クラブ「純」のカウンターから

相良武有

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第五章 同級生、印刻師の菅原

⑦菅原は仕事を確保する為に、独立した昔の先輩職人をも訪ね歩いた

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 版元の商社や問屋を廻るだけでなく、菅原は仕事を確保する為に、独立した昔の先輩職人をも訪ね歩いた。だが、下請仕事くらいなら貰えるだろうと期待した先輩職人の真嶋には、思いの外、厳しく対応された。商売敵は一人でも少ないに越したことは無い、そういう思いがその態度に見え隠れした。
 仕事を呉れないのがはっきり解かった訳だから、菅原は一刻も早く立ち去りたかったが、真嶋の話はねちねちと未だ続いていた。菅原の気持は次第に腹立たしくなった。
「お前はなぁ、俺から見ると少し功を焦ったなあ。独立したって商売と言うものはそう簡単に上手く行くものじゃない。ただ彫っているのとは訳が違うんだ。大通りに大きな店を構えたらしいが、それを聞いた時、俺はぴんと来たね、それは駄目だな、そんなに甘いものじゃ無かろうに、とな」
真嶋は哀れむような視線を菅原に向けた。然し、哀れんでも仕事を呉れる心算など毛頭無いことは次第に蔑むようになる言葉の気配で解かった。
説教はもういいよ、と菅原は思ったが、真嶋は(有)龍鳳印刻堂で仕事を教えて貰った大先輩である。それに仕事を貰いに来た弱みもあって柔らかい微笑で受け止めた。
「仰る通りです。僕が世間を甘く見て弾き返されたんです。未だ未だ青二才だったと言うことです」
「そうだわ、な」
真嶋は肉の薄い顔に嬉しそうな表情を浮かべた。菅原が素直に己の非を認めたのが、そういう表情に繋がったのかも知れなかった。
「お前に説教をする心算は無いが、商売はそう容易いものじゃない。最初は我慢我慢、辛抱辛抱、これに尽きるんだよ」
「はい、ご尤もです」
「お前は腕は良い、否、良過ぎるほどだ。だが、自惚れが有る、過信しちゃ駄目なんだ」
「・・・・・」
真嶋は菅原の非を滑らかな口調で責め続けた。
「お前は惜しいことに、唯我独尊で素直さに欠けている。俺に言わせれば、独立して店を構えるには十年早いよ。寺尾君の件が有ったにしろ、何故もう四、五年ほど(有)龍鳳印刻堂で辛抱しなかったんだ?男の意地や誇りで飯が食えるほど独立は容易くはないんだよ、そんなものは驕りと言うもんだ」
 真嶋は(有)龍鳳印刻堂で十七年余りの修行を積み、一級印刻師のライセンスを取得した後、独立開業した男である。菅原が高校を卒業して採用された時には既に古参の職人頭で、仕事の差配や新人の指導に当たっていた。実直でコツコツと仕事に励む勤勉さで師匠龍鳳には便利だったろうが、菅原にはそれほど腕が良いとは思えなかった。創造性、独創性が無いのが最大の欠点で、それは創作には致命的だ、と菅原は思っていた。あれでよく一級印刻師の認定が得られたものだ・・・。そういう真嶋から見れば才気走ってクリエイティブな菅原は小癪に障るものだったのかも知れなかった。真嶋が菅原に投げかける言葉には、そういう人間が吐き出す毒気が含まれていた。
菅原は、幾ら仕事が欲しかったとは言え真嶋を頼って来たのは間違いだった、と臍を噛んだ。
「ま、これを機会に商売というものをじっくりと勉強するんだな、菅原」
「ええ、そうする心算です」
言いたいことを言って、さすがに少し気が咎めたのか、真嶋は、何処か他を世話して欲しいなら紹介状を書いてやろうか、と言った、が、菅原は丁重に断って外に出た。店の外に出ると地面に向かってペッっと唾を吐いた。
紹介状は喉から手が出るほど欲しかったが、あれだけの御託を並べられた後では頼む気にはなれなかった。それに、書いて貰ったところで、見ず知らずの相手では結果は同じだろうとも思った。恥をかくだけだ!菅原は辛うじて矜持を保った。
 
 日は既にとっぷりと暮れていた。菅原は街灯や家々の門燈或いは居酒屋の提灯やパブの軒灯等に明るく照らされた表通りを、最寄りの私鉄駅へ向かって、暗い沈んだ心を引き摺って俯き加減に歩いた。真直ぐ家に帰る気にはなれなかった。心の憂さは表情に出る、このまま帰れば由紀に心配をかけるだけだ・・・自分の仕事のことで由紀に要らぬ気苦労はさせたくなかった。
 菅原の脚は自然に高校の同級生である嶋木の勤める店の方に向かっていた。
 クラブ「純」のドアを肩先で押して入った菅原を、嶋木がいつもの低い声でカウンター越しに迎えた。
「おう。一人か?」
「ああ、一寸仕事の帰りだから、さ」
「そうか、色々大変なんだな」
菅原はそれには応えずに、カウンターの前の止まり木に腰掛けた。
「奥さんは元気か?」
「ああ、元気だよ、頑張って働いてくれている」
「そうか。で、お前の仕事は上手く行っているのか?」
「上手く、とは言えんが、まあまあ何とかやっているよ」
その時、ドアが開いて男性客が三、四人、どやどやと賑やかに入って来た。彼らは直ぐにカウンターの奥の止まり木に腰かけたので、嶋木は菅原に顔を傾け「ま、ゆっくりして行けよ」と言って、其方の客の方へ歩いて行った。
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