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第五章 同級生、印刻師の菅原

②菅原、初めて一人で創作印を彫る

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 菅原は先ず材料の選定から始めることにした。
象牙や水牛、柘や彩樺等の高級印材も在ったが、楓、桜、椿、山椒、竹、ハナミズキ、ざくろ、茶等の木材類が多く積まれていた。彼はイラストと文字を彫ることを考えて自然木を選ぶことにした。自然木は堅さも形も木肌も全く異なるが、人の手にやさしく手触りが良い。菅原は楓を使うことにした。楓は歪みや割れ等の変形に強く、耐久性に勝れて欠け難いので印鑑に最適の材質であった。
 
 それから次に彫刻刀の選別を始めた。
刃先の幅が異なる、然も後ろにも刃の付いている刀を十二、三種類選び出し、それらを全て研ぐ準備に取り掛かった。機械を使って単一のものを彫るのではないので、後ろにも刃の付いている彫刻刀が入用だったし、通常一週間に一度は研がなければならないものだったので、最初に全部を研ぐことにした。頑張っている少女の為に世界でただ一個の印章を創ろう、機械で彫ればみんな同じ物になってしまう、それでは意味が無い、手で彫れば全く同じ形や絵柄が出来上がることは無い、材料は堅くて手彫りは大変であるが、何とか喜んで貰えるものを創りたい、菅原はそう考えて道具の研磨にも力を注いだ。グリップになる柄の部分の籐がぼろぼろになった彫刻刀や刃が減って来ているものは、籐を自分で巻き直してから研いだ。汗を流して研いでいる菅原の姿を、時折、龍鳳がちらっと見たが、取り立てて何も言わなかった。
 
 翌日、菅原は彫り込む絵柄と文字とデザインを考えた。
余り難易度の高いものは今の自分には上手く彫れそうもないと知っている菅原は、飛翔する鶴と少女の姓名だけを彫ることにした。それも出来るだけシンプルになるようにと考えた。
鶴の絵柄と足立佳純の文字を形や大きさや配置を変えて何枚ものデザインを描いてみたが、今日一日では菅原の満足出来るものは描けなかった。
自宅に持ち帰った菅原はそれらのデザイン画を妹に見せた。
広げられた七、八枚のデザインを見た妹は、真剣な面持ちで暫くの間思案していたが、無造作に、これが良いんじゃない、とその中の二枚を指差した。
「どうしてこれが良いんだ?」
「どうして、って。感じよ、直感よ、わたしのインスピレーションよ。だって、そういうものでしょう、デザインなんていうものは」
菅原がよく見ると、なるほど、鶴の図柄も文字の形も躍動的で頑張る少女にふさわしい感じがした。その躍動感のイメージを基本に菅原は、角印ではなく丸印にしようと決めた。円形の下辺に沿って姓名を草書体で彫り、その上部に鶴が舞っている構図を考えた。飛翔する鶴は、懸命にリハビリを続ける少女にはより相応しいだろうと思った。自分の技能不足を考えて、鶴の図柄と姓名の文字が重ならないようにすることも忘れなかった。幾ら凝った良いデザインでも自分が上手く彫れなければ絵に描いた餅に終わってしまう。
 
 次の日、菅原は師匠の龍鳳に前日考えたデザインの構図を見て貰った。
菅原の話を聞き、ラフデザインをじっと見ていた龍鳳は
「うん、なかなか面白そうじゃないか、これで良いんじゃないか」
と賛同してくれた。序でに、印章の大きさは、この図柄だと直径の長さは四センチくらい要るだろうな、とアドバイスもしてくれた。
 
 楓の木で直径五センチの印材を作った菅原は、愈々、彫りの作業を始めることにした。これまでの二年程の経験で一通りの工順は解かってはいたが、上手く出来るかどうかは極めて不安で自信は無きに等しかった。が、菅原は自分ひとりで、独力で唯やり遂げることだけを考えることにした。窮すれば通じるだろう、と腹を括った。
 
 先ずは「面訂」という作業である。
トクサで印面を平らにする、肉眼ではなかなか確認出来ない程の印面のがたつきをトクサで擦って平に修正する。力を入れ過ぎるときちっとした平面が出ずに歪んでしまって、後の彫刻作業に支障をきたす。経験を積み、勘を掴めばきちんとした水平が出るようになるが、未熟な菅原は何度も何度もやり直さなければならなかった。
「なあ、菅原。ぼちぼちと、な。慌てるんじゃないぞ、じっくりと自分で納得の行く仕事をするんだぞ」
先輩職人がそう言って励ましてくれた。
 
 何とか自分で納得の行く水平が出せた菅原は次に「朱打ち」の作業を始めた。
粗彫りを行う際に筆書きした文字や図柄の線が判り易いように、朱色の墨を印面に均一に塗る作業である。「字入れ」は墨で行うので、この朱色の墨が残った部分を粗彫りで彫って行く訳であるが、印面に均一に墨を打つのはなかなか難しく、菅原は(有)龍鳳印刻堂へ入った頃にはよく師匠に叱られたものだった。
 
 「朱打ち」が終わると次は「字割り」である。
これは、分指しと言う定規のような道具を使って印面に線を引き、文字や絵柄を入れる比率のバランスを決める工程である。全体の印象を左右する重要な作業であった。菅原は文字の密度や全体のバランスを見ながら、最も美しい仕上がりになるように練り上げていった。
 
 文字と絵柄の配置を決めた後は、愈々、「印稿」というデザインを書き入れる作業である。小筆を使って印面に直接文字と絵柄を書いて行く作業であるが、印鑑なので当然ながら左右反転で描かなければならない。この「字入れ」と言う作業の出来が美しくないと、幾ら綺麗に彫ってもなかなか満足出来る手彫り印鑑には成らない。朱墨で何度も修正を重ねながら、菅原は納得行くまでデザインを練り直した。
「字入れ」が完成すると次は「粗彫り」に入るが、菅原は此処までの作業に略一週間近くも掛かってしまった。初めて独りでする仕事は、未熟な技能しか身についていない菅原には殆どが始めてに等しかった。彼は慣れない手つきで懸命に作業を続けた。
 
 翌日から菅原は「粗彫り」の作業に取り掛かった。
墨で手書きした文字と絵柄以外の、朱墨が残った部分を彫る作業である。菅原は文字や絵柄を傷つけないように細心の注意を払いながら、印刀で丁寧に慎重に彫って行った。龍鳳のような一等彫刻師は、それが真骨頂の如く、流麗な刀捌きを冴え渡らせるが、慣れない未熟な菅原は丸一日も費やしてしまった。
 
 漸く粗彫りが終わった後、菅原はもう一度トクサで印面を擦って、一度打った墨を全て落とした。「字入れ」作業の際に何度も墨で修正を重ねたので、印面には墨による凹凸が出来ていたからである。
 面擦りで凹凸を綺麗に修正した菅原は、再度、印面に墨を打った。仕上げ彫りの際に、粗彫りで彫った文字と絵柄の輪郭を確認し易くする為である。これは仕上げ彫りの完成度を高めるのに欠かすことの出来ない作業であった。
 
 さて、愈々、仕上げ刀で文字と絵柄と枠を仕上げる大事な作業である。文字と絵柄に生き生きとした躍動感を生み出し、印刻師が全身全霊で印鑑に生命を吹き込む最も大切な作業である。菅原は僅かコンマ数ミリの微調整を二日の間、続けた。
後ろから覗き込んだ先輩が言った。
「文字と絵柄だけに集中するんじゃなく、枠にも気を配れよ。枠を欠け難くする為に土手を少し厚く仕上げるんだぞ。そうすれば耐久性が高まるからな」
 
 一心不乱に仕上げて漸く納得した菅原は、イメージ通りに仕上がっているかどうかを確認する為に、紙に試し押しをして見た。一応、これで良いだろう、と思って押してみたが、未だ未だ修正を要するポイントが幾つか見つかった。この修正は困難を極めた。根気の要る、精根尽きる気の遠くなるような微調整が又、一日続いた。試し押しを重ねながら、イメージ通りになるまで、何度も仕上げ刀を握って、菅原は自分で納得の出来る完成を目指した。
 漸く最終調整を終えて、これが完成品だ、と思えるものが出来上がった時、菅原の心に、やったあ、という達成感とこれまでに味わったことの無い幸福感が沸々と湧き上がって来た。
 
 印鑑を手に取り、試し押しを見た龍鳳が、う~ん、と唸った。
「良い出来栄えだ、菅原君。君が心血を注いだこの半月間の全てが凝縮されている。草書体の文字は動きのある豊穣な線になっているし、鶴は今にも飛び立たんばかりの息吹に満ちている。誰が見ても素晴しいと思うんじゃないか」
龍鳳の賞賛を聞いて菅原は心の底から嬉しかった。初めて先生から褒められた!それから次第にホッとした安堵の気持が込み上げて来た、ああ、やっと一つやり遂げたぁ、と。
「印鑑の印影には彫った人間の人柄や価値観が出るものだからな」
それから龍鳳は思いも寄らぬことを菅原に言った。
「なあ菅原君。この印章をこの秋に行われる技術競技会に出品しようじゃないか。全日本印章連盟が主催する全国規模の競技会だ、是非、出品しようや、な」
「然し、先生、その依頼人の方には直ぐにでも渡さなくて良いんですか?」
「先方には競技会が終わってから進呈しても遅くはないだろう」
菅原は素直に龍鳳に従った。
「解かりました、宜しくお願いします」
 菅原は出品に合わせて印箱を誂えた。中も外も漆黒に塗った円い箱に、すっぽりと被さる蓋の天面には緑青の竹を描いて紅く色づいた葉っぱを散らした。シックな中にも雅と華やぎが匂い立つ格好の印箱が出来上がった。
 
 競技会の審査で菅原の作品は「奨励賞」を貰った。選外ではあったが、若手の作で、将来を期待出来るものに授与される賞であった。菅原は心底、喜んだ。少女に進呈するのにこの上ない華を添えることが出来た、と思った。
龍鳳の出品作は厚生労働大臣賞に輝いた。彼の彫った開運吉相体の印章は独創性と特異性に富んだ見事なものだった。流石に一等印刻師龍鳳の作品だった。
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