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第三話 転生
⑩日本のプロ野球で唯一の女性コーチ
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数年後・・・
日本のプロ野球で、史上初めて、ユニフォームを着てベンチ入りしている唯一の女性コーチが居た。大野(旧姓小宮)由香である。彼女は引退後にアメリカへ渡ってスポーツ心理学の博士号を取得し、メジャーリーグでコーチを務めた経験を持つ。独立リーグでコーチを務めた後、アスレチックスの育成リーグでもコーチをし、メジャーリーグ史上初の女性コーチとして話題になった。男子選手は女子コーチの言うことなど誰も聞かない、と言われながら、その批評を覆すようにキャリを積み重ねて近年までやって来た。アスレチックスなどでの彼女の仕事ぶりを高く評価した日本の名監督が、スタッフの一員として彼女をチームに迎え入れた。京都に本拠を置き、歴史と伝統に輝く老舗球団の今のチーム「京都スターズ」である。
大野由香は、ハートが伴わない野球は面白くも愉しくもない、と思っている。彼女は、金と自分のステータスだけを求めて野球をする選手はモチベーションもパフォーマンスも持続しない、と確信している。彼女は、チームプレイの重要さ、苦痛に耐えてプレイすることの意味、人間性の尊重、敵に対する敬意、自己犠牲の崇高さ、等々を説いた。
「世界のホームラン王の蒋王貞、天才打者川島茂、鉄腕投手の稲村久志、リリーフエースで優勝請負人の江嶋譲、彼等は皆、この国の野球のヒーローなの。彼等は二十代半ばの最盛期にはアメリカ大リーグでも十分に通用する実力を備えていた。でも彼等は日本を出なかった。チームの為、仲間の為、ファンの為に、自己を犠牲にしてプレイする日本の野球を誇りにしていたの」
聞いている若い選手が反論した。
「それじゃまるで、教会の牧師から聞かされる説教も良いところじゃないですか。何だかんだと言っても、所詮、野球は野球にしか過ぎないんですよ」
「アメリカでは野球愛はもはや影が薄いのよ。野球は今や、単なる一つのビジネスに過ぎない。自分に最大の金額を払ってくれるチームの中で、選手は自分の為にプレイをする。忠誠心なるものは其処には一切介在しない。同僚の選手に対しても、本拠地の町に対しても、オーナーや監督に対しても、ね。オーナーや監督の方でも、選手に対する信義などに重きを置かない。選手はただ彼等に自分の技術を売りつけるだけ、そして、個人的な緊張はプレイの中で発散するのよ。オーナーはそれと引き換えに選手に金を払い、切符を売る。そうして全てが進行して行く。それが現代のアメリカ大リーグにおける野球なの。選手は、今年はニューヨークでヤンキースの為にプレイし、来年はミルウオーキーに移るかも知れない。そして、その次は・・・という具合にね」
由香をチームに迎え入れた監督の名は名高達雄。歳の頃は五十五、六歳、口数は少なく、日焼けした精悍な顔をして目つきは鷹のように鋭い。現役時代は三冠王、首位打者、ホームラン王、打点王に何度も輝いた名選手。監督になってからもリーグ優勝と日本一を幾度も制覇し、最優秀監督賞や正力松太郎賞も受賞している。その球歴は将に燦然と輝くものであった。
監督は自分の意向を周知徹底させていた。則ち、勝利こそが全て、という姿勢である。監督のチーム造りは、他球団の強力な主軸をマネーゲームで集めて来るのではなく、一年間補強を凍結して全員を横一線で競わせ、ハードな練習で個々の選手の能力を底上げして行く、そういうものであった。
或る時、主力選手の一人である山岡毅がスランプに陥って迷い出し、打てなくなった折に名高がアドバイスした。
「ピッチャーは特定の球種を待たれるのが一番嫌なんだ。お前みたいにころころ狙い球を変えていたら一生打てないぞ」
彼は言った。
「三冠王を取ろうと思えば、打撃の三兎を追って三兎を得る勢いでやらなければ駄目だ。俗に、二兎を追うものは一兎をも得ず、と言うが、野球選手はそんなことを考えてはいけないんだ」
その山岡が室内練習場での長時間にわたるバッティング練習を終えた時、指が感覚を失ってバットから離れなくなってしまった。と、監督が物陰から姿を現し、指をゆっくりと一本一本バットから離して行った。監督は彼の練習をずっと見守っていたのである。この時から山岡は名高監督に私淑した。
又、或る日、合宿所の隣にある雨天練習場で一人の投手が投球練習をしていた。
「何度言ったら解るんだ。ミットから目を離すな。もっと自信を持って投げろ!」
名高の声が響く。その声に委縮した訳でもあるまいが、投手の投げた球がホームベースでワンバウンドして捕り損ねたキャッチャーの背後に転がった。
「蓑田!」
名高が投手の名を呼んで立ち上がり、帽子を脱いで俯いている投手の方へ歩いて行った。顔が紅潮している。
「儂は今の投球を怒っているんじゃないぞ、儂に怒鳴られたくらいでビクつくお前の性根を怒っているんだ。バッターの頭に向かって投げろと言われたら、頭ごとぶっ飛ばす心算で投げるんだ。打者だって生きるか死ぬかで向かって来るんだぞ。良いか、野球はピッチャーのお前から始まるんだ。お前がそんな女々しい性根なら、バックの八人もベンチもスタンドも全員が女々しい野球をやらされるんだ。このチームにはそんな選手は一人も居ないんだ」
「はい」
「もっと大きな声で返事をしろ!」
「はい!」
名高は俯いている蓑田の、グローブに入っている方の手を見た。手首に赤と白で編んだ紐が巻き付けてあった。
「何だ、それは?」
「はっ、これは・・・」
「はっきり言え!」
「高校の時からずっとしているものです。これをつけて居て、甲子園で勝てましたし神宮でも勝てましたから」
「外せ!」
蓑田が監督を見た。
「外せ。そんなものに頼ろうとするからお前は駄目なんだ。外せないならさっさと神宮へ帰れ」
名高は蓑田の手を捕ってその紐を引き千切ろうとした。その時、背後から腕を掴まれた。
大野由香だった。
「何だ!」
「監督さん、そのくらいにしてやって下さい。彼もよく解っています。蓑田はどうしてもリーグ優勝したくて、古いジンクスの紐まで持ち出して来たんです」
「儂がこういうことを好かんことを・・・」
「解っています。私が、自分がそうしたいのならしなさい、と言ったんです。彼も必死でやって居ますから、どうか後しばらく、見て居てやって下さい」
「なぁ蓑田。新人だろうがベテランだろうが年齢はグランドに立てば関係無い。一つでも多くアウトを取れる奴を儂は使う。力の有る奴がこのグランドに立つことが出来るんだ、解るな」
名高はそう言って練習場を引き揚げて行った。
日本のプロ野球で、史上初めて、ユニフォームを着てベンチ入りしている唯一の女性コーチが居た。大野(旧姓小宮)由香である。彼女は引退後にアメリカへ渡ってスポーツ心理学の博士号を取得し、メジャーリーグでコーチを務めた経験を持つ。独立リーグでコーチを務めた後、アスレチックスの育成リーグでもコーチをし、メジャーリーグ史上初の女性コーチとして話題になった。男子選手は女子コーチの言うことなど誰も聞かない、と言われながら、その批評を覆すようにキャリを積み重ねて近年までやって来た。アスレチックスなどでの彼女の仕事ぶりを高く評価した日本の名監督が、スタッフの一員として彼女をチームに迎え入れた。京都に本拠を置き、歴史と伝統に輝く老舗球団の今のチーム「京都スターズ」である。
大野由香は、ハートが伴わない野球は面白くも愉しくもない、と思っている。彼女は、金と自分のステータスだけを求めて野球をする選手はモチベーションもパフォーマンスも持続しない、と確信している。彼女は、チームプレイの重要さ、苦痛に耐えてプレイすることの意味、人間性の尊重、敵に対する敬意、自己犠牲の崇高さ、等々を説いた。
「世界のホームラン王の蒋王貞、天才打者川島茂、鉄腕投手の稲村久志、リリーフエースで優勝請負人の江嶋譲、彼等は皆、この国の野球のヒーローなの。彼等は二十代半ばの最盛期にはアメリカ大リーグでも十分に通用する実力を備えていた。でも彼等は日本を出なかった。チームの為、仲間の為、ファンの為に、自己を犠牲にしてプレイする日本の野球を誇りにしていたの」
聞いている若い選手が反論した。
「それじゃまるで、教会の牧師から聞かされる説教も良いところじゃないですか。何だかんだと言っても、所詮、野球は野球にしか過ぎないんですよ」
「アメリカでは野球愛はもはや影が薄いのよ。野球は今や、単なる一つのビジネスに過ぎない。自分に最大の金額を払ってくれるチームの中で、選手は自分の為にプレイをする。忠誠心なるものは其処には一切介在しない。同僚の選手に対しても、本拠地の町に対しても、オーナーや監督に対しても、ね。オーナーや監督の方でも、選手に対する信義などに重きを置かない。選手はただ彼等に自分の技術を売りつけるだけ、そして、個人的な緊張はプレイの中で発散するのよ。オーナーはそれと引き換えに選手に金を払い、切符を売る。そうして全てが進行して行く。それが現代のアメリカ大リーグにおける野球なの。選手は、今年はニューヨークでヤンキースの為にプレイし、来年はミルウオーキーに移るかも知れない。そして、その次は・・・という具合にね」
由香をチームに迎え入れた監督の名は名高達雄。歳の頃は五十五、六歳、口数は少なく、日焼けした精悍な顔をして目つきは鷹のように鋭い。現役時代は三冠王、首位打者、ホームラン王、打点王に何度も輝いた名選手。監督になってからもリーグ優勝と日本一を幾度も制覇し、最優秀監督賞や正力松太郎賞も受賞している。その球歴は将に燦然と輝くものであった。
監督は自分の意向を周知徹底させていた。則ち、勝利こそが全て、という姿勢である。監督のチーム造りは、他球団の強力な主軸をマネーゲームで集めて来るのではなく、一年間補強を凍結して全員を横一線で競わせ、ハードな練習で個々の選手の能力を底上げして行く、そういうものであった。
或る時、主力選手の一人である山岡毅がスランプに陥って迷い出し、打てなくなった折に名高がアドバイスした。
「ピッチャーは特定の球種を待たれるのが一番嫌なんだ。お前みたいにころころ狙い球を変えていたら一生打てないぞ」
彼は言った。
「三冠王を取ろうと思えば、打撃の三兎を追って三兎を得る勢いでやらなければ駄目だ。俗に、二兎を追うものは一兎をも得ず、と言うが、野球選手はそんなことを考えてはいけないんだ」
その山岡が室内練習場での長時間にわたるバッティング練習を終えた時、指が感覚を失ってバットから離れなくなってしまった。と、監督が物陰から姿を現し、指をゆっくりと一本一本バットから離して行った。監督は彼の練習をずっと見守っていたのである。この時から山岡は名高監督に私淑した。
又、或る日、合宿所の隣にある雨天練習場で一人の投手が投球練習をしていた。
「何度言ったら解るんだ。ミットから目を離すな。もっと自信を持って投げろ!」
名高の声が響く。その声に委縮した訳でもあるまいが、投手の投げた球がホームベースでワンバウンドして捕り損ねたキャッチャーの背後に転がった。
「蓑田!」
名高が投手の名を呼んで立ち上がり、帽子を脱いで俯いている投手の方へ歩いて行った。顔が紅潮している。
「儂は今の投球を怒っているんじゃないぞ、儂に怒鳴られたくらいでビクつくお前の性根を怒っているんだ。バッターの頭に向かって投げろと言われたら、頭ごとぶっ飛ばす心算で投げるんだ。打者だって生きるか死ぬかで向かって来るんだぞ。良いか、野球はピッチャーのお前から始まるんだ。お前がそんな女々しい性根なら、バックの八人もベンチもスタンドも全員が女々しい野球をやらされるんだ。このチームにはそんな選手は一人も居ないんだ」
「はい」
「もっと大きな声で返事をしろ!」
「はい!」
名高は俯いている蓑田の、グローブに入っている方の手を見た。手首に赤と白で編んだ紐が巻き付けてあった。
「何だ、それは?」
「はっ、これは・・・」
「はっきり言え!」
「高校の時からずっとしているものです。これをつけて居て、甲子園で勝てましたし神宮でも勝てましたから」
「外せ!」
蓑田が監督を見た。
「外せ。そんなものに頼ろうとするからお前は駄目なんだ。外せないならさっさと神宮へ帰れ」
名高は蓑田の手を捕ってその紐を引き千切ろうとした。その時、背後から腕を掴まれた。
大野由香だった。
「何だ!」
「監督さん、そのくらいにしてやって下さい。彼もよく解っています。蓑田はどうしてもリーグ優勝したくて、古いジンクスの紐まで持ち出して来たんです」
「儂がこういうことを好かんことを・・・」
「解っています。私が、自分がそうしたいのならしなさい、と言ったんです。彼も必死でやって居ますから、どうか後しばらく、見て居てやって下さい」
「なぁ蓑田。新人だろうがベテランだろうが年齢はグランドに立てば関係無い。一つでも多くアウトを取れる奴を儂は使う。力の有る奴がこのグランドに立つことが出来るんだ、解るな」
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