人生の時の瞬

相良武有

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第7話 老女優

⑦一色彩、大女優に成長する

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 歳を経るに従って一色彩は、その姐御的気質から、撮影所内では若い俳優たちの教育係の如き存在になって行った。彼女はだらだらしたことやうじうじしたことが嫌いだった。何事もてきぱきとさっさと熟す習性だった。是々非々ではっきりものを言った。特に時間には鋭敏だった。スケジュールに追われて製作するプログラム・ピクチャーでは時間の余裕などある筈も無かった。ましてや現場では、幾ら手間暇かけても良いと言う仕事など皆無だった。仕事は時間との闘い、時間そのものであった。時間厳守は必須の条件だった。
 或る時、共演した若いスター俳優が一時間遅れて現場入りしたことがあった。彼女は早速に彼を呼びつけて言った。
「あなた、どういう心算なの?」
「えっ?」
「此処には監督以下五十人ものスタッフが居るのよ。その誰もがあなたの来るのを、未だか、未だか、と待って居たの。あなた、一体、何様なの?今度もう一回こんなことがあったら、私はこの映画を降りるからね」
聞いたスター俳優の身体が一瞬にして硬直し顔面が蒼白になった。彼は平身低頭した。
「済みませんでした。申し訳ありません!」
「そう、解ったのなら監督を初めみんなに詫びを言って来なさい」
若い俳優は直ぐに、済みませんでした、申し訳ありませんでした、とスタッフ全員に詫びて廻り、最後に彩が説いた。
「五分前の精神、と言うのが在るの。行動五分前には所定の場所で仕事の準備と心の準備を整えて待機せよ、と言うのよ。しっかり肝に銘じて置きなさい」
この後直ぐにその日の撮影が開始されたのだった。
 一色彩は時間だけでなく挨拶や礼儀にも厳しかった。
それは、人気急上昇中の若い女性タレントが撮影に入って三日目、初めて一色彩と顔を合わせた時のことだった。
ドアを開けてスタジオに入って来た若いタレントは急ぎ足に歩きながら、顔見知りの二、三人に軽く首を垂れたが、それ以外には目礼もしなかった。人間は知らない相手には積極的には挨拶をし難いものではある。が、彩は不愉快だった。
「あなた、現場へ入る時にはきちんと大きな声で、おはようございます、と言うものよ」
「はい?」
「これから皆で、力を合わせて撮影をするのでしょう。少しでも良いものを創ろうと、他人同士が何時間も顔を突き合わせて仕事をするのよ。お互いが気持よくやれるように気を配るのは人としての第一の心掛けでしょう」
「はあ」
「挨拶はコミュニケーションの基本なの。コミュニケーションの良くない現場で良い仕事が出来る訳ないでしょう。明日から毎日、大きな声で明るく元気よく挨拶しなさい」
「はい、解りました。以後十分に気を付けます」
「挨拶のオ・ア・シ・スと言うのが在るの。オはおはようございます、アは有難うございます、シは失礼します、スは済みません。良く覚えて置くのよ」
 彩の指摘は若い俳優に対してだけではなかった。
数か月ぶりに共演したスーパースター石黒裕一にも歯に衣着せずに諭した。
「あなた、近頃、お酒が過ぎるんじゃない?」
「何?匂うか?」
「そうじゃないわ。一度大きな鏡で自分の身体をじっくり眺めて見たら?」
「なんだよ」
「顔は浮腫んでいるし皮膚も弛んでいる。表情にも精気が無い。昔の面影が陰で泣いているわよ、きっと」
「お前も言い難いことをズケズケとはっきり言う奴だな」
裕一は少し気色ばんで気分を害したようだった。
だが、半年後に次回作の打ち合わせで顔を合わせた時には、彼は少し痩せて顔がほっそりし、動きもシャープになって覇気が戻っているようだった。
彼女は、これでこの作品は大丈夫だわ、それに、彼もこれから一年くらいは今の状態を持ち応えるだろう、よしよし・・・と思った。仮令プログラム・ピクチャーであっても現場には少しでも良い物を創り上げようと言う熱気が漲っていた。幾重にも在る制約の下で合格レベルの作品を創り上げる、それがプロと言うものだった。
 後年になって一色彩は、活躍の場を映画やテレビから舞台へと移した。
其処では青春の若い娘の役を演じることが出来た。彼女は昔スクリーンで輝いていたように、光り、撥ねて躍動した。劇場の最後列まで声が届くようにしなければならないとか、観客に良く理解されるように動きを少し大きくしなければならないとか、映画との違いに戸惑いは在ったもののそれは演じる方法の問題でしかなかった。彼女は常に監督嶋木から教わった、その人物に成り切って自然に動くこと、に全力を傾けた。
 そして、六十五歳の若さで紫綬褒章を、七十二歳で旭日小綬章を受賞した。
長年やって来た甲斐が在ったわ・・・彼女は心の底から嬉しかった。
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