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相良武有

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第七章 バーテンダー嶋木

④老婦人の急逝

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 ここ十日ほどの間、嶋木はリハビリセンターで桐島美禰を見かけなかった。
今日も来ていないのかな、と思いつつセンターに入って行った嶋木に、彼女が明るい笑顔を向けて手を振った。
「暫くお見受けしませんでしたけど、具合でも悪かったんですか?」
「夏風邪を引いちゃいましてね、四日ほど寝ていましたのよ」
「道理で、姿が見えなかった筈だ。それで、もう起き上がっても良いんですか?」
「ええ、大丈夫よ。ほら、この通り元気でしょ」
「無理せずにもう少し我慢して、完全に治るまで寝ていれば良かったんじゃないですか」
「わたし、もう寝るのは飽き飽きしているの」
「そうでしたね、桐島さんは三月以上も寝て居られたんでしたね」
「そうですよ」
二人は声を出して笑い合った。
 だが、暫くしてまた、霧島美禰の姿を見かけなくなった。
季節の移ろいは早かった、既に秋になっていた。晴れた日には空が青く澄みわたって頬を撫でる風が心地良い。
今日は見えているかな、と思いつつリハビリセンターへ入って行ったが、老婦人の姿はその日も見かけることはなかった。あれ以来、既にもう一月以上も顔を見かけていない。具合でも悪いんじゃないか、ひょっとしてリハビリの時間帯を変えたのかも知れない、だから逢わなくなったんじゃないか、嶋木は色々と考えを巡らせて桐島美禰のことを思った。
 
 季節は駆け足で通り過ぎて行った。既に晩秋になっていた。冷える日には朝晩に霜の降りる日もある。老婦人は今日も来ていなかった。本当に具合が悪いんじゃないだろうか、嶋木は気が気ではなかった。
 確か、自宅は病院から少し北へ上がった大通りに面した美容室だと言っていたな、嶋木はリハビリを終えた晴れた日に、見舞いがてら、老婦人を尋ねることにした。
 漸く医師から乗ることを許された車をゆっくり走らせて、左右を覗き込みながら見当をつけた辺りを周ると、捜す家は直ぐに見つかった。閑静な住宅街の広い通りの四つ角に、瀟洒な白い三階建てのビルが在った。一階が美容室で二階と三階が居宅のようである。広い入口のガラス扉の横に、「桐島美容室」という草書体の黒文字のネームプレートが掲っていた。それは白い壁と好対照であった。扉の向こうには、四、五人の女性が客を相手に忙しく立ち働いているのが見えた。
嶋木は車を近くの一時預けの駐車場に入れて、そこから歩いて美容室を訪ねた。
 訪いを乞うた嶋木に若い女性スタッフが応対した。
「病院のリハビリでお世話になっている嶋木と言う者ですが、桐島美禰さんは居らっしゃいますか?」
「少々お待ち下さいませ、今、先生をお呼びしますから」
丁度その時、奥から五十年輩の女性が客を送り出して、出て来た。
「有り難うございました」
零れる笑顔で深く腰を折って客を見送った。
それから、先生と呼ばれたその女性が嶋木の方へ顔を向けた。
顔には年齢相応の小さな皺が刻まれていたが、足首まで隠れるロングスカートは腰高の女性に良く似合い、彼女は十分に美しかった。
嶋木は老婦人との関りとその経緯を簡略に説明した。
頷きながら聞いていた女性が丁寧に礼を言った。
「母から聞いていました。いつも明るく励まして下さる若い方が居らして、とても元気を頂くんだって、そう言ってました。真実に有難うございました」
それから、彼女は、ぽつんと一言続けた。
「母は先日亡くなりましたの」
「えっ!」
思いもせぬ話に嶋木は次の言葉が継げなかった。
「二ヶ月ほど前に風邪を引いて暫く寝たんですが、一度良くなってリハビリにも通ったんです。ところが或る朝、大層寝汗をかいて、ベッドのシーツにまで染み通るほどの大汗をかいて、それから風邪を拗らせてどんどん悪くなって・・・」
女性は不意に声を詰まらせて、慌ててハンカチで眼を拭った。
「急性肺炎で先日呆気無く亡くなりました」
「未だお若かったでしょうに。確か、古希を過ぎたばかりと伺っていましたが・・・」
「はい、七十七歳でしたから」
嶋木は、わたしにも未だ未だやりたい事も行きたい所も見たい物も沢山ありますからね、と微笑った老婦人の言葉を思い出して、さぞ無念だったろうな、と胸が痛んだ。
こんなことになるんだったら、もっと速く見舞うんだったな、と嶋木は悔やんだ。
 
 美容室を後にした嶋木は駐車場に向かってゆっくりと歩いた。あの人はこの道を歩いて病院へ通うのが当面の夢だったんじゃなかろうか、とふと思った。顔を紅潮させ懸命に頑張りながらも屈託無く笑った老婦人の姿が眼に浮かんだ。
嶋木の心は沈んだ。
「嶋木さん。何時も元気に親身になって励まして頂いて、私は貴方に感謝していますよ。それに、この天国では独りで自分の足でちゃんと歩けているわよ、ほら。だから貴方もこれからの人生を地に足をしっかりつけて真直ぐに歩いて行って頂戴ね」
老婦人の声が聞こえた気がした。嶋木は通りを見透かしたが、辺りには誰も居なかった。晩秋の日射しが道を白く染めているだけだった。
嶋木の目が潤んで足元の道がぼやけて見えた。
遠くで病院へ向かう救急車のサイレンが聞こえた。嶋木は思いを吹っ切るように足を速めて歩き出した。
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