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第七章 バーテンダー嶋木
⑤「俺達ちゃんと籍を入れて夫婦になろう、な、奈美」
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「ねえ」
奈美が甘い声を出した。
「何だよ」
奈美が改まった表情で嶋木に告げた。
「あんたの子供がお腹の中に宿ったの。産婦人科で診て貰ったら、間違い無い、って・・・この間からずうっと身体の調子が悪かったのは身籠った悪阻の所為だったの」
「えっ、真実なのか?」
嶋木は驚きのあまり言葉が継げなかった。
まさか、俺の子供があいつの腹の中に・・・
嶋木は焦点の定まらぬ視線を宙に泳がせた。が、それ切り何も言わなかった。
一週間の時間が流れ過ぎた。
店が休みの日の夕方、嶋木が一枚の紙切れを奈美に差し出した。それは夫の欄に署名捺印した婚姻届だった。
奈美が問い質す面持ちで嶋木を見た。
「生まれてくる子供を私生児にする訳にも行かんだろう。俺たちちゃんと籍を入れて夫婦になろう、な、奈美」
「えっ!」
思いもしなかった嶋木の言葉に、奈美は言葉が出なかった。
てっきり子供を堕すか別離話が持ち出されるものだと、半ば覚悟を決めていた奈美は、一瞬、息を呑んで眼を見張った。
「お前も他人がテレビを観たり眠ったりする時間に働く今の仕事を好きでやっている訳ではないだろう。若い頃は普通のOLになってその後は然るべき家庭に入るのを夢見ていたんじゃないのか?生活の方は俺が何とかするから心配するな。お前も俺ももういい歳だし、今がちゃんとした形にするチャンスだと思うが、どうだ、俺と一緒に二人で生きて行く気は無いか?」
奈美は眼を大きく見開いてまじまじと嶋木の顔を凝視した。その眼から見る見る大粒の涙が溢れ出した。流れる涙を拭いもせずに奈美は肩を振るわせた。
「私のような女で良いの?」
「ああ、お前が良いんだよ」
「真実に私で良いのね」
「ああ」
奈美が嶋木に全身でしがみついて来た。
奈美は泣いた。二十歳から夜の泥水の中で、虚勢を張って独りで突っ張って生きて来たこの五年間の辛苦を、全て吐出するかのように泣き続けた。声を殺し両手で顔を蔽って嗚咽する奈美の背中を抱きながら、嶋木は、こいつもこれほどまでに普通の結婚生活を望んで居たんだ、こいつと二人でもう一度生き直してみよう、と心に決めた。
その年の秋、街路樹が紅く色着き始めた頃に、嶋木と奈美は結婚した。
そして、一年後に長女が生まれた。
夫婦の仲は極めて円満で子供中心の幸せな毎日が続いた。
嶋木は早く自分の店を開いて独立しようと仕事に精を出したし、奈美は仕事を辞めて、育児と家事に専念した。それは、子供が中学校に入るまでは奈美自身の手で育ててやって欲しいと言う嶋木のたっての願いだった。長女は美幸と名付けられ、眼が細く色白で、小さな可愛い口元は母親の奈美そっくりだった。俺に似なくて良かった、と嶋木は屈託無く笑った。二人は美幸を可愛がり、とりわけ、嶋木は溺愛した。おむつを取り換え、風呂に入れ、美幸が二歳になると休日の晴れた日には、近くの公園に連れ出して仕事に出かける夕暮れまで美幸を遊ばせた。美幸が片言を喋り始めると、アオ、アカ、パパ、ママ、エキ、エビ等々の二文字言葉を教え、その内に、パパあっぽ、などと言われて相好を崩して爆笑したりした。
だが、幸せは長くは続かなかった。美幸が四歳になった夏に突然の不幸が一家を襲った。
その日、奈美はママ友の安子と夫々の子供達を連れて海水浴に出かけた。八月の初旬で海水浴には少し遅い時期であったが、安子の実家が営む民宿で一泊するという計画だったのと、平日でそう混雑することを心配する必要も無かったこともあって、母親二人と子供三人は嬉々として出かけて行った。
出掛けに美幸はマンションの玄関口で
「パパ、行って来るね。賢くお留守番していてね」
と満面の笑顔で手を振った。
奈美が甘い声を出した。
「何だよ」
奈美が改まった表情で嶋木に告げた。
「あんたの子供がお腹の中に宿ったの。産婦人科で診て貰ったら、間違い無い、って・・・この間からずうっと身体の調子が悪かったのは身籠った悪阻の所為だったの」
「えっ、真実なのか?」
嶋木は驚きのあまり言葉が継げなかった。
まさか、俺の子供があいつの腹の中に・・・
嶋木は焦点の定まらぬ視線を宙に泳がせた。が、それ切り何も言わなかった。
一週間の時間が流れ過ぎた。
店が休みの日の夕方、嶋木が一枚の紙切れを奈美に差し出した。それは夫の欄に署名捺印した婚姻届だった。
奈美が問い質す面持ちで嶋木を見た。
「生まれてくる子供を私生児にする訳にも行かんだろう。俺たちちゃんと籍を入れて夫婦になろう、な、奈美」
「えっ!」
思いもしなかった嶋木の言葉に、奈美は言葉が出なかった。
てっきり子供を堕すか別離話が持ち出されるものだと、半ば覚悟を決めていた奈美は、一瞬、息を呑んで眼を見張った。
「お前も他人がテレビを観たり眠ったりする時間に働く今の仕事を好きでやっている訳ではないだろう。若い頃は普通のOLになってその後は然るべき家庭に入るのを夢見ていたんじゃないのか?生活の方は俺が何とかするから心配するな。お前も俺ももういい歳だし、今がちゃんとした形にするチャンスだと思うが、どうだ、俺と一緒に二人で生きて行く気は無いか?」
奈美は眼を大きく見開いてまじまじと嶋木の顔を凝視した。その眼から見る見る大粒の涙が溢れ出した。流れる涙を拭いもせずに奈美は肩を振るわせた。
「私のような女で良いの?」
「ああ、お前が良いんだよ」
「真実に私で良いのね」
「ああ」
奈美が嶋木に全身でしがみついて来た。
奈美は泣いた。二十歳から夜の泥水の中で、虚勢を張って独りで突っ張って生きて来たこの五年間の辛苦を、全て吐出するかのように泣き続けた。声を殺し両手で顔を蔽って嗚咽する奈美の背中を抱きながら、嶋木は、こいつもこれほどまでに普通の結婚生活を望んで居たんだ、こいつと二人でもう一度生き直してみよう、と心に決めた。
その年の秋、街路樹が紅く色着き始めた頃に、嶋木と奈美は結婚した。
そして、一年後に長女が生まれた。
夫婦の仲は極めて円満で子供中心の幸せな毎日が続いた。
嶋木は早く自分の店を開いて独立しようと仕事に精を出したし、奈美は仕事を辞めて、育児と家事に専念した。それは、子供が中学校に入るまでは奈美自身の手で育ててやって欲しいと言う嶋木のたっての願いだった。長女は美幸と名付けられ、眼が細く色白で、小さな可愛い口元は母親の奈美そっくりだった。俺に似なくて良かった、と嶋木は屈託無く笑った。二人は美幸を可愛がり、とりわけ、嶋木は溺愛した。おむつを取り換え、風呂に入れ、美幸が二歳になると休日の晴れた日には、近くの公園に連れ出して仕事に出かける夕暮れまで美幸を遊ばせた。美幸が片言を喋り始めると、アオ、アカ、パパ、ママ、エキ、エビ等々の二文字言葉を教え、その内に、パパあっぽ、などと言われて相好を崩して爆笑したりした。
だが、幸せは長くは続かなかった。美幸が四歳になった夏に突然の不幸が一家を襲った。
その日、奈美はママ友の安子と夫々の子供達を連れて海水浴に出かけた。八月の初旬で海水浴には少し遅い時期であったが、安子の実家が営む民宿で一泊するという計画だったのと、平日でそう混雑することを心配する必要も無かったこともあって、母親二人と子供三人は嬉々として出かけて行った。
出掛けに美幸はマンションの玄関口で
「パパ、行って来るね。賢くお留守番していてね」
と満面の笑顔で手を振った。
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