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第6話 忍ぶ恋
①「何を言ってやがる、訳も解らん新任課長が!」
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クラブ「華」のカウンターで、清水良彦は少し濃い目のバーボンを飲んでいた。
外は寒かった。高い夜空に満天の星が輝き、月は煌々と冴えていた。身震いしながら飛び込んだ馴染みの店は、程よい暖房で暖かかった。立て続けに呷った酒が次第に廻って来て、冷え切った身体が少し温まり、漸く人心地がついたところで、清水は先ほど迄の腹立ちを思い出した。
「何を言ってやがる、訳も解らん新任課長が!」
呟くと、カウンターの向こうの女性バーテンが、おっかなびっくりの眼で清水を見た。
「いや、悪い。こっちの話だ。独り言だ」
「はい」
「バーボンのお替り、頼むよ」
清水が言うと、バーテンは黙ったまま目顔で肯いて、グラスの氷を入れ替えて酒を注いだ。無口な女性バーテンだが、こういうところが、酒で心身を癒しにやって来る客をもてなす人間には似つかわしい。バーボンの味は実に旨い。
納めた商品にクレームをつけたのは、あの課長だろう、と清水は思っていた。
丁重だが冷淡な物言いをする四十五歳前後の男の顔が、清水の目の裏に浮かんでいる。得意先の資材購買課に最近転勤して来た新任課長である。
清水は営業マンである。業界では国内トップと言われる大手上場会社で営業部に配属されてもう五年余りになる。営業成績は常に上位にランクされ、自社の商品には少なからず自信を持っていた。だが、今日は、清水が担当する得意先から納入商品が戻されて来た。先方の受入検査でクレームをつけられたのである。
清水は頭に来た。カッとなって頭の中に火花が散った。
「返って来た商品のサンプルを持って、一寸、得意先へ行って来ます!」
清水は立ち上がって上司に言った。
「何処が問題なのか、聞いて来ますよ」
「止めろ!」
上司の課長が遮った。
「何だ、その態度は。大事な得意先に対して何を言っているんだ」
「・・・・・」
「何処が問題なのか、納品に行った配送者が聞いて来ただろう。ちゃんと話を聞いて、自分の目で確かめ、早く作り直す段取りを取るのが君の仕事だろうが」
頭に血が上っても、上司には逆らえない。清水は、配送者に返品された商品のサンプルを持って来させ、状況と内容を詳しく聞いて、自分でもそれを確認した。それから自分の席に戻ると工場の製造課長に電話を入れて、作り替えの依頼を行った。パソコンを開いて規格書を引張り出し、作業指図書を入力して製品サンプル写真を添付した時には、午後八時近くになっていた。残業の時には、普段は、軽食を摂れるのだが、清水は腹の減ったことなど忘れていた。それよりも、この程度のことでクレームをつけられたことの腹立たしさが沸々と胸の中に滾って、在った。
仕事を終えて帰り支度を始めようとした時、営業アシスタントの女子社員、瀬戸優子がコーヒーを運んで来てくれた。清水が残業していたので、優子も居残っていたようである。優子は女子大の文学部を出て来た入社三年目の二十四歳で、今や頼りになる清水の良きパートナーであった。仕事はてきぱきとこなし、なかなか聡明であるが、優しい性格で人を包み込む暖かさがある。時折、清水に好意を示すこともあった。旅行にでも行って来れば、皆へのお土産の他に特別のものをくれたりもする。
「ありがとう」
清水はそう言って熱いコーヒーを一口啜った。
「俺も後片付けをして帰るから、君はもう終ってくれても良いよ」
「そうですか。それではお先に失礼致します。カップは湯沸かし場の流しに置いておいて下さい。明日の朝、私が洗いますから」
「うん。解かった」
「では、失礼します」
「有難う、お疲れさん」
優子は清水に軽く頭を下げて、部屋を出て行った。
優子は小さい頃に父親を亡くし、美容院を営む母とその実母である祖母の、二人の女手で育てられた。
優子は小学校に入って直ぐ、母親が土日祝日も仕事をしていることを初めて知った。母は大きな総合ブライダル施設と契約していたので、早出や居残りがしょっちゅう有り、特に世間が休みの日には多忙を極めた。大安の休日には、朝一番から挙式する花嫁の着付けと美容の為に早朝の暗いうちから出かけて行った。他の子供達が家族と一緒に団欒する休日を優子は何時も祖母と二人で過ごした。
父親が居ないことで優子が寂しがったりするのは不憫だと、気丈な母は時として父親の役割も果たしたし、男親の居ない娘は駄目だと世間から後ろ指を指されることの無いよう、挨拶等の礼儀作法や時間厳守、整理整頓等の躾については厳しく教え込んだ。又、読書や絵画鑑賞等で教養を深めることにも力を注いで、学校は幼稚舎から大学までカトリック系の一貫教育を実施している女子学園に通わせた。優子はそんな母に感謝しているし、少し淋しくはあっても、自分は幸せだと思っている。温かい中にも厳しく躾けられた優子は素直で温和な飾らない性格に育ち、知性と品性を備えている。聖母マリアを模範と仰ぎ敬愛するカトリック系の女学園で知育と徳育を受けた優子は、人に共感し人を受容する感性豊かな女性に成長した。彼女は、人と自分、物と自然の全てに敬意を持って向き合い、心を開いて人や社会に対して敏感な感性を培うよう、毎日心がけて暮らしている。
外は寒かった。高い夜空に満天の星が輝き、月は煌々と冴えていた。身震いしながら飛び込んだ馴染みの店は、程よい暖房で暖かかった。立て続けに呷った酒が次第に廻って来て、冷え切った身体が少し温まり、漸く人心地がついたところで、清水は先ほど迄の腹立ちを思い出した。
「何を言ってやがる、訳も解らん新任課長が!」
呟くと、カウンターの向こうの女性バーテンが、おっかなびっくりの眼で清水を見た。
「いや、悪い。こっちの話だ。独り言だ」
「はい」
「バーボンのお替り、頼むよ」
清水が言うと、バーテンは黙ったまま目顔で肯いて、グラスの氷を入れ替えて酒を注いだ。無口な女性バーテンだが、こういうところが、酒で心身を癒しにやって来る客をもてなす人間には似つかわしい。バーボンの味は実に旨い。
納めた商品にクレームをつけたのは、あの課長だろう、と清水は思っていた。
丁重だが冷淡な物言いをする四十五歳前後の男の顔が、清水の目の裏に浮かんでいる。得意先の資材購買課に最近転勤して来た新任課長である。
清水は営業マンである。業界では国内トップと言われる大手上場会社で営業部に配属されてもう五年余りになる。営業成績は常に上位にランクされ、自社の商品には少なからず自信を持っていた。だが、今日は、清水が担当する得意先から納入商品が戻されて来た。先方の受入検査でクレームをつけられたのである。
清水は頭に来た。カッとなって頭の中に火花が散った。
「返って来た商品のサンプルを持って、一寸、得意先へ行って来ます!」
清水は立ち上がって上司に言った。
「何処が問題なのか、聞いて来ますよ」
「止めろ!」
上司の課長が遮った。
「何だ、その態度は。大事な得意先に対して何を言っているんだ」
「・・・・・」
「何処が問題なのか、納品に行った配送者が聞いて来ただろう。ちゃんと話を聞いて、自分の目で確かめ、早く作り直す段取りを取るのが君の仕事だろうが」
頭に血が上っても、上司には逆らえない。清水は、配送者に返品された商品のサンプルを持って来させ、状況と内容を詳しく聞いて、自分でもそれを確認した。それから自分の席に戻ると工場の製造課長に電話を入れて、作り替えの依頼を行った。パソコンを開いて規格書を引張り出し、作業指図書を入力して製品サンプル写真を添付した時には、午後八時近くになっていた。残業の時には、普段は、軽食を摂れるのだが、清水は腹の減ったことなど忘れていた。それよりも、この程度のことでクレームをつけられたことの腹立たしさが沸々と胸の中に滾って、在った。
仕事を終えて帰り支度を始めようとした時、営業アシスタントの女子社員、瀬戸優子がコーヒーを運んで来てくれた。清水が残業していたので、優子も居残っていたようである。優子は女子大の文学部を出て来た入社三年目の二十四歳で、今や頼りになる清水の良きパートナーであった。仕事はてきぱきとこなし、なかなか聡明であるが、優しい性格で人を包み込む暖かさがある。時折、清水に好意を示すこともあった。旅行にでも行って来れば、皆へのお土産の他に特別のものをくれたりもする。
「ありがとう」
清水はそう言って熱いコーヒーを一口啜った。
「俺も後片付けをして帰るから、君はもう終ってくれても良いよ」
「そうですか。それではお先に失礼致します。カップは湯沸かし場の流しに置いておいて下さい。明日の朝、私が洗いますから」
「うん。解かった」
「では、失礼します」
「有難う、お疲れさん」
優子は清水に軽く頭を下げて、部屋を出て行った。
優子は小さい頃に父親を亡くし、美容院を営む母とその実母である祖母の、二人の女手で育てられた。
優子は小学校に入って直ぐ、母親が土日祝日も仕事をしていることを初めて知った。母は大きな総合ブライダル施設と契約していたので、早出や居残りがしょっちゅう有り、特に世間が休みの日には多忙を極めた。大安の休日には、朝一番から挙式する花嫁の着付けと美容の為に早朝の暗いうちから出かけて行った。他の子供達が家族と一緒に団欒する休日を優子は何時も祖母と二人で過ごした。
父親が居ないことで優子が寂しがったりするのは不憫だと、気丈な母は時として父親の役割も果たしたし、男親の居ない娘は駄目だと世間から後ろ指を指されることの無いよう、挨拶等の礼儀作法や時間厳守、整理整頓等の躾については厳しく教え込んだ。又、読書や絵画鑑賞等で教養を深めることにも力を注いで、学校は幼稚舎から大学までカトリック系の一貫教育を実施している女子学園に通わせた。優子はそんな母に感謝しているし、少し淋しくはあっても、自分は幸せだと思っている。温かい中にも厳しく躾けられた優子は素直で温和な飾らない性格に育ち、知性と品性を備えている。聖母マリアを模範と仰ぎ敬愛するカトリック系の女学園で知育と徳育を受けた優子は、人に共感し人を受容する感性豊かな女性に成長した。彼女は、人と自分、物と自然の全てに敬意を持って向き合い、心を開いて人や社会に対して敏感な感性を培うよう、毎日心がけて暮らしている。
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