モザイク超短編集

相良武有

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⑩眼の前の自死

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 二十三歳になった雅美は大学を卒業して小さな出版社に勤めていた。入社してから一年余りの間、森本明と言う十歳年嵩の先輩社員にいつも口説かれていた。
「俺と寝ようよ、なぁ、一度で良いからさ」
森本は酒に酔うと、周りに人が居ようが居なかろうが、いつもそう繰り返した。或る時は投げやりに、或る時は真剣に、また或る時は冗談に聞こえた。
「俺はもう生きているのが面倒臭いんだ。だが、君に恋しているのは真実だ、絶望的なほどに、な」
森本には既に振り捨てることの出来ない妻と子供が居た。彼は分譲マンションの狭い一室で、英和辞典を頼りに小説の翻訳の下請けをして飲み代を稼いでいた。
雅美はそうしたことをみんな知っていた。だから彼女は、俺と寝よう、と森本から言われると、周りに人が居ようと居まいと、フンと鼻先で嘲っていた。
 雅美はワンルームマンションに独り住まっていた。給料の足りない分は土日の休みの日に、街の小さな印刷屋の帳簿記けに通った。名ばかりの社長と工員が二人居るだけのちんけな印刷屋だった。夕方、男たちから誘われれば何処へでも従いて行った。酒を飲み、カラオケで唄い、男たちと肩を組み、足を縺れさせて歩いた。だが、自分のマンションに男たちを入れることは無かったし、何処であれ、男たちと寝ることも無かった。男たちに支えられて歩きながら、ある時間になると急にその手を振り払い、自分の足で真直ぐに歩いて自室に帰った。それは印刷屋の男たちだけでなく出版社の男たちに対しても同じだった。それは若い雅美の誇りと矜持であった。
 雅美には二つ歳上の恋人がいた。
それは雅美が高校二年生の夏の出来事だった。
通りの角に在る大きな書店の前の雑誌を積み上げた平台の所で、雅美は漫画雑誌を立ち読みしながらクスクス笑っていた。が、直ぐに笑いを消してチラッと周囲に目を走らせ、店員や周囲の人間が此方を見ていないことを確認すると、手に持っていた雑誌を左肩にかけたショッピングバッグに落とし込んだ。そして、何食わぬ顔で手を伸ばして別の雑誌を捕ると、其のまま又、立ち読みを続けた。
が、次の瞬間、店の奥の方で何かが動く気配がした。雅美は其方へ素早い視線を走らせると、手に持っていた雑誌を平台に戻し、ゆっくりと店先を離れた。そして、五、六歩歩いた後、突然、身体を翻して広い歩道を駆け出した。それと同時に、店の奥で鋭い叫び声がして若い店員が飛び出して来た。
「こらっ、待てぇ!」
雅美は最初の小さな四つ辻を左へ曲がった。然し、雅美と店員の若い男とでは身の軽さも動きの速さも格段に違っていた。彼女は必死で再び四つ角を曲がり更に走って右へ折れた。
が、其処で、突然、一人の若い男に出くわして、雅美は怯えた眼で男を見た。
「逃げろ!頑張るんだ!」
男は低い声でそう叫ぶと、雅美からショッピングバッグを引っ手繰るように奪い取って自分の脇の下に抱えた。そして、息を切らせてしゃがみ込みそうな雅美の手首を掴み、彼女の身体を引き摺るようにして走り続けた。雅美は自分の手首を掴んだ男が味方だと知って、気を取り直したようにまた走り始めた。後ろで店員の罵り声が弾けた。男は雅美を引き摺りながら脇道から脇道へ曲がって走った。入り組んだ住宅街の町並みが二人に幸いした。後を追う足音はいつしか聞こえなくなった。
 それから、三十分後、二人は書店から反対方向の大きな河川敷に居た。
「あの漫画、そんなに面白かったのか?」
「・・・・・」
走り疲れて河原で横座りしていた雅美は声を掛けられて男の方を見上げた。
「さっき、立ち読みしながら忍び笑いをしていただろう?」
「ああ、あれ、面白いよ。見て見る?」
雅美はショッピングバッグから雑誌を引っ張り出してペラペラと捲っていたが、直ぐに、目指す漫画へ行き着くまでに別の漫画に引っ掛って、男を立たせたまま、一人でまた笑い声を上げて熱心に読み始めた。
「君、何て言う名前?」
「わたし?」
男の声に雅美は読むのを止めて顔を上げた。
「私の名前?私は藤本雅美。友達は皆、マミって呼んでいるよ。あなたもそう呼んでくれれば良いわ。で、あなた、何て言うの?」
「俺は松木忠夫。友達はチュウって呼んでいる」
雅美は立ち上がると数歩歩いて、今まで読んでいた雑誌を傍らに在った紙屑籠の中へ突っ込んだ。
「なんだ、折角苦労して盗ったのに、勿体無い」
「良いの。漫画なんて立ち読みで十分よ。部屋まで持って帰ったりすると精神が堕落するわ。それにお金出して買ったりしてもね」
雅美は忠夫に向かって、共犯者宜しくにっと笑ってみせた。
「でも、チュウにマミって良いじゃない?ねぇ、これから先、そう呼び合おうよ、お互いに、ね」
「うん、それも良いかも、な」
雅美は思っていた。
本来なら掴まえて警察に突き出すべきところを、この人は、逃げる私を助け庇い護ってくれた・・・
こうして二人は運命的な出逢いを果たしたのである。
 毎日の職場にも雅美に思いを寄せている男は居た。藤井裕一と言う三歳年上の同僚だった。或る晩、五人連れで飲みに出かけたのが、いつの間にか三人になっていた。
「なあ、俺と寝に行こう、こんな奴は放っといて、さ」
雅美に言った後、森本が藤井に向き直って訊ねた。
「おい、良いだろう?俺がこの子と寝てもさぁ」
「何でそんなことを僕に聞くんです?それはこの人の問題ですよ」
森本が雅美に言った。
「ほら、見ろ。寝ても良いって言っているぞ、こいつ。こいつは君に惚れてなんかいない、唯の友達だとさ。惚れて居りゃ腕づくだって邪魔する筈だからな」
「僕は良いなんて言っていません。それはこの人の自由だって言っただけです」
「自由だって言うのは、良いってことじゃないか、大学出ていてそんなことも解らないのか?大体お前、いつまでグタグタへばり付いているんだ?他の連中は気を利かせてサッサと消えたぞ」
「僕は何もへばりついてなんか居ません。この人と飲んで居るだけです」
「それで、あわ良くば、と狙っているんだろう?」
「あなたはそういう風にしか考えられないんですか?僕はこの人と飲んで居るのが楽しいから飲んで居るんです」
「これだから今どきの若い連中は嫌やなんだ。おい、お手々繋いで飯事をするお子様タイムはとうに過ぎたぞ。もう大人の時間だ。お前なんか早く帰れ!終電車が行ってしまえば、後はホテルにしけ込むしかないんだ。脛齧りの学生じゃあるまいし、深夜に男同士で顔突き合わせて、ウオッカ舐めるなんて、俺は真っ平だからな」
「帰りますよ、言われなくったって」
藤井は立ち上がって雅美に言った。
「君も帰るだろう?」
だが、何故か雅美は、その時、立ち上がらなかった。
「私、もう少し飲んで行くわ」
藤井のきつい視線が雅美を射抜いた。彼は何も言わず、殆ど絶望したかのように顔を逸らせた。
「あなたなんか死んで終えば良いんだ・・・」
藤井は森本の背に唾を吐き捨てるようにそう言って、扉を押して帰って行った。
森本はその後、続けて二、三杯、コップ酒を飲んだ。
 店を出た後、小腹の空いた雅美は屋台でラーメンを食べた。森本は雅美の横で焼酎をロックで舐めていた。
「旨そうに食べるね」
雅美は黙ったまま熱い麺汁を啜った。
「君は今、さぞかし幸せに暮らしているんだろうね」
雅美が答えた。
「そうですよ。幸福と言うのは、あなたが手を伸ばして足掻いているような野心とは全く別のものですよ。健康な奥さん、出来の良い子供二人、支払いの半分は既に済んだマンション、それで何が足りないって言うんですか?」
「君はもう十分に生き切って幸せだって言うのか?」
「私は幸せです、いつだって。それに凄く忙しいですから、後振り向く暇なんてありはしません」
「さぞかし毎日、充実して生きているんだろうね」
「あなた、一体何なんですか?毎日充実して生きるってどういうことですか?初めは共働きで、その後、子供が生まれて、直ぐ次の子が出来て、子供から手が離れた頃に奥さんがパートに出て・・・それが充実した生き方で無くて、何が生き切った人生なんですか?」
「何か別の世界が有るって思わないのか?」
「そんなもの、有るもんですか!」
森本は暫く黙った後、悲しいと思えるほどゆっくりと、独り言のように言った。
「扨て、と・・・何処に行こうか?」
それを聞いた雅美は、うるさいわねぇ、いい加減にしてよ、と言わんばかりに言い放った。
「誰があんたみたいなお爺さんなんかと!」
それは、もう一年以上もの間、心の中に鬱積して来た思いを放出した言葉だった。
既に三十歳を過ぎて生活の中に否応無く足を突っ込みながら、未だ青春の夢を棄てかねて足掻いている先輩社員など、自分とは何の関係も無い別の世界の人間に雅美には見えた。彼女は二十三歳の若さの驕慢の絶頂で、若さ故の覚束無さに揺れながらも、妻子持ちの未だ三十過ぎの男に、恐れること無く、そう言い捨てたのである。
森本はゆっくりと顔を雅美の方へ向け、吃驚したように二、三秒の間、彼女の顔を眺めて居た。それから何も言わずに立ち上がり、金を払うと、口の中で何かを呟きながら電車道の方へゆらゆらと歩いて行った。雅美が屋台から見ていると、丁度、赤いランプの最終電車が自動車の途絶えた深夜の道を、傍若無人な音を響かせて近づいて来るところだった。ふらふらと歩いていた森本は、何も言わず振り向きもせず、急に小走りで線路に走り寄ると、其処に倒れ込んだ。ゴツンと言う大きな音と急ブレーキの軋みが聞こえ、頭蓋骨を割った森本は十時間苦しんで、そして、死んだ。
 個人的には何の関わりも持たなかったとは言え、森本の自死は雅美にとっては小さくはない衝撃と恐怖だった。彼女は頭の中からそれを追い払うように、直ぐにタクシーを呼び止めて忠夫の居るマンションへ急ぎ、彼の腕の中で燃えに燃えた。
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