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第五章 同級生、印刻師の菅原
⑩菅原と由紀の出逢い
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仕事が定時に終わった秋の夕暮れ、菅原が帰りに立ち寄った駅の近くの書店で二人はばったり出逢った。新刊コーナーで何か読めるものを探していた由紀の横に偶然に立ち止まった菅原が「やあ」と声をかけた。
「君もこの駅からの通勤なの?」
「はい、菅原さんも、ですか?」
「うん。仕事が予定通りに終わったので、この店に立ち寄ったんだが・・・」
二人は暫くそれぞれに書物を探した後、菅原は仕事の技術書を、由紀は新刊小説を買って書店を出た。
「あの、この駅ビルの二階に一寸洒落た喫茶店が有るのだけれど、宜かったらお茶でも喫みませんか?」
断られるかな、と一寸危惧したが、由紀は
「あ、はい。私は構いませんが・・・」
と言って、菅原の後に従いて来た。
二人は喫茶店に入ってお互いの仕事や趣味などについて少し語り合った。
由紀の話し振りは飾り気が無く率直で謙虚であった。日頃得意先の仕入担当者や気難しい職人を相手にテキパキと商品を売り捌く仕事をする女性とは思えないほどその態度はもの静かであったし、自分をひけらかすことも無かった。口数もそれほど多くは無く、菅原の話に誠実に耳を傾け、包み込むような円やかさが在った。
趣味はクラシックと囲碁で、特に、囲碁は子供の頃から父親に連れられて家の近くの碁会所に出入りしていたが、高校で囲碁研究会に入ってからは、病鴻毛に入ってしまった、と恥ずかしそうに微笑んだ。
「若い女性なのに囲碁だなんて珍しいね」
「私は小学生の頃に、大学生の人が囲碁を打っているのを見て格好良いなと思いました。それで、十二歳になった時に父の手解きを受けて碁会所へも通うようになったんです」
その後、高校を卒業するまで日々研鑽に励んで二級まで進んだ、と言う。
「でも、社会へ出てからは毎日仕事に追われて忙しく、最近では週一回打てるか打てないかという状況です。碁会所で月に一回行われるハンディトーナメント戦に毎回参加するのが精一杯なんですよ」
囲碁は「棋道」と言って、技芸の品位と礼儀を重んじるものだ、と由紀は言った。
「対局の相手に不愉快な気持を与えず、勝負は盤上でフェアに競うのが基本です。定石や戦略・戦術も大事ですが、最も重要なのは礼です。礼に始まり、礼に終わる、とも言われます」
話を聞きながら菅原は、この娘は聡明な女性だ、と好感を持った。飾らない率直な由紀の言葉や態度や温かい人柄をも好もしく思った。黒く大きな瞳と色白のふっくらとした頬の、表情豊かな由紀の明るい容貌にも惹かれた。
「菅原さんの趣味は何ですか?」
由紀が直裁に聞いて来た。
「女の人にはいつも爺臭いって眉を顰められるんですが」
菅原はそう前置きして悪びれずに答えた。
「剣道です」
「えっ、剣道ですか?」
「そう、剣道です。君も矢張りダサイと思いますか?」
菅原は由紀の顔を窺うようにしてにっと笑った。
「剣道は人間形成の道なんです。流汗悟道、つまり、汗水流して一生懸命ものごとをやれば、自ずと道は開ける、ということです」
集中力と決断力、責任感と自主精神、相手を尊重する態度、健康と安全、敏捷性と巧緻性、それらを育むのが剣道の狙いなんだ、と菅原は熱っぽく語った。
「気剣体の一致、元気な掛け声、三つの先、隙を打つ、これが、僕が道場で習った教えです」
「三つの先、と言いますと?」
「先の先、対の先、後の先、要は先手必勝ということです」
「隙を打つというのはどういうことでしょうか?」
「心の隙、構えの隙、動きの隙、この三つの隙を突くということだね」
「なるほど、そういうことですか。何か囲碁と通じるものが有るように思いますが・・・」
「稽古は試合の如く、試合は稽古の如く、という道場の教えも有ったよ。日頃稽古する時には試合を意識して真剣に臨み、試合では稽古の時のようにリラックスして余計な力を抜いて戦えば良い結果が導かれる、ということです。尤も僕の場合は、稽古は稽古の如く、試合は試合の如くで、練習にはさっぱり緊張感が無く、試合に及んでは緊張しまくっていたけれどね」
菅原はそう言って快活に笑った。
「勝負には勝つ時もあれば負ける時もあるよね。唯、勝った時も負けた時も、其処で終わってしまっては成長がないから、何故勝ったのか?何故負けたのか?気持はどうだったのか?間合いはどうだったのか?技はどうだったのか?試合を振り返りながらそういったことを反省し、次の工夫に活かし、それを目指して努力する、そういうことが大切だと思うのだが・・・」
日頃の穏やかで寡黙な言動からは隠れて見えない、その中に潜んでいる菅原の矜持の強さを垣間見て、由紀は彼に深い興味と関心と好意を持った。
それから二人はよく逢うようになった。
休日や会社の帰途に食事をしたりコンサートに出かけたりして交際を深め、互いの成長を高め合って行った。
由紀は、菅原の何事からも逃げない、難題にも冷静に対峙していく芯の強さと、少々のことは飲み込んでしまう寛容さと優しさに、その懐の深さに大きな信頼を寄せた。
菅原は由紀の両親にキチンと挨拶をし、由紀を自分の家族に引き合わせもして、二人は愛を確かめ育み合った。
その年の秋、街路樹が紅く色着き始めた頃に、菅原と由紀は結婚した。
由紀はこれからの人生のさまざまな希望や家庭について菅原に語って聞かせた。
寝室には大きめのベッドと三面鏡を並べ、窓には花柄の繻子のカーテンを飾ろう、可愛らしい子供たちには、そう、息子には野球用具を、娘にはピアノを買ってやろう、好きなだけそれで楽しめば良いわ。子供たちが大きくなれば、夫婦揃って映画を見、コンサートに行き、瀟洒なレストランで食事をしよう、そして、出来る限り時間を作って、国内だけでなく広く海外にも旅行に出かけよう。
由紀は人生のあらゆる可能性とその成就を夢に見、優しさと安らぎと勇気を加味して、慈しみと永続感に満ちた期待で菅原を励ました。
「君もこの駅からの通勤なの?」
「はい、菅原さんも、ですか?」
「うん。仕事が予定通りに終わったので、この店に立ち寄ったんだが・・・」
二人は暫くそれぞれに書物を探した後、菅原は仕事の技術書を、由紀は新刊小説を買って書店を出た。
「あの、この駅ビルの二階に一寸洒落た喫茶店が有るのだけれど、宜かったらお茶でも喫みませんか?」
断られるかな、と一寸危惧したが、由紀は
「あ、はい。私は構いませんが・・・」
と言って、菅原の後に従いて来た。
二人は喫茶店に入ってお互いの仕事や趣味などについて少し語り合った。
由紀の話し振りは飾り気が無く率直で謙虚であった。日頃得意先の仕入担当者や気難しい職人を相手にテキパキと商品を売り捌く仕事をする女性とは思えないほどその態度はもの静かであったし、自分をひけらかすことも無かった。口数もそれほど多くは無く、菅原の話に誠実に耳を傾け、包み込むような円やかさが在った。
趣味はクラシックと囲碁で、特に、囲碁は子供の頃から父親に連れられて家の近くの碁会所に出入りしていたが、高校で囲碁研究会に入ってからは、病鴻毛に入ってしまった、と恥ずかしそうに微笑んだ。
「若い女性なのに囲碁だなんて珍しいね」
「私は小学生の頃に、大学生の人が囲碁を打っているのを見て格好良いなと思いました。それで、十二歳になった時に父の手解きを受けて碁会所へも通うようになったんです」
その後、高校を卒業するまで日々研鑽に励んで二級まで進んだ、と言う。
「でも、社会へ出てからは毎日仕事に追われて忙しく、最近では週一回打てるか打てないかという状況です。碁会所で月に一回行われるハンディトーナメント戦に毎回参加するのが精一杯なんですよ」
囲碁は「棋道」と言って、技芸の品位と礼儀を重んじるものだ、と由紀は言った。
「対局の相手に不愉快な気持を与えず、勝負は盤上でフェアに競うのが基本です。定石や戦略・戦術も大事ですが、最も重要なのは礼です。礼に始まり、礼に終わる、とも言われます」
話を聞きながら菅原は、この娘は聡明な女性だ、と好感を持った。飾らない率直な由紀の言葉や態度や温かい人柄をも好もしく思った。黒く大きな瞳と色白のふっくらとした頬の、表情豊かな由紀の明るい容貌にも惹かれた。
「菅原さんの趣味は何ですか?」
由紀が直裁に聞いて来た。
「女の人にはいつも爺臭いって眉を顰められるんですが」
菅原はそう前置きして悪びれずに答えた。
「剣道です」
「えっ、剣道ですか?」
「そう、剣道です。君も矢張りダサイと思いますか?」
菅原は由紀の顔を窺うようにしてにっと笑った。
「剣道は人間形成の道なんです。流汗悟道、つまり、汗水流して一生懸命ものごとをやれば、自ずと道は開ける、ということです」
集中力と決断力、責任感と自主精神、相手を尊重する態度、健康と安全、敏捷性と巧緻性、それらを育むのが剣道の狙いなんだ、と菅原は熱っぽく語った。
「気剣体の一致、元気な掛け声、三つの先、隙を打つ、これが、僕が道場で習った教えです」
「三つの先、と言いますと?」
「先の先、対の先、後の先、要は先手必勝ということです」
「隙を打つというのはどういうことでしょうか?」
「心の隙、構えの隙、動きの隙、この三つの隙を突くということだね」
「なるほど、そういうことですか。何か囲碁と通じるものが有るように思いますが・・・」
「稽古は試合の如く、試合は稽古の如く、という道場の教えも有ったよ。日頃稽古する時には試合を意識して真剣に臨み、試合では稽古の時のようにリラックスして余計な力を抜いて戦えば良い結果が導かれる、ということです。尤も僕の場合は、稽古は稽古の如く、試合は試合の如くで、練習にはさっぱり緊張感が無く、試合に及んでは緊張しまくっていたけれどね」
菅原はそう言って快活に笑った。
「勝負には勝つ時もあれば負ける時もあるよね。唯、勝った時も負けた時も、其処で終わってしまっては成長がないから、何故勝ったのか?何故負けたのか?気持はどうだったのか?間合いはどうだったのか?技はどうだったのか?試合を振り返りながらそういったことを反省し、次の工夫に活かし、それを目指して努力する、そういうことが大切だと思うのだが・・・」
日頃の穏やかで寡黙な言動からは隠れて見えない、その中に潜んでいる菅原の矜持の強さを垣間見て、由紀は彼に深い興味と関心と好意を持った。
それから二人はよく逢うようになった。
休日や会社の帰途に食事をしたりコンサートに出かけたりして交際を深め、互いの成長を高め合って行った。
由紀は、菅原の何事からも逃げない、難題にも冷静に対峙していく芯の強さと、少々のことは飲み込んでしまう寛容さと優しさに、その懐の深さに大きな信頼を寄せた。
菅原は由紀の両親にキチンと挨拶をし、由紀を自分の家族に引き合わせもして、二人は愛を確かめ育み合った。
その年の秋、街路樹が紅く色着き始めた頃に、菅原と由紀は結婚した。
由紀はこれからの人生のさまざまな希望や家庭について菅原に語って聞かせた。
寝室には大きめのベッドと三面鏡を並べ、窓には花柄の繻子のカーテンを飾ろう、可愛らしい子供たちには、そう、息子には野球用具を、娘にはピアノを買ってやろう、好きなだけそれで楽しめば良いわ。子供たちが大きくなれば、夫婦揃って映画を見、コンサートに行き、瀟洒なレストランで食事をしよう、そして、出来る限り時間を作って、国内だけでなく広く海外にも旅行に出かけよう。
由紀は人生のあらゆる可能性とその成就を夢に見、優しさと安らぎと勇気を加味して、慈しみと永続感に満ちた期待で菅原を励ました。
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