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第三章 常連客、プレイおやじ、若原
③「私は世界遺産がとても好きなの」
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或る時、突然、彼女が直截に聞いて来た。
「あなたは何か特別な趣味をお持ちになっていらっしゃるの?」
若原は不意打ちを喰ったようで狼狽えた。まさか、女性が趣味だ、とも答えられない。
答を探すように視線を宙に泳がせていると、彼女が言った。
「私は世界遺産がとても好きなの」
「世界遺産?然し、そんなものを観て歩いたら相当に費用が嵩張るんじゃないのかい?」
「そうね、だから大概は本の写真かテレビの画面で見ることが多いのだけど、とても嬉しくてハッピーな時とか、逆に、物凄く辛くて苦しくてきつい時とかには、思い切ってさっと観に行っちゃうの。あの壮大で荘厳な実物を見て神秘と謎の世界に浸っていると、日頃の喜怒哀楽や人生の悲喜こもごもなんて何時の間にか何処かへ吹っ飛んでしまう。人間って凄いなあ、ってつくづく感じ入ってしまうわ」
「何処か特別に思い入れる処は在ったのかい?」
「何処も彼処も素晴らしいのだけれど、石の遺跡なんかは凄いと思う。巨大な石を切り出して一分の隙も無く積み上げて創られているの」
「ほおう?」
「エジプトの石壁は巨石を複雑な形状に正確に切り出して隙間なく積み重ねてある。ただ四角い石を切り出すのではなく、立断面や上下の面にも凹凸をつけて切り出し、それを積み重ねることでどんな方向にもずれないように出来ているし、イランのファールス州にあるぺルセポリスの大階段は広大な人工基壇の上に築かれているので、遺跡の入口へは百十段もの階段を登らなければ行き着けないの」
「なるほど」
「チリ領のイースター島には人面を模した石造彫刻のモアイと言うのが在るの。海に面したアフと呼ばれる高台に、多くの場合、海を背に向けて多数建てられている。モアイは、祭祀目的で立てられた、と推測されているけれども、実際の祭祀形態については諸説が有ってはっきりしないの」
それから彼女は石の遺跡について若原の全く知らない神秘の幾つかを説明した。
「特にペルーにはクスコ、シルスタニ遺跡、サクサイワマン、オリャンタイタンボ、と言った名立たる遺跡が幾つも存在するの」
クスコの石垣はインカ時代よりも前の七世紀から十二世紀に作られたもので、剃刀一枚、水一滴さえも通さないその驚異的で精巧な石組みの技術は今もなお注目されており、少なくとも、千年の年月と、その間の二度に渡る大地震にも、微動だにしなかった石組みは、インカの石組みの技術が現代の技術を凌駕していることを如実に物語っているものである。
シルスタニ遺跡は先インカ時代からインカ時代にかけてつくられた円柱形の墓で、すべての墓の東側に出入り口があり、そこから太陽が差し込むようになっている。これは東から昇る太陽の光を浴びると死者の魂がよみがえると信じられていたからだと言われている。
サクサイワマンはインカの遺跡で、その目的は城砦、宗教施設、その双方を兼ねた建造物など諸説があるが未だ確定しておらず、一九八三年にクスコの市街としてユネスコの世界遺産に登録されたものである。
「中でも私が最も驚かされたのは、高さが私の背丈の4倍近くもある数百トンの超巨石が、周囲の、これも何十トンもありそうな巨石群と多面体で繋ぎ合わされていることだったの。因みに、最大の巨石は三六〇トンを越すと言われており、この重さはなんと地下鉄の車両15台分にも相当するのだって」
オリャンタイタンボは川岸の平地と急な斜面に築かれた建築物で、インカの都市建設の主な特徴を具備し、標高二、八四六メートルにあるこの砦は正面に六枚岩の壁を備えてその威容を誇っている。その壁石は、列によって少しのすき間もなくぴったりと組み合わされ、完璧な接合を見せている。いずれの石も数十トンはあろうかという巨大なものばかりである。
「それから、老いた峰、と言う意味のマチュピチュと言う遺跡が有るのだけれど、この遺跡は山裾からはその存在が確認できないことから、しばしば、空中都市、空中の楼閣、インカの失われた都市、などと雅称されているの。主神殿の石組みはピッタリと合わされていたけど、居住区域の石組みはちょっと不ぞろいな造りだった。たぶんそこに最初からあった自然の巨石を巧みに石組みに組み込んで利用したんだと思う。その技術や発想力にもびっくりさせられたし、削る道具も運ぶ道具も今とは全く違う中で、どうやってこれだけの石組みを作れたのだろうかと真実の不思議に思ったわ」
太陽の神殿の裏にある壁は石がぴったりと重なっていて、最も美しい壁、と言われていると彼女は言った。
「マチュピチュとピラミッド周辺の河岸神殿が作られた頃に、全く場所が異なるところで、石組みの異なる技術が使われているの。移動手段がない時代に、誰が、どうやって技術を伝達したのか、全く驚き以外の何物でも無いわよ」
「然し、そういう石の遺跡や世界遺産に関心や興味を持つ契機は何だったの?」
「うん、それはね。十数年前に書籍の編纂で世界遺産のシリーズ物を刊行することになったの。その時に石の遺跡の特集を組んだのね、で、実際に現場へ観に出かけて、その余りの凄さに圧倒されてしまったの。古代の人達がどうやってあの巨大な石を切ったり運んだり積み上げたりしたのか、何人の人間がどれくらいの時間をかけて作り上げたのか、現代の我々にはもう想像を遥かに超えた世界だと思った。時の司祭者や為政者の絶大な権力による使役で夥しい数の犠牲者を出しただろうけど、兎も角も創り上げたその偉業に、言葉も出ない程に圧倒されたの。それが最初の契機だったと思うわ」
彼女はそう言って若原の顔を窺うようににっと微笑った。
話を聞きながら若原は、彼女は一本筋の通った背骨をしっかり持った大人の女性だ、とその教養の深さと聡明さに愈々魅せられた。
「でも世界遺産って真実に良いわよ。心も身体も癒されるし、それだけで無く、明日を生きる活力も勇気も貰える。観ていると何かとてつもなく大きなものに包まれて精気が蘇える、自分が新たに生き返る気がするのね」
そう言って彼女は照れたように、はにかむように、小さな微笑いを頬に刻んだ。それは若原にとってこの上なく愛おしかった。
何をしても彼女と居ると若原の心はときめいた。
それまでの大勢の女性達との出会いとは似ても似つかぬ感情が胸に溢れた。そう、敬愛の情だった。それまで若原は女性に対して尊んだり敬ったりという思いを抱いたことは無かった。女性は若原にとって、惚れた、はれた、好きだ、恋しい、可愛い、それだけの存在であり、情事の対象として熱意を傾ける存在でしかなかった。だが、彼女は違っていた。女というよりも一人の人間としての存在、何か自分よりも気高い崇高なものが彼女の中に存在するように感じられて、畏敬の念すら抱いた。こんな気持は初めて味わう感情だった。
そうだ、これが愛というものだ!
若原は初めて愛を理解した気がした。
そして、人生の伴侶というものにも初めて思いを馳せた。
情事は一時の情熱だけだし、惚れた、はれた、という恋愛の感情は持続しても精々が一、二年であろう。だが、一緒に生きる伴侶が居るということは、それは人生の希望になり得るだろう。
だが、若原は次第に、自分が彼女から敬愛されるに相応しい存在かどうかという不安につきまとわれるようになった。
「彼女と知り合った当座は、そんな不安は頭に浮かばなかったんだが、彼女を愛し始めた途端に、色んな不安に付きまとわれることになってしまった。先ず、自分が歳をとり過ぎていることが心配になった。彼女が俺のことを身の程知らずの浮気男と思っているのではないかと心配になった。教養や知性の乏しい軽薄な人間と内心軽蔑しているのではないかと心配になった。俺はまさしく疑心暗鬼の心理状態に陥ったんだよ」
そして、彼女の誕生日の夜が決定的となってしまった。
「あなたは何か特別な趣味をお持ちになっていらっしゃるの?」
若原は不意打ちを喰ったようで狼狽えた。まさか、女性が趣味だ、とも答えられない。
答を探すように視線を宙に泳がせていると、彼女が言った。
「私は世界遺産がとても好きなの」
「世界遺産?然し、そんなものを観て歩いたら相当に費用が嵩張るんじゃないのかい?」
「そうね、だから大概は本の写真かテレビの画面で見ることが多いのだけど、とても嬉しくてハッピーな時とか、逆に、物凄く辛くて苦しくてきつい時とかには、思い切ってさっと観に行っちゃうの。あの壮大で荘厳な実物を見て神秘と謎の世界に浸っていると、日頃の喜怒哀楽や人生の悲喜こもごもなんて何時の間にか何処かへ吹っ飛んでしまう。人間って凄いなあ、ってつくづく感じ入ってしまうわ」
「何処か特別に思い入れる処は在ったのかい?」
「何処も彼処も素晴らしいのだけれど、石の遺跡なんかは凄いと思う。巨大な石を切り出して一分の隙も無く積み上げて創られているの」
「ほおう?」
「エジプトの石壁は巨石を複雑な形状に正確に切り出して隙間なく積み重ねてある。ただ四角い石を切り出すのではなく、立断面や上下の面にも凹凸をつけて切り出し、それを積み重ねることでどんな方向にもずれないように出来ているし、イランのファールス州にあるぺルセポリスの大階段は広大な人工基壇の上に築かれているので、遺跡の入口へは百十段もの階段を登らなければ行き着けないの」
「なるほど」
「チリ領のイースター島には人面を模した石造彫刻のモアイと言うのが在るの。海に面したアフと呼ばれる高台に、多くの場合、海を背に向けて多数建てられている。モアイは、祭祀目的で立てられた、と推測されているけれども、実際の祭祀形態については諸説が有ってはっきりしないの」
それから彼女は石の遺跡について若原の全く知らない神秘の幾つかを説明した。
「特にペルーにはクスコ、シルスタニ遺跡、サクサイワマン、オリャンタイタンボ、と言った名立たる遺跡が幾つも存在するの」
クスコの石垣はインカ時代よりも前の七世紀から十二世紀に作られたもので、剃刀一枚、水一滴さえも通さないその驚異的で精巧な石組みの技術は今もなお注目されており、少なくとも、千年の年月と、その間の二度に渡る大地震にも、微動だにしなかった石組みは、インカの石組みの技術が現代の技術を凌駕していることを如実に物語っているものである。
シルスタニ遺跡は先インカ時代からインカ時代にかけてつくられた円柱形の墓で、すべての墓の東側に出入り口があり、そこから太陽が差し込むようになっている。これは東から昇る太陽の光を浴びると死者の魂がよみがえると信じられていたからだと言われている。
サクサイワマンはインカの遺跡で、その目的は城砦、宗教施設、その双方を兼ねた建造物など諸説があるが未だ確定しておらず、一九八三年にクスコの市街としてユネスコの世界遺産に登録されたものである。
「中でも私が最も驚かされたのは、高さが私の背丈の4倍近くもある数百トンの超巨石が、周囲の、これも何十トンもありそうな巨石群と多面体で繋ぎ合わされていることだったの。因みに、最大の巨石は三六〇トンを越すと言われており、この重さはなんと地下鉄の車両15台分にも相当するのだって」
オリャンタイタンボは川岸の平地と急な斜面に築かれた建築物で、インカの都市建設の主な特徴を具備し、標高二、八四六メートルにあるこの砦は正面に六枚岩の壁を備えてその威容を誇っている。その壁石は、列によって少しのすき間もなくぴったりと組み合わされ、完璧な接合を見せている。いずれの石も数十トンはあろうかという巨大なものばかりである。
「それから、老いた峰、と言う意味のマチュピチュと言う遺跡が有るのだけれど、この遺跡は山裾からはその存在が確認できないことから、しばしば、空中都市、空中の楼閣、インカの失われた都市、などと雅称されているの。主神殿の石組みはピッタリと合わされていたけど、居住区域の石組みはちょっと不ぞろいな造りだった。たぶんそこに最初からあった自然の巨石を巧みに石組みに組み込んで利用したんだと思う。その技術や発想力にもびっくりさせられたし、削る道具も運ぶ道具も今とは全く違う中で、どうやってこれだけの石組みを作れたのだろうかと真実の不思議に思ったわ」
太陽の神殿の裏にある壁は石がぴったりと重なっていて、最も美しい壁、と言われていると彼女は言った。
「マチュピチュとピラミッド周辺の河岸神殿が作られた頃に、全く場所が異なるところで、石組みの異なる技術が使われているの。移動手段がない時代に、誰が、どうやって技術を伝達したのか、全く驚き以外の何物でも無いわよ」
「然し、そういう石の遺跡や世界遺産に関心や興味を持つ契機は何だったの?」
「うん、それはね。十数年前に書籍の編纂で世界遺産のシリーズ物を刊行することになったの。その時に石の遺跡の特集を組んだのね、で、実際に現場へ観に出かけて、その余りの凄さに圧倒されてしまったの。古代の人達がどうやってあの巨大な石を切ったり運んだり積み上げたりしたのか、何人の人間がどれくらいの時間をかけて作り上げたのか、現代の我々にはもう想像を遥かに超えた世界だと思った。時の司祭者や為政者の絶大な権力による使役で夥しい数の犠牲者を出しただろうけど、兎も角も創り上げたその偉業に、言葉も出ない程に圧倒されたの。それが最初の契機だったと思うわ」
彼女はそう言って若原の顔を窺うようににっと微笑った。
話を聞きながら若原は、彼女は一本筋の通った背骨をしっかり持った大人の女性だ、とその教養の深さと聡明さに愈々魅せられた。
「でも世界遺産って真実に良いわよ。心も身体も癒されるし、それだけで無く、明日を生きる活力も勇気も貰える。観ていると何かとてつもなく大きなものに包まれて精気が蘇える、自分が新たに生き返る気がするのね」
そう言って彼女は照れたように、はにかむように、小さな微笑いを頬に刻んだ。それは若原にとってこの上なく愛おしかった。
何をしても彼女と居ると若原の心はときめいた。
それまでの大勢の女性達との出会いとは似ても似つかぬ感情が胸に溢れた。そう、敬愛の情だった。それまで若原は女性に対して尊んだり敬ったりという思いを抱いたことは無かった。女性は若原にとって、惚れた、はれた、好きだ、恋しい、可愛い、それだけの存在であり、情事の対象として熱意を傾ける存在でしかなかった。だが、彼女は違っていた。女というよりも一人の人間としての存在、何か自分よりも気高い崇高なものが彼女の中に存在するように感じられて、畏敬の念すら抱いた。こんな気持は初めて味わう感情だった。
そうだ、これが愛というものだ!
若原は初めて愛を理解した気がした。
そして、人生の伴侶というものにも初めて思いを馳せた。
情事は一時の情熱だけだし、惚れた、はれた、という恋愛の感情は持続しても精々が一、二年であろう。だが、一緒に生きる伴侶が居るということは、それは人生の希望になり得るだろう。
だが、若原は次第に、自分が彼女から敬愛されるに相応しい存在かどうかという不安につきまとわれるようになった。
「彼女と知り合った当座は、そんな不安は頭に浮かばなかったんだが、彼女を愛し始めた途端に、色んな不安に付きまとわれることになってしまった。先ず、自分が歳をとり過ぎていることが心配になった。彼女が俺のことを身の程知らずの浮気男と思っているのではないかと心配になった。教養や知性の乏しい軽薄な人間と内心軽蔑しているのではないかと心配になった。俺はまさしく疑心暗鬼の心理状態に陥ったんだよ」
そして、彼女の誕生日の夜が決定的となってしまった。
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