モザイク超短編集

相良武有

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⑱プロポーズ

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 「六時から予約の沢木ですが」
彼は今日、久し振りに逢った恵子と此処で夕食を共にする約束を取り交わした。
沢木と恵子は同い歳だった。
恵子の家は沢木の家の右隣で、両親が二人とも学校の先生をしていて昼間は不在だったので、子供の頃、恵子はよく沢木の家へ遊びに来た。半ば沢木の家の子供のような格好で遊びに興じ、両親の帰りが遅い日には夕食を一緒に食べたりもした。二人は「お恵」「耕ちゃん」と呼び合う仲良しだった。
小学校から高校まで同じ学校に通った二人は思春期のお互いを詳らかに見合って来たが、高校卒業と同時に、恵子は現役で合格した国立大学へ通学する為に、家を出て東京へと旅立って行ったし、沢木は自宅から通学出来る国立大学へ通って、二人が顔を合わせるのは、恵子が夏休みなどで長期間帰省した折だけとなった。が、それでも、逢えば二人は時間の過ぎるのも忘れて話し込んだし、街へ出て食事をしたり、酒を飲んだりもした。恵子は益々自信に満ちて颯爽としていたし、その存在感は同世代の女の娘達とは比較に値せぬほど群を抜いていた。
恵子は東京の国立大学経営学部を卒業して六年、公認会計士の資格を取って今は都内の有名な監査法人に在籍している。仕事が忙しいと言ってもう三年以上も実家に帰って来ていなかった。
 「お待たせしちゃって、ご免なさい」
歯切れ良く言った恵子は、沢木が指差した、丸テーブルの、夜景がよく見渡せる斜め横の席に腰を下ろした。
ウエイトレスが飲み物の注文を取りに来た。料理の方は既にフレンチ懐石コースを予約してある。恵子は白ワインを注文し、沢木も同じものを頼んだ。
最初に運ばれて来た食前酒で二人は先ず、グラスを合わせた。
「乾杯!」
「ああ、美味しい」
恵子の表情が少し緩んで、窓の外の夜景に眼を上げた。
ワインとオードブルがテーブルに運ばれて来て、二人のディナーが始まった。
「私は輝きを失わない為に自分を磨いて来たし、これからも磨き続けるわよ。ひたむきに打ち込んで没頭し、自分を高めることが出来る何かを持っていないと、オーラは出ないわ」
「それが仕事であっても良いということか?」
「そうね。仕事はそれに携わる人の人間を造るわ。仕事は人間修養の道場みたいなものよ。際限無く深く、奥行きも広くて、必死に立向かわないと必ずしっぺ返しが来る。挑んで行く姿勢や闘う心や諦めない粘り強さ、或いは、成功の高揚感や失敗の挫折感、立ち上がる不屈の精神、その他、人が生きて行く上で強靭に身につけていかなければならないものが一杯詰まっているのが仕事なのよ」
沢木は、恵子の有無を言わせぬ断定的な話し振りに、少し戸惑った。恵子には似つかわしくない物言いだと思った。
「勿論、エステや美容などで外面を磨くことも怠り無くやっているわよ」
恵子はやや砕けた口調で付け足した。
 だが、ワインを飲み、美味なコース料理を賞味しながらも、二人の会話は余り弾まなかった。先程の物言いといい、又、淋しそうで何処と無く辛そうな表情が垣間見える恵子の様子に、沢木は心を砕き、通り一遍の世間話しか口に出来なかった。仕事の話になると恵子は饒舌になり、少し気持ちも和らぐようであった。
沢木には彼女が、言葉とは裏腹に、とても疲れてやつれているように見えた。頬が少しこけ、目元もやや落込んで、元気だとは到底言えない顔つきである。綺麗に化粧を施して隠してはいるが、肌も少し荒れているように見える。沢木にはこのまま放って置けない気がした。
「お恵、どうしたんだ?何で今頃、中途半端なこんな時期に帰って来たんだ?」
沢木はたずねた。
「別に、どうもしないわよ。来月から企業の本決算業務で忙しくなるから、一寸、英気を養いに帰って来ただけよ」
「何か気懸かりなことでも有るんじゃないのか?」
今はそういう話はしたくないの、とでも言いたげに恵子は軽く手を振って、和牛ステーキにナイフを入れた。
 店内がかなり混み合って来た。キャリアウーマンタイプの若い女性達、中年の夫婦連れ、男女入り混じったビジネスマンとOLの一団等々が、空いていた予約席をどんどん埋めていった。
ふと、恵子がフォークとナイフを置き、テーブルの下で手を組んで静かに言った。
「耕ちゃんだから、やっぱり話しちゃうわ。本当はね、私、何もかも順調って訳じゃないの」 
彼女の大きな黒い眼には、最悪の事態を予期して身構えているような表情が浮かんでいた。
「私ね、中絶手術をしたの」
恵子は言った。
「一ヶ月前に・・・」
沢木は思わず、身を乗り出していた。
「ううん、どうってこと無かったわ」
騒がしいレストランの中で、その声はかすれるように聞こえた。
「簡単なことなの。事実簡単だったし」
「両親には話したのか?」
「ううん。だって、これは私自身の問題だもの。自分ひとりで責任を取るのが当然だったのよ。それに、三十歳前のいい大人が親に話すことじゃないわ」
恵子は、ふっと一息吐いて、ワインを一口啜った。
「私、最後まで他人の力は借りなかったわ、全部一人で処理したの。そして、彼とも別れたわ」
恵子は顧問先である会社の妻子有る課長と恋に陥り、愛し合い、そして、妊娠したのだった。会社や事務所の上司や同僚或いは相手の家族に知られてはいけないという秘かな忍び逢いが、二人の恋を一途なものにしていった。二人は次第に激しく求め合うようになった。しかし、時を経て二人の関係は惰性化して行った。最初の頃は、逢う度に新鮮さもありときめきもあったが、次第に、ただ漫然と会い、食事をして酒を飲み、そして、身体を重ね合う日常の中へと埋没して行った。恵子はそんな二人の関係に気を揉んだが、次第に、所詮、世間的には不倫関係だという思いを抱くようになり、相手の家庭を壊す気は毛頭無く、又、仕事を犠牲にしてまで未婚の母を貫く勇気も持てなくて、悩んだ挙句に、中絶と別離を決断したのだった。
中絶手術のあと、高層マンションの窓から煌く東京の夜景を一望しながら、恵子は一晩中泣きに泣いたと言う。
「どうしてあんなに涙が溢れたのか、自分でもよく解らないのだけれど、泣き明かして朝になったら、憑き物が落ちたみたいに、すう~っと気持があの人から離れていたの。それで直ぐに別れることにしたわ」
「電話の一本でもかけて呉れれば、何かの力になれることはあったのに」
「・・・・・」
「俺とお前は隣同士で育った幼なじみなんだ。どんな時でも俺はお前を守ってやるよ」
沢木はワインのグラスを口に運んで、苦い思いを飲み込んだ。
暫く沈黙が続いた。
そして、唐突に沢木が言った。
「こっちへ帰って来い。そして、俺のところへ嫁に来い!」
「えっ、耕ちゃんと結婚するの?」
突然の思いもよらぬ沢木の言葉に、恵子は呆れた表情をした。
「そうだ。結婚しよう!」
沢木の胸には急に熱いものが込み上げて来ていた。
そうだ!この一言を言う為に、子供の頃から今日まで、二十八年間も懸かったのだ!俺はお恵がずうっと好きだったのだ!
冗談交じりに聞いていた恵子も、沢木の真剣な眼差しに、笑いを消して、じっと見返して来た。
「ありがとう。嬉しいわ。でも、私で良いの?」
「ああ。お前でなきゃ駄目なんだよ!」
テーブルの上に置かれた沢木の左手に、恵子の右手がそっと重なった。恵子は目を潤ませていた。
 最後のデザートを食べ終えた二人は、混み合った店内の通路を通り抜けて、出口のカウンターで勘定を済ませてから、街路へ出た。恵子が腕を絡ませて来た。初めてのことであった。沢木は、あれっ、と思ったが、何も言わなかった。独りで突っ張って来たキャリアウーマンではなく、幼なじみの普通の女の娘が、そこに居た。
何があっても、どんな時でも、お前のことは必ず俺が守ってやるぞ!お恵・・・
二人は互いの家の前で「それじゃ」「お休みなさい」と今までと変わらぬ挨拶を交わして、それぞれの家の中へ入って行った。
 それから二日間、恵子からは何の連絡も無かった。沢木は気懸かりではあったが、自分から電話をするのを躊躇った。
 沢木には、真実にこれで良かったのだろうか、と自分自身に問い詰めるものがあった。安っぽい同情に駆られて、或いは、可哀想にという憐憫の情から、思わず「結婚しよう」と口走ったのではないか?俺は恵子に大変失礼なことをしたんじゃないか?あいつには迷惑だったんじゃないのか?俺はもっと繊細な思いやりのある寛大な態度を取るべきだったのだろうか?沢木は、自身に問い詰めれば詰めるほど、惑乱するばかりであった。が、反面、否、あいつも俺の気持は子供の頃から嫌やと言うほど解っていた筈だし、あいつもまた俺と同じ思いを持っていたに違いない、それは俺が一番よく理解している、とも思った。
 三日目の昼、沢木が食事を終えて事務所に帰って来て間も無く、恵子から携帯に電話が入った。
「耕ちゃん?今から東京に帰るわ。この度は色々とありがとう。真実に嬉しかった!でも、このままじゃ、耕ちゃんと結婚することは出来ないわ」
「おい、お恵、一寸待てよ」
「私、もう一度自分を立直して来る。今の私じゃ耕ちゃんに失礼だもの。仕事にも人生にもチャレンジし直して、もう一度輝きを取り戻して来るわ」
「何もそんなに無理しなくても、今のお前で十分なんだよ」
「ううん、駄目よ。耕ちゃん、私が生きる自信を取り戻して帰って来たら、その時は、耕ちゃんの嫁さんにしてくれる?」
電話の声の向こうで、東京行きの新幹線がホームに入って来るアナウンスが微かに聞こえた。
「解った!一年でも二年でも待っていてやるよ!お前と俺は何もかも知り合っている幼なじみなんだからな。しっかりやって早く帰って来い。何かあったら今度はちゃんと電話して来るんだぞ」
沢木は恵子の笑顔を思い浮かべて、あいつなら大丈夫だ、きっと一人で立ち直れるだろう・・・そう自らに言い聞かせた。
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