人生の時の瞬

相良武有

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第2話 冬の木洩れ陽

①裕次と真知子

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 裕次が仕事場に隣接した食堂に入って行くと、テーブルに座って真知子が塩茹でした落花生の殻を割って豆を取り出していた。隅の冷蔵庫の扉を開けて冷やしておいたペットボトルの水を一口飲んでから、裕次は真知子に声を掛けた。
「いつまでも暑いですね」
「そうね。しつこい残暑だわねぇ」
応えながら、真知子は豆の入った小鉢を差し出して裕次に勧めた。
「どう?ちょっと食べてみない?美味しいわよ」
裕次は差出された小鉢から二粒、三粒を摘まんで口の中へ放り込んだ。
「おっ、こりゃ旨い!なかなかいけますね」
「でしょう。ビールにぴったりなのよね。父の大好物なのよ」
それから話題を替えるように訊ねた。
「仕事はもう終わりなの?」
「親方が、切りの良いところで今日は終いにしよう、っておっしゃるので」
裕次は、食堂の開いた窓の向こうに拡がる空き地に眼をやった。乾いた土とその先の家々の屋根や壁に西陽が紅く照りつけている。陽は食堂にも斜めに差し込んで来ていた。
「未だ明るくて帰るには早過ぎるような気もするんですが」
裕次はそう言いながら冷たい水をもう一口飲み込んだ。
「その後、身体の具合は如何です?」
裕次は腰を屈めて真知子の顔を覗いた。
 真知子は親方の娘で日本橋の呉服問屋に嫁いでいたが、身体の調子を崩して実家に養生に帰っていた。と言っても、寝込むほどの病人ではなく、気分の良い時には家の仕事を手伝ったりしていた。親方も女将さんも何も言わないが、裕次や他の職人たちは、真知子は心の病、鬱病だろうと思っていた。
 真知子は裕次より一つ歳上で、裕次が高校を卒業した十八歳で錺簪師の「亀甲堂」へ内弟子として住み込んだ時には、輝くように若くて健康な大学二年生だった。元気の良い口をきき、十人並み以上の容姿で颯爽と闊歩していた。真知子が二十五歳で嫁に行った時には、裕次は家の中から不意に明るいものが消え失せた気がしたことを憶えている。今、二十九歳になった真知子は、綺麗さだけを言えば、娘の頃よりももっと綺麗になっていた。肌が抜けるように白く、身体の線も硬いものがとれて胸も腰も艶めかしくなっている。だが、その美しさは、何処かに痛々しいものを感じさせた。
真知子は余り口数を話さず、家の手伝いをしている時も静かに振舞っていた。
「それが、余り良くもないのよ」
真知子は俯いたまま答えた。
「見たところは、病人には見えませんがね」
「見掛け倒しよ、この程度のことをしても、直ぐに疲れるんだから」
真知子は顔を上げて微笑み、それから、唐突に言った。
「裕次さんの処は幸せね」
「どうしてですか?」
「裕次さんも奥さんも丈夫で、一生懸命に働いてさ。独立して自分の工房を持とうって意気込みなんでしょう。裕次さんを見ていると羨ましくなって来るわ」
「なぁに、今に真知子さんだって健康を取り戻しますよ。そうなって戻って来るのをご亭主が首を長くして待って居られますよ、きっと」
屈めた腰を延ばしながら裕次は言った。
「待ってなんか居るもんですか・・・」
真知子は小声でそう言うと、又、俯いて落花生の殻を割り始めた。
心の病は長引くと言うからな・・・
 裕次は「亀甲堂」を出て駅への道を歩きながら、真知子のことを考えた。昔の真知子とは違う別の女性と話して来たような気持が残っていた。
人間はなかなか思うようには行かないもんだな・・・
真知子は下に妹一人、弟一人の三人姉弟の姉で、裕次が「亀甲堂」へ入った頃には既に親方の仕事は繁盛していたので、何の不自由もない娘時代を過ごした。そして、錺簪の仕事と繋がりの有る呉服問屋の長男と恋に落ちて結婚した。その侭、呉服問屋の嫁でずうっと行く筈のところが結婚して二年ほどが経った頃から身体の調子が悪くなった。子供も生まれず、今は実家に帰されている。
 
 由紀の奴もあまり長く働かせちゃおけないな・・・
裕次は七年で内弟子生活を終えてマンションに独り住まうようになった。そして、以前から好き合って交際っていた由紀と結婚した。結婚した後も由紀はそのまま仕事を続けている。三、四年は共働きで金を貯め、裕次が独立して自分の工房を持てるまで二人で頑張る心算でいる。
然し、働き過ぎて身体を壊しちゃ元も子もない、いつまでも働かせておいちゃ由紀が可哀そうだ、と裕次は思った。
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