クラブ「純」のカウンターから

相良武有

文字の大きさ
上 下
61 / 72
第三章 常連客、プレイおやじ、若原

①「彼女が電話に出てくれないんだ」

しおりを挟む
 いつもは陽気で闊達な若原が眉間に皺を刻んで一人ぽつねんとカウンターに腰かけている。俯き加減の瞳は虚ろで焦点が定かではない。嶋木が作って出したお気に入りのカクテルもじろっと一瞥しただけでグラスを持とうともしない。
 声を掛けようかどうしようか、と嶋木が躊躇っていると、丁度、折良く、友人の荒川が入って来た。二人は小学校からの友人でもうかれこれ五十年近い付き合いになると言う。
「俺は明日の朝から出張で、今夜はその準備で忙しいのに、急に呼び出して、一体、何の用なんだ?若原」
荒川はいきなり不機嫌さを言葉に表した。
「まあまあ、そう尖がらずに、一杯飲って下さい」
嶋木が執り成すように荒川をカウンター席に招じ入れて、作った水割りのウィスキーグラスを差し出した。
「彼女がどうしても電話に出てくれないんだ」
若原が虚ろな顔で荒川に言った。
 
 若原は今朝、比較的早く目が覚めた。ベッドの枕元の時計は未だ八時を少し回ったところである。今日は月曜日で仕事は休みだった。
若原は徐にベッドから降りて紫色のビロードのカーテンを少し開け、その隙間から外をのぞいた。五月の朝の陽光が燦々とふりそそいでいた。
窓を三センチほど開けると、真下の川沿いの通りを疾走する車の轟音が一斉に湧き上がって来た。若原は慌てて窓を閉め、携帯電話に手を伸ばして、彼女の番号をプッシュした。
応答が無い。今度は彼女の家の番号を押してみた、やはり応答が無い。別に留守番電話になっている訳でもない。もう十日以上も前からそうである。彼女が電話に出てくれない!
 若原は取り敢えずひげを剃り、それから、朝食の支度に取り掛かった。
コーヒーを沸かし、パンをトーストし、ゆで卵を作って、ハムを切り、最後に野菜を刻んでサラダを作った。
もしかすると彼女は洗面所に入っていたのかも知れない、そうで無ければ新聞を取りに階下へ降りていたのかも知れない・・・そう思い直して若原は又、電話をかけた。呼び出し音が十回鳴るのを数えた時、彼は電話を切った。
若原はむっつりと朝食を食卓に運んで、砂を噛むような味気無い食事を摂り始めた。
何故彼女は電話に出てくれないんだ?
 折角の休日を何もする気にもなれず、自分でも数え切れないほどの回数の電話を彼女にかけ、その間、彼女からは何の応答も無く、夕方まで鬱々として自宅で過ごした若原は、とうとう居ても立っても居られなくなって、小学校からの友人である荒川に電話を架けた。
「彼女と言うと?」
「今、交際っている女性だよ」
「ほう。で、その女性とは何処で知り合ったんだ?」
「それが運命的な出会いだったんだ」

 若原は彼女と出逢うまでの経緯を、これまでの自身の決して生真面目ではなかった人生の歩みと共にゆっくりと語り出した。
「俺は女性が好きだった。こよなく女性を愛して来た。背の高い女性も、低い女性も好きだった。ロングヘアーもショートカットも、巻き毛も黒髪も茶髪も栗髪も、皆それぞれに好きだった。強いて言えば、やや小さめの少し痩身のタイプが好みだったが、陽気で太り気味の女性と付き合ったこともあったよ」
 女性の神秘さは極め尽くしようが無かったし、その愛らしさと多様性には限りが無かった。
女性こそが若原の天職だった。そう、若原の職業は美容師だったのである。
十代の少女から二十代の娘盛り、三十代の女ざかりや四・五十代の熟女まで、若原の手にかかると忽ち見違えるほどに変貌を遂げ、彼女達のその時々の女の粋と輝きが創出された。
若原は専門の美容術は無論のこと、ファッションや美顔、エステや痩身術等についても時の先端を行く流行の知識を仕入れ、それを自分流に一捻りして、それらを、一歩先の美容術であるが如く、ワンポイントアドバイスとして女性たちに提供した。若原は女性達を如何に個性的に美わしく光り輝かせて魅せるかに全霊を注いで砕身した。だから、若原が一声かけると女性達は一も二も無く応諾した。
 若原は又、手の込んだ情事のメニューを様々に思い描き、戦略を立て戦術を練り、手練手管を考えることに長けていた。
 その薄茶色の皮表紙の手帳には、ロマンティックな音楽の流れる仄かな照明の店や、この街を代表する繁華街のレストランやクラブや瀟洒な一寸気取った“もってこい”のシティホテルなどの名前がずらりと書き込まれていた。無論、それらの電話番号は全て携帯電話のアドレス帳に登録され、いつでも何処ででも活用することが出来るようになっていた。若原は、ダンサーのように踊ってスターはだしのセリフを吐く自分を、常に思い描いた。女性達をヨットに乗せてクルーズに出かけ、ジャンボエアバスに乗って遥かな異郷の地に飛び立つことをも夢想した。
 そして、一日の仕事が終わると、毎日決まってアスレティック・ジムに直行し、引き締まった腹と逞しい胸を保つ為に厳しいトレーニングに励んだ。
 整髪は週に一度、自分の店で、自分の手で、思い通りのスタイルに整えた。将にお手のものであった。
「もしこの世に女性が居なくなったら、と思ったこともあるが、きっと出家して仏門に入るだろうと考えて、俺はゾッとしたよ」
 現実の若原の部屋は仏門の寺院の部屋とは似ても似つかぬものだった。
キッチンの冷蔵庫に入っているのは氷とライムと蒸留水くらいのものだが、ホームバーの棚にはいつも、コニャックやウオッカやバーボン、ワインやシャンパーンやテキーラ、それに日本酒やビール類がぎっしりと詰まっていた。
自慢のステレオ装置は月刊「プレイボーイ」誌の写真記事を見習ったもので、本物の暖炉付の部屋は特別の設計によるものだった。ふかふかした絨毯は爪先が沈み込むほどで、ソフトなムードミュージックが常に流れて、照明はレストランのそれよりも仄暗かった。
 四十歳になった時、若原は一寸したピンチを迎えた。
「年齢が俺に追いついて来たんだ。お客や同業仲間からは既にカリスマ美容師と呼ばれる存在になってはいたが、ある日ふと、人生の半ばに達したことに俺は気づいた。それからというものは、鏡に向かって髪を整えるのに入念に時間をかけるようになったし、顎や身体の皮膚が弛まないように、アスレティック・ジムでの夜毎のトレーニングを三十分延長したよ」
 荒川を初め若原と同年輩の友人達は誰もがみな身を固めて世帯を持っていたし、中には大学生になる息子や娘の居る奴も居た。そして、誰かが家庭や家族の話を持ち出すと、若原はいつも気取った笑みを浮かべてこう言った。
「俺は仲間達の中でたった一人残った独身貴族なんだよな。だから、いつも皆から白い目で見られてよ。特に皆の奥さん方からは後ろ指まで指される始末で、な」
 五十歳になると若原は余り笑わなくなった。と言って、特に人が変わった訳ではない。確かに髪は少し薄くなったし目尻や顔にも小皺が現れたけれども、中年の魅力が出て来た。そう思って若原は、時に良い気分になった。相変わらず大勢の女性達と付き合っていたし、生き方も暮らし振りも少しも変わっていなかった。だが、付き合っている女性達は殆どが以前の相手よりは歳がいっていたし、離婚や死別を経験した女性達も少なくなかった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

大人への門

相良武有
現代文学
 思春期から大人へと向かう青春の一時期、それは驟雨の如くに激しく、強く、そして、短い。 が、男であれ女であれ、人はその時期に大人への確たる何かを、成熟した人生を送るのに無くてはならないものを掴む為に、喪失をも含めて、獲ち得るのである。人は人生の新しい局面を切り拓いて行くチャレンジャブルな大人への階段を、時には激しく、時には沈静して、昇降する。それは、驟雨の如く、強烈で、然も短く、将に人生の時の瞬なのである。  

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

半欠けの二人連れ達

相良武有
現代文学
 割烹と現代料理の店「ふじ半」の厨房から、店へやって来る客達の人生の時の瞬を垣間見る心揺するハートフルな物語の幾つか・・・  人は誰しも一人では不完全な半人前である。信頼し合う二人が支え合い補い合って漸く一人前になる。「半欠け」の二人が信じ合い解り合って人生を紡いで行く・・・

【Vtuberさん向け】1人用フリー台本置き場《ネタ系/5分以内》

小熊井つん
大衆娯楽
Vtuberさん向けフリー台本置き場です ◆使用報告等不要ですのでどなたでもご自由にどうぞ ◆コメントで利用報告していただけた場合は聞きに行きます! ◆クレジット表記は任意です ※クレジット表記しない場合はフリー台本であることを明記してください 【ご利用にあたっての注意事項】  ⭕️OK ・収益化済みのチャンネルまたは配信での使用 ※ファンボックスや有料会員限定配信等『金銭の支払いをしないと視聴できないコンテンツ』での使用は不可 ✖️禁止事項 ・二次配布 ・自作発言 ・大幅なセリフ改変 ・こちらの台本を使用したボイスデータの販売

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

壁乳

リリーブルー
BL
俺は後輩に「壁乳」に行こうと誘われた。 (作者の挿絵付きです。)

5分間の短編集

相良武有
現代文学
 人生の忘れ得ぬ節目としての、めぐり逢いの悦びと別れの哀しみ。転機の分別とその心理的徴候を焙り出して、人間の永遠の葛藤を描く超短編小説集。  中身が濃く、甘やかな切なさと後味の良さが残る何度読んでも新鮮で飽きることが無い。

処理中です...