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第一章 バーテン嶋木の誕生秘話

③嶋木、大事な一戦でノックアウトされる

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 それはプロ十二戦目の、八ラウンドを闘う為のライセンス取得を目指す大事な試合であった。嶋木も相手もトーナメント戦を勝ち上がって決勝に進出して来た好敵手だった。
会場には想像を超える多くの観衆が集まり、嶋木の心は弾んだ。
これだけ多くのの人が観戦に来てくれたんだ!
 然し、無理な減量の所為で嶋木は最初から元気が無かった。一ラウンド、二ラウンド、相手はよく打った。嶋木は顔を伏せガードを固めてブロックしながら、相手の疲れた合間に打ち返す程度だった。相手との距離を計りかね、相手のスピードにも翻弄された。第三ラウンドまでは相手の方がポイントを上げていた。
 だが、第四ラウンドの後半に嶋木が殆ど破れかぶれに突き出した左のフックが相手の顔面にヒットした。相手は思わぬどえらいパンチを喰ってガクリと来たようだった。一瞬にして形勢は逆転した。嶋木は真正面から相手のボディを打った。相手は堪らずにクリンチで逃げようとした。真下の嶋木のコーナーでセコンドが怒鳴った。
「ホールドを自分で解いて打つんだ!今だ!チャンスだ、打て!」
嶋木はボディを打ち続けた。胃の前で両肘を揃えるようにしてカバーするその腕の外側から、嶋木は体重を乗せて強かに続けざまに四発五発と打ち込んだ。解けた腕の合間から胃袋を打った。後は、相手は立ったまま打たれ放しの状態になった。苦し紛れにマウスピースを吐き出して膝を突いた。カウント五で立ち上がった相手を見て、二度でも三度でも這わしてやるぞ、と嶋木は思った。
あのパンチ、あの左のフックはラッキーパンチだった・・・。
 第四ラウンドの終盤・・・・。
嶋木は相手をロープ際まで追い込んだ。そして、自分から左へ廻って、相手をリングの中へ呼び戻した。だが、それが致命的な失敗だった。必死にクリンチで逃げようとしていた相手が瞬時に身体を離して、右へサイドステップしながらカウンター気味のウエイトの乗った左フックをまともに打ち込んで来た。あっと言う間に相手は勢いづいた。六回戦ボーイの打ち合いに技量の差がそれほどある訳は無かった。遮二無二振り出す盲目打ちのパンチが当るか否かの、紙一重の運不運が勝負を分けることになる。
 嶋木は第五ラウンドに一回ダウンを喰った。打たれた瞬間、リングのマットに顔から倒れて行った。マットがぐう~んとせり上がって来て顔にぶつかったという感覚だった。然し、それでも嶋木はカウント八で起き上がってファイティングポーズをとったし、第六ラウンドも何とか立ち上がってリングの中央へ出て行った。
 その六ラウンドは嶋木にとって酷いものとなった。
執拗にボディを打つ相手の攻撃を嶋木は必死にガードして、何か唸り声を上げて突進んで行った。が、相手が殆ど狙い澄ましたように振った左のパンチがまともに命中した。嶋木はもうロープまでも退がれなかった。打たれて前へ倒れ掛かるのを、相手が下から打ち上げては起こし、又、打った。嶋木は立ったまま横に一歩さへ動けずに打たれ続けたが、それでも倒れなかった。打たれても、打たれてもガードを下げたまま立ち続けた。
相手の心に恐怖が走ったようだった。
何なんだ、こいつは?どうなっているんだ、化物かこいつは!
相手はより一層、無我夢中で遮二無二打ち続けた。嶋木のセコンドはタオルを投げ入れる時を失した。遂にレフェリーが漸く二人を分けてTKOにした。嶋木はそれでも未だ倒れずに、そのまま酔っ払ったようにコーナーまで歩いて帰り、出された椅子に身を投げ出すように腰掛けた。が、嶋木が持ち堪えたのはそこまでだった。どおっと後ろ向きにひっくり返った嶋木は意識を失って昏倒した。セコンドが気付を鼻の先に近づけるとぴくりと体中が小さく跳ねるように動いた、が、それ切りだった。
「ノックアウト!」
レフェリーがそう怒鳴って相手を指差した。相手は爪先立ったまま跳ねるようにリング中央へ飛び出した。捉えられた片腕を自分から精一杯高く差し上げた。歓声が湧き起こった。
相手はリングからの僅か四段の階段を踏みしめるように、然し、一段一段軽く弾みをつけるようにして降りて行った。
 救急車で病院に運び込まれた嶋木に直ぐに脳と神経と頸椎の検査が行われた。取り立てての損傷は無いようだった。
 丸一日眠り続けた嶋木は二日目に漸く目覚め、身体機能の検査を受けた。腕、脚、腰、脊椎、内臓、全てに異常は無かった。
 だが、嶋木は、滅多打ちにあってもそれでも尚、サンドバックの如くに揺れながら立ち続
けたあの恐怖が脳の奥に焼きついて、その死の恐怖に戦慄した。そして、死の恐怖の極限
にまで精神を追い詰められた嶋木は二度とリングに上がれなくなってしまった。
 ボクシングは拳一つで這い上がって行く過酷な世界である。リング上の一つのミスが命取
りになる。生死の境を彷徨い死と向き合う人間は、自ずと神経が過敏になり、時に殺気立
つ。剥き出しの感情が衝突し、抜き差しならない事態に陥ることもある。ロマンと打算は
表裏を成す。リング上で激しく闘う二人の人間の濃密な関係は、ひとたび歯車が狂うと修
復不能となり、破局を迎える。それはある意味、修羅場で闘う者たちの宿命なのかも知れ
ない。二人の赤裸々な人間が己の肉体と精神と思考と情熱の有らん限りを尽くして、その
全てを賭して闘う神聖極まりないリングではあっても、嶋木は再びその上に立つことは出
来なかった。
 リングに上がれなくなったことで、嶋木は何か掛け替えの無い大きなものを喪失した感覚に捉われた。何をしても虚ろで空しかった。明るく熱したあのボクシングの世界に在った緊張や燃焼、高揚や充実、光輝や陶酔など何処を探しても皆無だったし、何をしてもその意味を見出せなかった。嶋木は次第に何をすることも無くなり、無気力に惰性で流されるままに時を過ごした。何をしても何を見ても虚ろで空しく、いつしか、嘗て慄いた不安や焦燥にも鈍くなって、自己の存在感さへ求めなくなってしまった。ただ時の流れるままに無気力に周囲に流されて惰性で暮らした。
 大学二年になった時、友人の後藤が言った。
「お前、いつまでもそうやって塞ぎ込んでいても仕方無いだろう。大体、人生だって人だって、常にいつも燃焼して高揚して輝き続けているなんて在り得ないんだぞ。生きる意味や自分の存在感なんてまるで無くったって人は皆、何とかそれを見つけ出したいと、懸命に必死で生きているんだ。アルバイトでも何でも良いから、兎に角、何か始めて見たらどうだ?」
 嶋木は金を稼ぐ為に、求人の折込みチラシ広告を見て今の店にバーテン見習いとして雇われた。後藤が、何もいきなりそんな怖い世界に跳び込まなくても・・・と心配したが、既に八年の歳月が流れ過ぎた。
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