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第二章 フリーの一見客

⑧「坊主、借りは返したぞ」

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 それから二日経って嶋木の誕生日がやって来た。その間、例の男も黒い外車の姿も嶋木の眼には留まらなかった。
誕生日の当日、学校から帰った嶋木は、母親が夕食の準備を整えるのを待って、連れ立って誕生日の祝い品を買いに出かけた。
 スポーツ用品店は地下鉄の駅を四つ経由した繁華街の中心部にあった。嶋木は誕生日のお祝いに野球グラブの買換えを強請ったのである。一昨年夏に買って貰ったグラブは野球を始めたばかりで技量稚拙な嶋木には使いこなせなかった。嶋木の持っているグラブは指の長い外野手用のものだったので、ゴロを捕る時にボールが指先から零れて上手く捕球出来なかった。嶋木は指の短い内野手用のグラブが欲しかった。
 店に入ると嶋木の姿を見た店員が慇懃に言った。
「うちはスポーツ用品の専門店でして、子供さん用の品は置いてないんですが・・・」
すると母親は、良いの、良いの、とでも言うように手を左右に小さく振って応えた。
「この子は、後、半年もすれば中学校で野球部員になるのだから、大人向けの良いものを幾つか出して下さい」
四つ出された品物の中から嶋木が一番気に入ったものを選んで母親に見せると、母親は笑顔で大きく頷いた。嶋木が考えていたよりは遥かに高価な品だった。
 新しいグラブの入った紙袋を胸に抱えて、自宅近くの駅の地下階段を駆け上がった嶋木の心は弾んでいた。
「危ないから気をつけなさいよ」
母親の声が背中で言っていた。
 
 スキップをしながら大通りへの十字路に一歩踏み出したその時、大きなトラックが右方向から疾走して来た。眼の前に迫るトラックを見て、わあ~っ、と叫んだ嶋木は思わず眼を瞑った。と、その瞬間、何か大きな力に絡め取られて、嶋木の身体は一回転した。地面に顔をつけて眼を開いた嶋木の身体の上に、黒い大きなものが庇うように覆い被さっていた。
空き地の横のマンションに住み着いたあの男だった。
「馬鹿野郎!危ねぇじゃねぇか、気をつけろ!」
急ブレーキで停車したトラックの運転手が、窓を開けて大声で怒鳴った。
すると、嶋木の身体から身を起こした男がつかつかとトラックに歩み寄り、ものも言わずに運転手の胸倉を掴んでその両頬に往復びんたを四、五発喰らわした。
「何しやがるんだ、この野郎!」
トラックから降りて来た運転手がいきなり男の両肩を押した。そして、左右に振り回した運転手の手が男の顔をもろに打った。その一撃を喰った後の男の反撃振りは嶋木が生まれて始めて見るくらいに凄まじかった。男は先ず、例の黒い上着をさっと脱ぎ捨て、顎をぐっと引いて大柄な相手に近寄ると、その下腹部の辺りにパンチの連打をぶち込んだ。相手は苦しそうに咳き込みながら、男に掴み掛かろうとしたが、彼は素早く後ずさると、相手の腎臓めがけて猛烈なフックを喰らわせ、堪らず崩れ落ちそうになる相手の顎を、今度は右のアッパーで突き上げた。それから相手をトラックの車体に押し付けると、倒れないように左手で押さえておいて、何度も何度も右のアッパーを浴びせ続けた。
「やめて!お願い。もうその位にして下さい!」
嶋木の母親が叫んだ。
その声に振り向いた男は、一瞬、我に帰ったような表情で母親と嶋木の方を見やり、それからゆっくりと相手から手を離した。相手の大男は直ぐにずるずるとトラックの車体伝いに崩れ落ち、その場に座り込んで前に倒れ付した。顔は既に血みどろだった。
「息子の危ないところを助けて頂いて、真実に有難うございました」
母親が深々と腰を折って礼を言った。
「いやいや、そんなに大したことをした訳じゃありませんから」
「でも・・・この子の命の恩人ですから、せめてお名前だけでもお聞かせ下さい」
「俺は別に名乗るほどの者ではありませんよ」
 それから男は、脱ぎ捨てた上着の傍に歩み寄って拾い上げ、埃を叩いてからさっと腕を通した。
男は嶋木に向かって微笑し、嶋木が転んでも手放さなかったグラブの入った紙袋を人差指でぽんと弾いて、かすかに頷いて見せ、それから小声で言った。
「坊主、借りは返したぞ」
「おじさん、有難う!」
男はそれには答えず、あの外車の姿でも探すように注意深く往来を見廻しながら、ポケットから黒いサングラスを取り出して顔に懸け、急ぎ足で遠ざかって行った。やがてその姿は地下鉄の階段の入口に呑み込まれた。
あの人にはもう二度と会えないのではないだろうか、そんな気が嶋木にはした。そして、その通りになった。
 嶋木はやくざ風の男を見ると、あの男のことを思い出す。あれからもう十五年も過ぎている。
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