでしょう。許せないのならあなたの気の済むようにしてよ、ね」
「許せ、だと!」
嶋木はいきなり奈美の頬を平手で張った。
奈美は「ひいっ」と声を発したが、逃げはしなかった。
嶋木は、一度手を上げた後は、それまで身体の中で荒れ狂っていたものが急に出口を見出した奔流のように一気に溢れ出すのを感じた。
嶋木を眼も眩むような憤怒が襲っていた。
「よくもしゃあしゃあと生きていられるな、このアマ!」
突き飛ばされた奈美の身体が軽々と窓際まで飛んで行った。嶋木の怒りは倍加した。
「畜生!美幸を連れ戻して来い、今直ぐ此処へ連れて来い!そしたら許してやるよ!」
立ち上がった嶋木は奈美を足で蹴り、髪を掴んで引きずり回した。奥の和室へ続く引き戸が外れ、食器棚がガタガタと揺れたが、もう嶋木はそんなことは耳目に無かった。這って入口の方へ逃げようとする奈美を引き戻し、また目茶苦茶に顔を殴った。
漸く嶋木が手を止めた時、奈美は襤褸切れのように部屋の隅に倒れていた。着ていた服は裂け破れ、頬は充血して腫れ上がり、唇が切れて血が流れ、鼻血が垂れていた。
「殺してよ!」
奈美が床に顔をうつ伏せたまま叫んだ。
「そんなに憎かったら、ほんとうに殺してよ!」
目尻から流れ出る涙がぽたぽたと床を濡らした。
嶋木は立ったまま奈美を眺めていたが、もう一度腰の辺りを蹴飛ばすと、荒々しい足音を残して部屋を出て行った。その夜、奈美は熱を出したが、嶋木は一度も顔を出さなかった。高い熱に浮かされながら、奈美は糸のように細い二人の絆を見詰め続けた。
それが始まりだった。嶋木は素面の時には一言も口をきかなかったし、酔って帰って来ると奈美を半殺しの目にあわせた。
奈美は頬が扱け、眼だけが大きくなって、時々、寝込むようになった。
嶋木の夜中に暴れる様は隣や向いの住人にも聞こえ、誰もが昼間の奈美に恐怖の苦情を言い、憐憫の表情を見せた。
ママ友の安子が痛ましそうに奈美を見て言った。
「でも、そんな目にあわされてどうして一緒に居るの?お母さんも未だ健在なのだし、別れた方が良いんじゃないの?あの人、もう見込み無いよ、あれじゃ」
「安子さん」
奈美は肉が落ちて痩せ細った顔に淋しげな微笑を浮かべて眼を伏せた。
「仕方が無いのよ、美幸を死なせたのは私なんだから。無視して、叩いて殴って蹴って、それであの人の気が済むのなら、それはそれで良いの。その時だけは二人は夫婦なんだもの。閼伽の他人だったら叩いたり殴ったりはしないでしょ、だから・・・」
安子は何も言えず、溜め息をもらして、少し涙ぐんだ。
マンションの住人達が見るに見兼ねるようになった頃、奈美の母親がその後の様子を見にやって来た。奈美の貌を一目見た母親は驚愕した。彼女の決断と処置は素早かった。この母にこんな強さが在ったのかと奈美が驚くほど、母親は力強かった。嶋木に対して一歩も怯まなかった。直ぐに二人を別れさせ奈美を実家に引取った。別離際に嶋木が無言で奈美に離婚届を手渡した。夫の欄に嶋木の署名と捺印が有った。
嶋木は酔客と戯れて仕事をしている間は気が紛れた。だが、仕事が終わって一息つくと、美幸を亡くした哀しみと奈美への憤怒が一気に噴出して嶋木の胸に拡がった。彼は翌朝までしたたかに飲み、酔っ払った。酒場を梯子して酩酊し、誰彼構わず突っ掛かっては喧嘩をしたりもした。 ある未明、嶋木はパトカーに押し込められるようにして留置場へ連れて行かれ、住んでいる場所や名前を尋ねられてもむっつりと押し黙って答えなかったので、一日留め置かれた。
夕方、しこたま説教を喰った嶋木は調書を取られて釈放された。
「俺は一体何をしているんだ? 馬鹿じゃないか!」
酔いの覚めた嶋木は自嘲気味に頬を歪めた。
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